他力本願
〇大衆娯楽小説 「笑い神と死神」 献残屋藤吉郎書房
〇「笑い神と死神」
人間世界は面白い、、、ついている人間と運の悪い人がいる。
もって生まれた運の良さ、、、何をしてもうまくいかない運の悪い人。
全く不思議だ。。。
なんでだろう。。。
人にはもしかしたら、初めから、、、「笑い神」と「死神」が要るのかもしれない。
「そうだよ、、、いるんだよ、、、笑い神」が、、、
そして、「死神」も口を開けて待っているんだよ。。。あはあはあは、、、と
人は「笑い神」と「死神」につかれると。。。
この物語は「笑い神」と「死神」の話だ。。。。。
(1)笑いの神と幸福の神が聞いた、、、死神に
笑い神が、、、「おい、、、死神、お前はなぜに、、人を不幸にするんじゃあ」と、、、
すると死神は言った。
「おい、笑い神よ、、、よく聞け、、、この世の人間どもが、誰もが誰でも幸せになっていたら
、誰が幸せかわかないだろう、、、人には良きこと悪きことを知らせることが大事なんだよ。
この馬鹿神が、、、うはははは、、、」
そうしたら、、、笑い神が応えた。。。
「あほぬかせ、、、死神よ、誰もが幸せに、笑っていられるのがいいんじゃあよ」
と言い返した。
死神が言うのには、、、、
「この世には笑いがあり、、、悲しみがあり、、人は初めて、喜怒哀楽をするのじゃわい」
と、、、、どちらの言い分もあるような。
この話を聞いてたこの世の番人がいった。
この世にはいろいろな神がいて、、、人の世を面白、おかしくしておるのだと。。。
二人の神が、その他の神が見た人間模様を。。。。それでは「神芝居の始まり」
(2)この世は笑いあれば、悲しい涙り
人の世は生まれたり、死んだりしている。
そのたびに嬉しがって、お祝いをしては笑みを浮かべ、笑っている。
人が死んでは悲しく泣いたりしているような、、、
この世のきまりかもしれない、、、誰が決めたのだ、、人が生まれれば嬉しいと。。
人が死ねば悲しいと涙を流すと。。。
不思議だな、
決めごとならば、、、そん逆でもいいのではないか。
考えてみれば、おかしい、面白いような、、、、笑ってしまうよ。
全てこの世は誰が決めたのか、、、言葉一つで変わるもの。
もしも、死神がいたならば、、、悪い事実は死神がいてもの申しているのか。。。
笑い神が居れば、いいことは笑い神が言っているのか。。。
言葉ひとつで、なんとでも解釈が出来るのである。
従って人は生きることが大事だ。。。
この世にはいるような、、、あるような。
なんと不思議な世の中だ。
(3)笑い神と死神の間に番人が、、、
人間の世界では、、、人は病にかかるような、、、
その時にいろいろな検査がある、、、そして「死神」が出てくる.
そしじゃ山をて、、、死神が言う、、、「どうだ、、検査前のニフレックは旨いだろう、、、あはあはあは」すると、、、笑い神は泣きそうな顔をして、、、、
「まずいよー、まずいよー、飲まな得れば、、、検査ができない、、、頑張れーーがんばれー」
笑い神はこの野郎と思い、、、死神は様あーみろと言いながら。。喜んでいるような。
この世は二つの神の遊、
死神と笑い神の間の番人に弄ばれているような。。。
今回の病は「糞つまり、、便秘」で記念病院へ救急車で運ばれ、、、次の日に小便が出なくなり、出血して救急車でつくば総合病院へ、、、
そして、検査をする、、、「胃カメラ」「超音波検査、」「エムアール」「大腸カメラ」といろいろだ。その結果で治療、、、、検査が終わるまで7日間、何も食べられない、、、、
つらいーーー
(4)笑い神と福の神、、、人の生きる道を邪魔をする「死神」
人の世の道で、、、思うように生きそうでいかないのがこの浮世だ、、、、
絶食が続き、、、検査が終わり、、、そのあとは、まだ食事ができない、、、「情けない、、」
本当にトホ徒歩だーーー涙が出るよ。
これも罰当たりか、、、普段の行いが悪いのか、笑い神が逃げていく、、、福の神に見放されて、、やってきたのが「死神」だ。。。
笑いを込めて死神が言う、、、「まだまだ、お前には幸せはこないぜーーあはあはあは、、」
