第17話
槙野は聡一郎と繭実に断りを入れ、類以を連れて散歩へと出かけて行った。荻野の瞳は随分と腫れぼったくなっている。
「類以が1歳の誕生日を迎えてから、猛との間にもう1人の子供が欲しくて頑張ってた。でも、ちょっと色々あって上手くいかなくてね、友達に教えてもらった病院で検査したの。そしたら私にも猛にも問題があったから、今2人とも治療受けてる段階なの」
「そうだったのか」
「産みたい気持ちはあっても、身体はその気持ちには応えてくれない。血の繋がった子供を育てたいと思っても、その願いは叶わない。私の場合は治療すれば猛との間に子供をつくることはできるけど、お姉ちゃんの場合はその段階にもいけなかった。だからお姉ちゃんは里親制度を利用して、大好きな子供と親子関係を築こうと思ったんだよ」
「ゔんんっ」
咳払いなのか唸っているのか分からない声を出した聡一郎。繭実は当時のことを思い出し、静かに涙を流す。
「母さんは、このこと知っていたのか?」問い質すように尋ねる聡一郎に、繭実は小さく首を振る。それと同時に、はぁ、と溜息をつく。
「どこまで知ってたんだ?」
「あの子が子供を産めない身体で、でも子供が欲しいから里親になろうと思っている。そこまでよ」
「じゃあ、なんで私に何も言わなかったんだ。相談してくれたってよかっただろ」
「お父さんには言わないでって、あの子に口止めされてたからよ」
「そんな理由で俺には何の相談もしなかったのか」
「そうよね。でも、もしあの子から相談されていたとして、聡一郎さんは何て言うの? 頑張れって励ますだけ? それとも叱って反対するだけ?」
「さぁ。どうだろうな」
「あの子ね、『お父さんに相談しても叱られて、治療頑張れって励まされて終わりだ』って言ってたの。それ以上の言葉が帰って来るわけでもない。そのことをあの子は見抜いてたのよ。だから聡一郎さんには相談しなかったんだと思うわ」
聡一郎は何も言えないといった様子で口を噤む。背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見る。娘の隠していたことを知ったとて、全体を通してあまり動じてはいなかった。どこまでも我が道を突き進んでいく。そういうところが落ちのも姉も幼少期の頃からずっと苦手だった。今でもその性格は変わらない。だから姉が相談しなかったことにも、納得できる。
「ねぇ、お父さん」
「なんだ」
「この話を知っても、お父さんはお姉ちゃんの気持ちを踏みにじれる?」
「・・・」
「それでも里親とか養子縁組とか、そういう制度に反対の意見を示せる?」
「・・・」
私やお姉ちゃんだけじゃない。そういう人たちのことも敵に回してるんだよ。分かってる?」
「・・・、そうだな」
あまり納得していないままに、ただ相づちを打つ聡一郎。荻野はそのことを見越して更に口を開き、自分の思いを語り続ける。
「私も猛も最初は自分たちの子供を産んで育てるつもりだった。でもね、類以を育てるなかで血縁関係なんて関係ないんだって気付いた。血の繋がりがなくたって親子になれるんだって改めて思えたの。街を歩いていて、『あぁ、あの子は両親と血が繋がってる』『あぁ、あの子は両親と血の繋がりがないんだ』って分かるわけもないし、子供見る度にそんなこと思わないでしょ?」
「あぁ、まあ、うん。そう言われればそうだな」
「お父さんとお母さんに類以を養子として迎え入れたことを今日まで黙ってた。そのことは謝るべきことだと思ってる。それに、類以のことを私たちの息子だって認めなくてもいい。でもね、類以のことをちょっとでも愛してくれたら嬉しい。それだけでも心が救われる」
荻野はさっきまで槙野と類以が座っていた椅子の座面を優しく撫でる。まるでそこに愛する夫と息子がいるみたいに。
「私は茉菜の気持ちが分からなくもない。確かに黙って子供を育ててたことに対しては・・・、ごめん。怒りたい。でも、養子を迎え入れたことに関しては反対したくないし、怒りたくもない。だって、茉菜と猛君は小さな命を未来に繋いであげているんだもん。子供の教育に携わる立場として、お母さんがあなたたちのことを責める権利はない」
「お母さん」
「聡一郎さんも、いつまでも意地張ってないで、そろそろ素直になったらどうなの? このまま類以君と猛君とお別れしてもいいの?」
「それは・・・、まあ良くはないな」
「そうでしょ? それなら―」
「私も類以君の存在自体を否定したくはない。尊い生命なんだからな」
「うん」
「でもな茉菜、どういう考えや気持ちがあったとしても、両親に黙って養子を迎えて、それでその子を育てていたことに関しては、私は父親として、茉菜のことをちゃんと叱りたい」
「うん。それは、ごめん」
荻野は誠心誠意謝る。冷房が付けられている空間なのに、緊張のあまり額にはじんわりと汗が滲んでいく。普段家族に見せている優しさの中に秘められた、一家の大黒柱としての誇りと芯の強さ。初めて父の威厳の強さを思い知った気がした。
「茉菜、謝るんじゃなくて態度で示しなさい。それは今じゃなくていい。いつか、答えが見つかったそのときに私と繭実に見せてくれればいい。それまで、私は類以君のことを孫としては認めない」
「はい」
「でも、いつでもここへ帰って来なさい。茉菜と猛君にも会いたいし、類以君は可愛い男の子じゃないか。久しぶりに小さな子供と戯れてみたいからな。ハハハ」
「えっ、いいの?」
「あぁ。まあ距離的に近いところじゃないからな、こっちに来る用事があるときでいい。それに、お姉ちゃんにも会いに行ってやりなさい。しばらく行ってないんだろ?」
「うん。今日はもう時間的に行けないから、今度行ってくる。だから今日は仏壇にだけ挨拶する」
「そうね。今日はそれでいいと思う。お姉ちゃんはそんなことで怒るような子じゃないから」
「そうだね」
リビングの一角に置かれた小さな仏壇。そこには顔を綻ばせている姉の写真が飾られている。あとで手を合わせよう。そして報告しよう。特別養子縁組で結ばれた男の子と暮らしていることを。