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第9話

 数分後、ガチャと音とともに顔を覗かせたのは槙野。どことなく疲れているような表情をしていた。


「猛・・・」

「うん。来ていいよ」


限界部分まで開けられた扉。槙野が無人のベビーカーを軽々と持ち上げて中へと入る。荻野は類以を抱いたまま扉の前に立った。


「お邪魔します」冷気が荻野の身体をふわっと包み込む。


「いらっしゃい」柔らかく穏やかな声質だった。美しい召し物に身を包んだ女性が、少し腰を屈める形で立っていた。


「こんにちは」

「こんにちは。よく来てくれたわね」目尻に刻まれた数本の深い皺。黒色に近い茶色の頭髪。髪の結んだところにはかんざしがさされている。訊いていた年齢よりも随分と若く見えるこの女性が、槙野の母親だなんて。


ちょっとした圧を感じつつ、荻野は普段よりも落ち着いた声を出す。


「改めまして槙野茉菜と申します。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ございません」

「いいえ。気にしていませんから。槙野の母の靖子やすこです。茉菜さん、会えて嬉しいわ」

「私も、お義母かあ様にお会いすることができて光栄です」


 槙野は類以が悪さしないように、腕と足をしっかりとホールドして見張る。荻野は終始とても丁寧な言葉遣いを心掛けていた。初めて直接会う義母。とにかく失礼がないようにと常に緊張感を持ち続ける。


「猛、可愛らしい女性を捕まえたじゃないの」

「捕まえたって・・・、うん。まぁ、はい」


靖子の言葉選びのセンスに戸惑いつつも、とりあえず頷く槙野。フラットに言葉を交わせる関係性には未だなれていなかった。そんな靖子は槙野にべったりとくっつく類以に視線を移す。


「この子は?」

「あぁ、うん」

「うん、だけだと分からないでしょ」

「ごめんなさい」

「で、誰なの?」

「類以、1歳2か月の男の子です」

「1歳って、ちょっと猛―!」鋭い視線を向ける。


「詳しいことはあとで、俺の口から説明させてもらいます。なので、それまでは待ってもらえませんか」

「・・・そう。何かしらの事情があるようね。まぁいいわ。ささっ、茉菜さん、お上がりになって」

「あ、あの、お義父とう様にもご挨拶をさせていただきたいのですが」

「リビングにいますよ。ご案内しますから、どうぞ」

「あっ・・・。ありがとうございます」


 半ば強引にリビングへと案内された荻野。類以に履かせていた靴を脱がせ、再び抱き上げた槙野。自分の脚で歩いてくれれば楽だが、それがまだできない今、四足歩行だけで活発に動かれては困るため、そのまま荻野のあとを追う形でリビングへと続く廊下を歩いた。


リビングへとつながるドアが開けられる。洗練された家具が配置されているその中に置かれたソファに凭れ、テレビを大音量で視聴する白髪交じりの髪を触る男性の姿があった。


「親父、ただいま」荻野よりも先に槙野が声を掛ける。しかし、視線を合わせようとせず「おう」と呟くだけの父親。動こうとしない。


槙野が困っていると、「お父さん、猛が婚約者のかたを連れてきたんだから、挨拶ぐらいしてくださいよ」と面倒そうに靖子が口にすると、んー、と言いながら身体を伸ばしながら腰を上げた。


「お義父様、こんにちは。猛さんと結婚させていただいた荻野茉菜と申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ございません」

「父の慶吾です。猛がお世話になってます」

「いえ。こちらこそ猛さんにはお世話になっております」

「・・・」

「・・・・・・」


 会話に困った荻野は、槙野に促される形で紙袋の中へ手を入れる。


「あと、こちらつまらないものですが、気に入っていただけますと幸いです」

「ほぉ」


草花がデザインされた包装紙で包まれた箱を取り出し、そっと義父の前に出す。


「どうも」そう簡単に言う義父。「わざわざ。お心遣いありがとうございます」と丁寧な言葉で言う義母。そして微笑みながら箱を受け取る。


「すいません」と軽く頭を下げる荻野。そんな荻野の元へとゆっくりと確実に近づいてくる父親。槙野は荻野のことを後ろからそっと応援する。


「君が、猛の婚約者か」

「はい」


濁った眼で荻野のことをじっくりと舐めるように眺める慶吾。その様子を、固唾を飲んで見守る靖子。槙野は類以を小さく縦に揺らして、機嫌を損ねないように工夫する。


「・・・・・・、うん。見た目は問題なさそうだな」

「見た目って・・・、茉菜は内面も素敵な女性だよ」

「初対面でそんなこと分かるはずがないだろう? 今日を通して茉菜さんのことをしっかり見させてもらうからな」

「分かりました。よろしくお願いします」


 槙野は額に手を当てる。フッと息を吐いたのも束の間、今度は濁った眼は槙野と類以のことを捉えた。


「おい、猛。その子供は誰なんだ」

「あとで猛が説明してくれるみたよ」

「母さんに訊いたわけじゃない。俺は猛に質問したんだ」

「類以。年齢は1歳2か月。詳しくはあとでしっかり説明させて欲しいんです。なので、それまでは―」

「ふぅん。分かった」


腕を組み頷く慶吾。類以は首を回すかたちで慶吾のことを見たのち、すぐに槙野の腕に顔を埋めた。


「立ち話もなんだから、お座りになって」

「ありがとうございます。でも、お先に手を洗わせていただきたいのですが」

「あぁ。でしたら洗面所をお使いになって。猛、案内してあげて」

「はい」


 靖子に指示され、槙野は類以を抱いたまま荻野を洗面所へと案内する。


「なんかごめん」

「何で猛が謝るの?」

「いや、親父の言動で茉菜の気持ちを不快にさせたかなって」

「ううん。大丈夫だよ。私は猛の妻として振る舞うだけだから」

「うん。ありがとう」


廊下突き当りを右に曲がる。そこには広々としたランドリールームとバスルームがあって、その一角に真っ白な洗面所があった。


「それより、猛のほうこそ大丈夫? 類以のこと―」袖を捲ってから蛇口をひねるその途中で、「大丈夫。俺がちゃんと責任もって説明するから。茉菜は類以のこと見てて。今機嫌悪くされても困るし、好き勝手に動かれてもアレだから」と優しい声をかける。荻野は何も言えず、「うん。分かった」とだけ口にした。


 慣れない環境でも動じることなく、自分のペースを貫く類以。血の繋がりがないことを改めて感じさせられる瞬間。槙野は荻野のことをぎゅっと抱きしめた。間に挟まれた類以は少し窮屈そうにしつつも、笑顔を見せていた。

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