死神につかれた人間は、、、腹が立ち「この野郎、、俺の道を邪魔するな、、、どこかへいっちまえーーー」と。
しかし、笑い神も福の神も迎えには来てくれない。
(5)だーれのせいでもありゃしない、、、みんな自分が悪いのよ、、、
人とは面白いものだ、、、なんかついていないことがあると、、、なんとなく人のせいに、物のせいにしたくなるような、、、
更には世の中が悪いとか言って、、、自分の努力の無さや力の無さを忘れている。
そして、挙句の果てには「死神」に取り憑かれて、ついていないとおもうようになり、、、
精神的にくさる、
考えてみれば、、、すべて、、、大体が己が悪いのだ。
世の中の、引きこもりや精神的な悩みも、、、自殺もすべて、みんな自分が悪いのよ、、、、
人はこの世に生まれてから、、、死ぬまでは時間がかかる、、、特別な事故や病でなければ、、、ほどほどに生きられる、
そして、「死神」や「笑い神、福の神」に弄ばれていうような。。。
、、、
(6)馬鹿は死んでも治らい、、、、とか、
言われているが、本当にそうなのか、、、人とは生まれついての馬鹿はいるのだろうか、、、しかし、違うような気がする。
その時の、その環境で、、、、この世の「死神」が人の心を弄ぶような。
浮世の人間が、、、すべてが利口で、聡明なものばかりであったなら、、、どこで、悧巧と馬鹿を分けるのだ、、、
始めから、、「死神」が、、、「お前は馬鹿だ、、、、お前はは悧巧だ」と、、、
分けていてくれれば、分かりやすい
番人が言お会えるだ
(7)他力と自力
この世には「他力本願」という、、、宗教言葉がえある、、、その昔、延暦寺に法然という坊主がいた。。。その弟子に親鸞はんという坊主がいた。。。
民衆が唱えるお経では長くて、、、毎日、お経を挙げて「他力」に頼るにはむずかしい、、、
そこで「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで済むようにした。。。
浄土宗の「他力」である。。。
「死神」も「笑いの神」もすべて他力である。。。。
法然や親鸞の前は「日蓮」だ。。。
日蓮大聖人は天台宗の坊主で、鎌倉時代に「南妙法蓮経」を唱えた、、、「般若心経」を唱える代わりに「南妙法蓮経」と唱えるだけで、安らぎを得られるという
他力本願である。。。。
この世の中で、己の力ではどうしようもない、不幸、幸せを他力に頼る。。。。
そんな死神がいるような、、、笑いの神がいるような、、、
(8)達磨禅師
1600年前、平安時代から鎌倉時代に活躍した禅宗坊主である。
宗派は臨済宗黄壁宗であり、達磨禅師は中国禅宗の開祖で、、、宗派の呼び名を仏心宗または
達磨宗という。
その偉い禅師が修行を積んできたのであるが、、、死ぬ間際に、弟子に言ったことが、、、
一言「死にたくない」であった。
他力の教えを施す、偉い坊主でもそうなのである、、、この世の「死神」につかれた、凡人には何をかいわんやである、、、、
この世の俗世間で生きる人間には、、、せいぜい、、、「死神」や「笑い神」で、生きる人間空間をさまようほかはないような、、、
人間世界とは不思議なものだ。。。。
修行を積んだ高僧たちには、死んだのちも住む世界が、、、生きる霊界があるのかもしれない。
しかし、俗世界の人間には「他力」に頼り、、、念仏を唱えて、生きるよりほかには無いのかもしれない。。。
そして、俗世界の「死神」や「笑い神」に言われるままに、、、生きていくような、、、あはあははーーーだ。
(9)最澄と空海
最澄は天台宗を延暦寺に、、、空海は真言宗を高野山に、、開祖した坊主である。
最澄は平安時代の宗教界の若きリーダであり、、、、最澄と空海は遣唐使節に従う留学僧であった。最澄は国費で渡り、、1年で帰国したが、空海は私費であり20年を要した。
二人は延暦23年(804年)に唐に渡った。
仏教の開祖は釈迦であり、、、苦しみの世界は愛欲があるからであると、、、そして、釈迦は涅槃の世界に入った、
天台宗も真言宗も、、、宗教は全て念仏を唱えての、、、他力本願である。。。
