第16話
ワイワイとした雰囲気の中食べたお昼ご飯。荻野は繭実とキッチンに並んで立ち、食器洗いを始める。男性陣の様子を遠目で見ながら、流れる水道水に掻き消されない声量で、荻野はこう訊いた。
「ねぇ、お母さん」
「何?」
「お父さんってさ、まだあのことに関して文句言ったりしてるの?」
「そうねぇ。昔よりは頻度が減ってるけど、スイッチが入れば、昨日のことのように怒り口調で言ったりしてる」
「そっか」
「たぶん、やりきれない気持ちでいっぱいなんだと思う。だから、私も何も言わないようにしたの。喧嘩したくないし、言ったところで戻って来るわけじゃないからね」
「うん」
蛇口に手を近づけて止めていた水を出し、洗剤を流していく。
「茉菜は、お姉ちゃんのことを忘れたわけじゃないんでしょ?」
「忘れてないけど」
「じゃあ、どうして養子なんて」
「それは・・・」
雰囲気に耐えられず思わず蛇口を止める。そして、類以が使ったプレートを手に持ったまま、隣に立つ繭実を見つめる。
「ん?」
「・・・、ううん。何でもない。ごめん。理由あとでもいい? まだ気持ちの整理がついてなくて」
「そっか。分かった。理由は茉菜の口から聞きたいから、それまで待とうかね」
「ごめんね。ありがとう」
「よ~し、さっさと洗い物終わらせて、遊ばせてもらおうかな」
繭実は七分丈の袖を上まで捲り上げ、食器についた洗剤を流していく。荻野は、やる気に満ちた母親の姿を横目に、洗い終わった食器を水切りラックに並べていった。
女性陣が家事をしている中、聡一郎は槙野との談笑を終えたあと、昼のニュースを観始めていた。類以は懸命に腕を伸ばし、テーブルの上に置かれているエアコンのリモコンを触ろうとするが、槙野によって阻止されてしまい、がっかりしていた。
そんな槙野に、荻野は聡一郎には聞こえない声量で、「猛、ちょっといい?」と口にする。
「どうしたの?」
「あのね、類以が養子だってこ聞いたら、お父さんの態度が一変するかもしれない」
「えっと、というのは?」
「ちょっと、過去のことで色々あって。今は詳しく言えないんだけど」
「ふーん、そっか。分かった。また落ち着いたら話聞かせてよ」
「うん」
「俺は、お義父さんの態度が変わっても大丈夫だよ、どれぐらい変わるかにもよるけど・・・、ハハハ」
「ふふふ。ありがとう」
聡一郎の態度がどこまで変わるかは家族でも予想ができない。イチかバチかで向き合うしかない怖さはあるが、類以のことを認めてもらいたい一心で、姉の存在を忘れているわけではないことを証明したくて、勇気を出して「お父さん」と呼びかけた。
「今、茉菜が呼んだか?」
「そうだよ」
「なんだ?」
「あのね、お父さんに伝えないといけないことがあるんだ。こっち来てくれないかな」
音を立てずそっと椅子に座る繭実。一方で聡一郎は重たそうな腰を上げ、面倒そうに椅子めがけて歩み寄って来る。
「わざわざ面と向かって言わなきゃいけないことなのか」
「うん」
「にしても、茉菜、神妙な顔してるな。何かあったのか?」
「・・・」
よいしょ、と大きな声で言いながら椅子に腰かける聡一郎。たるんだ目元の筋肉。そして、大きく動く黒目。怯えだした類以は、槙野にしがみつく。
「実はね、お父さんとお母さんに謝らないといけないことがあるんだ」
「謝る? どういうことだ?」
「あのね、実は、類以は私と猛との間にできた子供じゃないんだ」
「ん? もう1回言ってくれ。よく聞き取れなかったんだが」
「類以とはね、特別養子縁組で結ばれた関係性なんだ」
全てを察した聡一郎。静寂の中で怒りの火を燃やす。
「茉菜、どういうことだ。説明しなさい」
「類以はね、私たちが暮らしてるシェアハウスの庭に独りでいたの。小さなカゴの中に毛布にくるまれた状態で。中には両親が書いたと思われる手紙も入ってた。そこに、類以っていう名前と誕生日が書かれてあったの」
「ん・・・、ということは、私に嘘をついたということだね、猛君」
酷く睨みを利かす。槙野は少しだけ肩をすくめ、「はい。申し訳ございません」と謝る。
「はぁ。嘘をつかれるとはとても不愉快だね」
「聡一郎さん、話を最後まで聞きましょうよ。きっと理由があってのことだと思うんだけど」
