足前: 吾輩、見張られる
――出会えた、出会えた。
――今度はみんな幸せになるといいねえ。
樹齢五百年を越す楠の木へと飛んできた“燕”は、その大ぶりの枝の上に片膝を立てて座る狛狐のもとに至るなり、声だけを残してふっと掻き消えた。
「……」
眦に赤いラインを引いた目を細め、狛狐は同じ朱色の唇に笑いを湛える。その拍子に目元に入れたラメが木漏れ日に光った。
赤や青、ピンク、緑、色々のメッシュを入れた金の髪を右側頭部でまとめ、ジャラジャラと煌びやかな飾りをつけているくせに、来ているのはごくシンプルな、白一色の装束だ。
――えらく肩入れなさる。
「そうさねえ」
狛狐は斜め下の枝へと目を向けた。射し込んできた日の光に、瞳孔が線のように細く尖った。
「あの子もあの子のおとっつぁんもあれを連れて、毎日のように拝みに来てくれていたのに助けてやれなかったから、せめてもの罪滅ぼしさ」
――神に仕えるというのも大変じゃのう。
返答に狛狐は、「みな色々あるのさ」と苦笑を零す。
「窮奇こそ宗旨替えかい? 長尾に人を殺させようとあれほど頑張っていたのに」
――あれはダメだ。殺せば殺すほど怯えられる。そうして妖は力を増す。そう教えてやったと言うのに、ついぞ人っ子一人殺せなんだ。
化け猫と化した長尾が最初に向かったのは、あの娘を打ち捨てたことなどとうに忘れ、嫁を貰って子を為し、平和に暮らしていた茶問屋の若旦那のもとだ。
丑三つ時を狙って彼の屋敷に忍び込んだ長尾は、恨みつらみを吐き出し、泣き叫ぶ男を追い詰めた。
だが、あと一歩というところで、目覚めてやってきた男の幼い娘に大泣きされ、退いた。
その次は浮浪児だ。親にすら見捨てられた幼子だ、どの道生きられぬなら、一思いに殺して食らってやれ、と唆したのに、もっと大きくしてからの方がたらふく食えるなどと言って、孤児を集めて面倒を見ている酔狂な住職のいる寺に置き去りにした。
深夜の峠道を歩く旅人を脅したら、「やっと死ねる」と逆に縋りつかれ、身の上話を延々と聞かされていたこともある。何もかも捨てて駆け落ちしてまで一緒になった女に逃げられ、絶望したそうだ。明け方に泣き疲れた男が眠ってしまった時、あれは「朝は妖の時間ではない」とか言って場を離れてしまった。
――あれは妖に向いておらぬ。あんなものを妖として認めてしまえば、誰も妖を怖がらなくなろう。あのままただのしゃべれる猫として、今世を終わってもらわねば困る。
人の恨み、怯えや恐れから、妖は生まれてくる。人の醜い心の闇そのものである妖は、それゆえ人を憎み、嫌悪する。
だが、同時に知ってもいるのだ。その心が醜さだけでできているわけではないと。妖と化す前、時には化した後にすら、自分たちを憐れみ、慈しんでくれた人がいたことも。
あの馬鹿猫はあれほどの目に遭っていながら、最後まで人に情を、希望を捨てられなかった。窮奇を含む多くの妖たちと違って……。
ならば、妖として不適としか言いようがないではないか。
「馬鹿な子ほどかわいいって言うもんねえ」
――馬鹿なりにいつも必死だからな、情が湧きもする。
容赦がないのか、慈悲深いのか分からぬことを呟いた窮奇に、狛狐がくつくつと笑えば、海岸に広がる工場地帯の煙突から煙々羅が姿を現し、晴れた空いっぱいに同意の野太い哄笑を響かせた。
眼下の川では河太郎が水面に顔をのぞかせた。頭のてっぺんの皿が陽光に光る。
道々には自動車に憑いた肩輪車や輪入道の姿も見える。異獣の姿は数えきれないほどだ。
「ピッ、ツツィー、ビビビビビ」
身を預ける楠の樹冠を見上げれば、ただの鳥に戻りつつある送り雀が楽しそうに歌い、応じるように大楠の木霊が風にざわざわと葉を揺らした。
その向こうに広がる空は高く、青く、そこに浮かぶ雲の白い輝きを際立たせている。
「……」
狛狐はもう一度眼下の子猫に目を移した。
消えてしまった仲間は多い。かつてのような力を失ったものも。だが、姿を変え、生き様を変え、生き延びるものもいる。
そのどれにもなれなかったあのチビ猫の行く末を、仲間たちと共に今しばらく見守ることにしよう。
(了)
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