今の世の中の出来事、、、憑いているということや、ついていないことなどの
「死神」「笑い神」も宗教で言う、、、他力だ。
いつの時代になっても、、、心の持ち方、、、人間では判断できない、、、
未知の空間の力は「他力」なのかも知れない。
(10)陰陽師
平安時代の有名な陰陽師で、阿倍晴明がいる。。。源氏物語にも登場する、陰陽師で、、、
延喜21年(921年)に生まれた、、、村上天皇に占いを命じられる。
陰陽師は官職で、彼は天文学者でもあった。
もともと、、、占いなので、、、今の時代なら「当たるも八卦、、」と言われるが、、、陰陽師は天文学者でもあり、、天皇から命じられて官職なので、、、平安時代には信じられていた。
現代風に言えば「占い」も「お経」も、、、他力本願だ。
日本社会では古くから、、、人間の力では何もできない、、宇宙空間の願い事が多い、、、
いろいろな宗教があって、、、修行を積んだ高僧が宗派を作るような、、、
すべて、、、つまるところは「他力」だ。。。。
その他力の一つでもある、、、、「死神」「笑い神」があるような。。。
「おい、、、、死神、お前の都合で、、人は死んだり、、、怪我をしたり、、、物事につまずいて、
失敗しているようだが、、、どうなんだよ、、、」
「おい、、、死神、、、、お前にはそんな力があるのかよ、、、」
と笑い神が尋ねた。
「馬鹿をいうなよ、、、、そんな力はないよ、、、偶然だ。。。昔からそうだ、、、たまたまだよ」
笑い神も頷いた、、、
「そうか、、、あのそうだったのか、、、」
しかし、、昔から「他力本願」、願うものは救われる、、、、
(11)家訓
人が集まり、、、集団で生活をして、家族が出来上がる。。。数人の家族が生きる上えで、生きるために決まりが出来る、、、「掟」だ。
そして、家族の中でその掟にしたがって、生きていく。
その家族の掟は、家々によって違ってくる、、、その決まりが「家訓」となり、、、家族はまとまる。
それらの家族が集団で部落をつくり、、、それ等の部落に「規則」が出来る。。。そして、、幸せになるために、部落の人々の安全を守るために、、、
「祈願」をするようになる。
それが部落に存在する「大木」であったり、「大きな岩」だったりする。。。
それが部落の守り神となる、、、いわゆる「森の鎮守様」だ。。。
そして、各家族の家には「神棚」のようなものが出来る。
それが「祈願」の始まりのような、、、、
人々は家で神棚に家族の安全祈願をして、、、部落の「森の鎮守様」に祈願をする
のであった。
これがすべての「他力」の源のような。。。。
そして、、いろいろな修行層が学んで、、、「他力」の教えを広めていくのであった。
(12)家内安全
日本には「神道」があるような、、、古来より家には「神棚」があって、その家の家長が
家族の安全を願って、祈願しているような、、、
神棚には「榊」を飾り、、お米と水を備えて、、、一日の家族の無事を願って、家長が毎朝、柏を合わせているような、、、
神に手を合わせて祈願する、、、これは「他力」であり、、、この世の、宇宙世界の何者かに頼るこtである、、、そして、、日本に「仏教」が伝来してからは、、、その他力が仏にすがるようになった、、、、
飛鳥時代に日本では初めてであり、、、最後の宗教戦争があった、、、それは聖徳太子の時で、、、仏教と神道の戦いであった。。。しかし、聖徳太子の力でというか、功績で、、「仏教」も「神道」も並び残ったのである、、、
聖徳太子の偉業とは、、、日本での最初の「宗教戦争」を収めたことであった。
世界では宗教戦争が今なお、続いているのに,日本にはそれ以後、起きなかったことである。。
「仏教」は聖徳太子により、、、奈良に「法隆寺」が建立されて、布教された。
「神道」は聖徳太子により、、、伊勢神宮が祭られ、初代宮司に聖徳太子の妹が任じられて、布教された、、、それ以後、伊勢神宮の宮司は女性が務めている。
以上の結果、日本には「神道」と「仏教」が並び立ったのであった。
それから、家々には「神棚」があり、先祖を祭る「仏壇」があるのあった。
日本の「他力」は。「神」と「仏」があるのであった。