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第7話 吾輩、“あいす”を食し、屈辱に悶える

「次、本条モジャ君、お入りください」

 通常ではありえないほどたくさんの猫、そして犬のにおいに加えて、嗅いだことのない変な香りが混ざった空気に神経をとがらせ、目を吊り上げていたモジャは、自分を呼ぶ見知らぬ女の声に耳を真横に倒すと、唸り声をあげた。

「お? おお、大雪の時に来た君か。そっか、モジャって名前になったのかあ、よかったなあ。で、本条さん、今日はどうなさいました?」

「フシャーっ」

(色々よくない! どうもしてない! 帰る!)

 モジャは“きゃりーけーす”とかいう箱(!)の透け透けの前布越しに、死に装束のような服を着た女を威嚇する。きりっとした顔立ちの女だ。短いざんばら髪をしている。

 江戸の女の髪は香枝も含めてみな長かった。例外は化け猫と化したモジャ――当時は長尾と言ったが――を調伏しようとしてきた尼僧ぐらいだろう。


「おーおー、威勢がいいねえ」

 威嚇しているというのに、その女は以前出会った時同様まったく怯えない。それどころか綺麗な紅の引かれた唇をにっと釣り上げた。

「シャ!」

 以前ここに連れてこられた時、同じ顔に尻の穴に棒を突っ込まれ、全身を無遠慮に調べ上げられたことを思い出し、モジャは前布越しに犬歯をむき出しにする。

 同時に「箱!」などとときめいて、いそいそと罠、すなわちキャリーケースにかかった自分を猛省する。


「おなかを壊しました。原因は多分アイスの食べすぎです」

「あのね、本条さん、猫は高脂肪の食べ物を好むけど、糖分も高いからアイスは」

「理解しています。してなかったのは父です。気づいてすぐ辞めさせたんですが、味を占めてしまって……。あと、こいつがアイス欲しさに冷凍庫に入るような奴だってことも理解できてませんでした……」

 直也は大きな背を心なし縮め、困ったような顔で頬を指でかいた。


「ぬう」

 あの妖術箱は“れいとうこ”というらしい。賢いモジャは二人の会話からそう推察する。

(あれもキャリーケース同様罠だったのだ、美味この上ない“あいす”を狙う吾輩をおびき寄せて、食らうつもりだったに違いない……)

 そして、妖術箱の中、モジャの手にかじりつき、離れなかった魚のうつろな目を思い出して身震いした。


「……入った? 冷凍庫に?」

「はい、勝手に開けて……某高級ブランドのバニラ味が好きらしいです。しかも食べ切った後、冷凍の魚に手を出したみたいで……霜のせいで肉球にくっついて大騒ぎしていたところを取り押さえました」

「……賢いのか、阿呆なのかわかんない子だねえ。凍傷になってないか、肉球も一応診ておこうか」

「シャ!」

(賢いのだ!)

 目的の遂行、すなわちアイスの盗み食いのために、モジャは考えた。我が身の小ささを補うべく、手ごろな箱を妖術箱の近くまで押してその上によじのぼり、か細く短い前足では動かぬ引き出しを開けるべく、反動をつけて、と涙ぐましい努力をした! すべてはアイスのため!

 そして、あの妖術箱はそんな努力の後、念願のアイスを食って油断したモジャの心の隙に付け込んだ――。

「ぐぬぬぬぬ」

(冷凍庫、おそるべし……!)

「お手数おかけします」

 唸るモジャを見、直也はもう一度ため息を吐いた。



「妙に大人しいな、疲れたか?」

「……」

(……またも尻に棒を突っ込まれた)

 目を吊り上げたまま、モジャは話しかけてきた直也からプイッと顔を背けた。

(大体腹下しぐらいで、直也も佳代子も大げさなのだ)

 昔は腐ったものを食べることだって珍しくなかった。しばらく動けなくなることもあったが、出てくるものをすべて出して、水を飲んで寝ていればいいだけだ、大した問題じゃない!


