甘露
三題噺もどき―よんひゃくろくじゅうなな。
甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる。
ついで、ヒヤリとした風が頬を撫で、目を覚ました。
「……」
開いたはずの視界は、まだ暗い。
朝かと思ったが、まだ夜中だったらしい。
まだ少しぼやける視界の中で、月明かりに照らされた時計が時刻を告げている。
「……」
頭ごと視界を動かそうとすると、首が軋む。
痛みに引き起こされた意識は、次々と体の節々の痛みも訴えてくる。
もっと若い頃はこれぐらいどうってことはなかったのに、年を重ねるとは恐ろしいものだ。
やけに体が痛むと思ったら、どうやらリビングに座り込んで寝ていたらしい。
「……」
ゆっくりと体を起こすと、何かが滑り落ちた。
いつもソファの近くに追いている、お気に入りの膝かけだ。
自分でかけた覚えはないし、そもそもここで寝るまでの記憶が……
「あ、おきた」
声のした方を見ると、見知った顔があった。
先程の甘ったるい匂いの正体もそこにあった。
今日の夜空は、雲一つないのだろうか。
煌々と輝く、月の光に照らされて、ベランダにいたのは。
―昨日久しぶりにあった友達だった。
「起こさないようにしたんだけどな……」
「……」
そういいながら、煙をくゆらせている。
口に含んで、ふわふわと息を吐く。
冬に息を吐くと、白く消えていくように、甘い香りを纏わせた煙は、夜の世界に消えていく。
煙草を口に運ぶその横顔に少々見惚れ、ぼうっとしてしまう。
長年……という程でもないかもしれないが、一方的に煩っている相手に見惚れるのは、当たり前だろう。
「それ……」
「ぁ、これ嫌いだった?」
そういいつつも、手は止めない。
分かっているなら、止めてくれればいいのに。
―とは言わない。
「……」
実際、甘ったるいその香りは、私は好きではない。
喫煙所の側を通るときに、時折混じるその甘い香りだけは嫌いで仕方ない。
幼い頃から身近に喫煙者はいたから、あの苦いようなにおいは平気なのだけど。
あの、甘い、匂いだけは、どうしても無理だった。
鼻につくと言うか、なんというか……べったりと塗りたくられているようで。
「……」
そもそも、彼女が煙草を吸っている姿自体が、あまり好きではない。
いや、確かに見惚れはするけれど、それはそれ。
だってあの煙草は、喫煙者だった元カレに教えられたものだと言っていた。
そんなもの、私が好きなわけがない。
その元カレより先に私の方が。
「……」
寝起きで、思考が上手く回っていない気がする。
危ない、危ない。色々零れ落ちかねない。確かに思い煩ってはいるが、それをどうこうするつもりはないのだから、そういう思考はすぐにしまわなくては。
「……」
未だにベランダに居座る彼女。
よく見れば、私のパジャマを着ていた。
「……」
ようやく思いだしてきたが、昨日はカフェに行った後も色々と出かけて。
彼女は夕方には帰るものだと思っていたら、夜も一緒にご飯食べようとなったので。
近くの居酒屋で2人で飲んで、そのまま宅飲みしようとなったので、コンビニによってから帰ってきて。
着替えがないから私のパジャマを貸したのだった。
「……」
机の上にはコンビニの袋と、スナック菓子が広がっている。
端の方には缶も置かれていたりする。
後で片付けないとな……。
「……」
そう思いつつも、机の上に腕枕を作り、そこに頭を預け、ベランダをぼうっと見る。
よくよく考えたら、彼女が家にくるなんて初めてなんじゃないか。なんだかんだ言って夜遅くまで一緒に居ることなんてなかったから……。なんだか少々くすぐったい。彼女が私のパジャマを着ているのもなんだか……。
「そういえばさぁ……」
「……?」
まだ少し残った煙草を指で支えながら、突然口を開く彼女。
何だろうかと、耳を傾ける。
彼女も寝起きなのか、少々声が低い。
「……」
「……なに?」
声を出した矢先に黙り込んでしまったので、ついこちらの声が漏れた。
聞いてないものと思っていたのか、はたとこちらに視線をよこした。
「……」
それから、手に持っていた携帯灰皿に煙草を押し付け、手で軽く匂いを払う。
ベランダから室内へと戻り、網戸を閉めてから。
私の隣へ、すとん。と座る。
「……」
「……?」
数秒、黙った後。
「……彼氏に振られたんだよねぇ」
「…………っぇ?」
昨日の今日で?
いや、昨日の今日というのは私の感覚なんだけど。それなりに長い間今の彼氏とは続いたはずなのでは。それが昨日聞いた愚痴ものろけも乾かぬうちに振られたと?こんないい子を?……いや違うそういうことじゃない。
そいえば、先程から彼女の携帯の光が明滅しているのは、その彼氏からの連絡だったりするのか?それならばさっさと連絡を返すなり、彼女を家に帰すなりした方がいのか?
いやでも振られたってことは、あっちはもう家にはいないのか?いや同棲はしてないのか。
だとしても、一度話をした方が……いやでも当人同士の問題ではあるし、私が口を出す事じゃない……でも。
「……」
「……っわ」
どうしたものかと思案していると、突然抱き着いてきた彼女。
泣いているのか、少し鼻をすすっているような音がする。
まだまとわりつく甘ったるい匂いが、鼻腔を刺すのもお構いなしに、手を回しながら背中をさする。
するとさらにぎゅうと、力を入れられ、少し苦しいぐらいだった。
「……」
「……」
とりあえずは、彼女が落ち着くまでこうしていよう。
それから話を聞いて、どうするかを決めて。
「……」
「……」
煙草の甘い匂いに混じって、彼女の香りが鼻をくすぐったのが、ちょっとだけ嬉しかったのは内緒にしておこう。
お題:冬・光・喫煙