「そんなもんは知らん。私は血縁関係がない孫は受け入れんぞ」
「流石に言い過ぎなんじゃ・・・」
「いいや、言い過ぎでもなんでもない。認めないぞ」
「ちょっと・・・」
類以は見知らぬ男の人が大声を出していることに驚き、槙野の胸筋辺りで何度も顔を擦る。
「茉菜は血縁関係の大事さについて気付いていないようだな」
「血縁関係って、そんなに大事なの?」
「当たり前だろ。私たちが代々受け継いできた血が、茉菜で止まってしまうんだぞ」
「だから何なの。途切れさせるなって言いたいの?」
「違う。そういうことじゃない。私が言いたいのは、茉菜のお姉ちゃんのことだ」
「今お姉ちゃんの話は関係ない―」
「・・・茉菜、お姉ちゃんのことを忘れたわけじゃないよな」
重いトーンで言う聡一郎。繭実と同じことを聞かれた荻野。唇にぐっと力を込める。
「・・・、忘れられるわけないでしょ」
「じゃあ、どうして養子なんて―」
「類以のことを愛しているからだよ」
「フンッ、そんな理由か」
「そんな理由じゃダメなの? 私は、猛と一緒に類以のことを守ってあげたかったの。自分が産んだ子供じゃないのに、可愛くて仕方ないの。だから養子に迎えた。この理由に駄目な点があるわけないでしょ」
「はぁ」聡一郎は大きな溜息を1つ吐く。荻野の言うことに対して完全に呆れている様子だった。それを見て、荻野も段々と怒りの感情を積み重ねていく。
「じゃあ訊くけどさ、お父さんはどうしてお姉ちゃんが里親になりたかったか知ってるの?」
「・・・・・・。そんなもんは知らん」
「知ろうとしてないだけでしょ」
「断じて違う。私は何も訊いとらんだけだ」
「嘘言わないでよ」
「今嘘を言うわけないだろ」
「・・・・・・・」
繭実は静かに項垂れる。理由を知るからこその行為だった。
「茉菜こそ、その理由知っているのか?」
「うん」
「じゃあ、どういう理由だ?」
「・・・・・」
「・・・・・」
姉が隠し続けたことを伝える。たったそれだけなのに、口を開こうとするも呼吸が苦しくなっていく。声も思うように出せない。
そんな荻野の心情を知らない聡一郎。黙りこくる荻野に痺れを切らし、ついには「やっぱり知らないんじゃないか」と口を挟んだ。咳ばらいをし、空気を支配しようとする。しかし、聡一郎の発言が荻野の心を燃やした。
「お姉ちゃんはね、子供が産めない身体だったの。でも子供のことが好きだから、諦めきれなくて里親になることを選んだの。それが理由だよ」
聡一郎は隣に座る繭実に視線を向ける。すると繭実は「茉菜の言う通りよ」と言って頷いた。動揺の渦に巻き込まれた聡一郎。そこに付け込むように、荻野は厳しめの口調で語り出す。
「大事な娘のことなのに、お父さんはお姉ちゃんのこと何にも知らないんだね。なのに、お姉ちゃんが死んでから、お父さんは頭ごなしに里親とか養子縁組とかは駄目だって言い続けてたんだ。そんなの、お姉ちゃんが可哀想。お姉ちゃんの気持ちを踏みにじってる」
「そんなわけないだろ! 私はな―」
「私は、お姉ちゃんの代わりにはなれないけれど、血の繋がりがない子供の親になるっていう夢を、お姉ちゃんと一緒に叶えたの」
目頭が熱くなっていく。瞳には涙が溜まっていく。
「類以を見たときにね、お姉ちゃんの気持ちが何となく分かった気がしたんだ。・・・私もそうだったから」
そして、瞬きをした瞬間に、ボロボロと大粒の涙がこぼれていった。
「茉菜・・・・?」
とても正常とは言えない荻野の状態に、隣に座る槙野が心配そうに顔を覗き込む。そして小さな声で「大丈夫?」と尋ねる。大丈夫と言いたいところだったが、荻野は力ない笑みを浮かべることしかできなかった。
「俺、ここにいないほうがいい?」
コクリと首を縦に振る荻野。槙野は静かに「そっか」と、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「ごめん。ちょっとね、猛にはまだ聞かれたくない」
「うん。分かった。類以がさっきから少しだけ退屈そうにしてるからさ、気分転換も兼ねて散歩行ってくるよ」
「うん。ありがとう」
槙野は床に類以を座らせて、着替えや消耗品を入れているリュックサックを軽々と背負う。
類以はその場から見上げるようにして、涙を流す荻野のことを静かに見続けていた。