 会計待ちの待合室、キャリーケースの中不貞腐れて丸くなっていたモジャは、前布越しに視線を感じて顔をあげた。目の前で大きな犬がじろじろとモジャを見ている。見たことのない犬だ。長い黄色毛で耳が垂れている。

「シャーっ」

 八つ当たりを込めて脅せば、目を丸くしたそいつはあろうことか、嬉しそうに尻尾を振った。

「こら、モジャ。すみません」

「いいえ、小さい猫ちゃんには怖いわよね、うちの子、猫のいるお家で生まれたから、猫好きなの。こっちこそごめんなさいね」

(ど、いつもこいつも侮りおって……! 吾輩は化け猫ぞ! いくらデカかろうが犬ごとき!)

 直也と犬の飼い主が和やかに話し始めて、モジャはますますぶすくれる。そして、鼻を鳴らしながら何の気なしに目の前の前布を見、瞳孔を丸くした。

(直也、隙あり――)

 虫の鳴き声のような音を立てて動き、布同士をくっつかせる“ふぁすなあ”とかいうものが、終点にまで至っていない。そこに前足を差し込めるほどの隙間を見つけて、モジャは口の端とひげ袋をにぃっと上方へと吊り上げた。


 モジャは狭い箱の中で立ち上がると、おもむろにファスナーの前に行き、すかすかの前布に背を預ける形で丸くなった。と見せかける。

「モジャ? なんだ、寝たのか。あー、母さんたちになんともなかったって知らせとくか」

 愚かな直也はそんなモジャにまんまと騙され、肩掛けから鏡の付喪神改め“すまほ”を取り出すといじり始める。

 その隙に小さな穴に前足をかけ、そろそろとファスナーを動かし、静かに隙間を広げていった。


「お大事に」

「ありがとうございました……って、うわっ」

 四角い箱を押すとなぜか開くカラクリ扉をくぐって動物病院を出たところで、モジャは満を持してキャリーケースから飛び出した。

(元々吾輩と直也、いや将次は敵同士なのだ。馴れ合っておった吾輩が悪かった)

 でなければこんなところに連れてこられて、尻を辱められるなどという屈辱を受けることなどなかったというに!


「ちょっ、待てっ、モジャっ」

 空になったキャリーケースに悪戦苦闘しながら、直也が追いかけてくる。

(馬鹿め、愚鈍な人の足ごときが猫の足にかなうわけがない)

 両足を前にグンと伸ばし、背骨を丸めたり伸ばしたりを繰り返しながら、一目散に道をかけていく。


(ん?)

 顔に当たった風にひくっと鼻が動いた。

 右横を見れば、小さな路地がある。その奥に階段が見える。

「……」

 考えるともなく、モジャの足は回れ右した。


 人がようやくすれ違えるほどの隘路を疾走する。後ろで直也が何か叫んでいる。

 両脇には生け垣や竹垣、ぶろっくなる石垣が続き、それぞれの向こうに今風の住宅が並んでいる。道の奥には欠けたり歪んだりしている古びた石段があって、その上に青空が見えた。冬の終わりを思わせる少しくすんだ青空を背景に、大きな楠の樹冠が見える。風を受けて、たわみのある葉っぱがサラサラと音を立てている。

(――知っている)

 この丘の上に稲荷神社がある。

 その先の坂を下ると川がある。

 橋が架かっていて、そのたもとの小さな祠にはお地蔵さまがいるはずだ。


『大丈夫、大丈夫だからっ、ちゃんとつかまってて』

 溺れ死にかけていた長尾と兄弟猫を助けようとして、一緒に溺れかけた香枝。

『なにが大丈夫だ』

 苦笑し、ずぶぬれになりながら、その全員を救ってくれた将次。

 ――モジャ、いや、長尾が二人と出会った川だ。

 そして……

『これで終わりだ、化け猫め――成仏せよ』

 その数十年後、人を祟って化け猫と化し、悪さを繰り返すようになっていた長尾が、将次に切り殺された場所――。


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