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俺とクロのカタストロフィー  作者: ムネタカ・アームストロング
77/81

77.兎とか鴨の頭は美味しいらしいけど、どうしてもビジュアルが強すぎて食べる気がおきない

成都での観光から数日が経った。

外の空気は変わらず穏やかで、街の喧騒も、火鍋の香りも、相変わらず人々の日常に溶け込んでいる。テレビでは、沿岸部の避難が順調に進んでいる映像が連日流されていたが、それはどこか遠い世界の出来事のようにも感じられた。

午前中、俺とリンはマンションのベランダで洗濯物を干していた。

「今天的阳光真不错。」(今日の日差しはいいね。)

リンが笑いながら物干し竿にシャツをかける。

「うん。まさかこんな平和な日が続くとは思わなかったよ。」俺はクロがベランダの隅で丸くなっているのを見やりながら答えた。

午後は、マンションの近くの茶館へ行った。

店先の木の扉を押すと、甘い花茶の香りがふわりと漂い、奥の方では年配の男性が京劇のような渋い声で歌っていた。

「颯,你尝尝这个茉莉花茶。」(颯、これジャスミン茶飲んでみて。)

湯呑みを差し出すリンの手は少し温かく、茶の香りと混ざって妙に落ち着く。

「香りがすごいな。こんなに強いのは初めてだ。」

俺は一口すすると、口の中いっぱいに花の香りが広がった。

その後、クロを連れて近くの公園まで散歩した。

クロは新しい環境にもすっかり慣れ、通りすがりの子供たちに尻尾を振って愛想を振りまいている。

「看,他很受欢迎。」(見て、クロ、人気者だよ。)

リンが笑いながらスマホで写真を撮る。

「だな。もうすぐこの辺のアイドル犬になるな。」

日が暮れると、マンションに戻り、二人で夕食の準備を始めた。

この日は富裕層向けの高級スーパーで買った新鮮な野菜と豚肉で「回鍋肉」を作ることにした。

「颯,你切菜的样子很认真啊。」(颯、野菜切る姿が真剣だね。)

「そりゃあプロだぞ。ほら、前世では一人暮らし歴が長かったからな。」

「可是你切得太慢了。」(でも遅いよ。)

「……それは言わないでくれ」

食事をしながら、リンがテレビを見てぽつりと言った。

「沿海地区的撤离已经完成了70%。」(沿岸地域の避難は70%完了したって。)

画面には整然と並ぶ避難用バスと、荷物を持った人々の列。どの顔にも焦りや恐怖はなく、淡々と移動をこなしているように見える。

「本当に、この国はすごいな。これだけの人数を移動させられる官僚機構と共産党一党独裁の権力。日本ではこんなに迅速に避難させれないだろうな」俺は感心しながらも、胸の奥にわずかなざわめきを感じていた。

夜、ベッドに横になると、リンが腕枕に頭を乗せてきた。

「颯,你觉得我们能一直这样生活下去吗?」(颯、私たち、このままずっとこうして暮らせるかな?)

「……わからない。でも、どこだろうとリンとクロ一緒にいられたら、それで十分だと思ってる。」

リンは何も言わず、そっと俺の胸に顔を埋めた。クロがベッドの足元で小さく丸くなり、穏やかな寝息を立てている。

窓の外には、成都の街の灯りが変わらず輝いていた。

けれど、その光の向こうに迫っている絶望的な現実は、まだ誰にも触れられていない。

成都に来てから、もうしばらく経った。街の空気は穏やかで、まるで外の世界で何も起こっていないかのようだ。しかし、テレビやSNSで流れるニュースの中には、少しずつ緊張感が漂い始めていた。


翌朝、俺とリンは、移民が略奪を始めて燃えているパリの映像を朝食を食べながら眺めていた。

「フランスは大変だね」

リンが、湯気の立つお粥をスプーンですくいながら呟いた。

「ああ、前の世界線でも見たけど、これからヨーロッパはもっと荒れると思うよ。移民政策完全に裏目に出たな」

「中国には移民がほとんどいないから、こういうことにはならないね」

「そうだな。中国に来てよかったよ」


午後も特に予定がなかったので、俺たちはクロを連れてマンション周辺を散歩した。

成都の秋は空が高く、葉の色づきも美しい。並木道の下を歩くと、クロが嬉しそうにしっぽを振り、鼻をひくひくさせている。

「颯,你看!那边有糖画!」(颯、見て!あそこに飴細工がある!)

リンが指差した先では、路上の屋台でおじいさんが熱した砂糖を巧みに操り、龍や鳳凰の形を作っていた。

「懐かしいな。日本の縁日の飴細工に似てるけど、こっちのはもっと芸術的だな。」

俺はそう言いながら、龍の形をした飴を一つ買ってリンに渡した。

リンは「谢谢!」(ありがとう!)と嬉しそうに笑い、その飴を光にかざして眺めていた。

近くの公園では、年配の人たちが太極拳をゆったりと行っている。音楽が流れ、そのリズムに合わせて動く彼らの姿は、まるで時間の流れが外とは違うかのように感じられた。

そのまま近くの市場を覗いてみた。

成都の市場は活気に満ちていて、色とりどりの野菜、香辛料、肉や魚がずらりと並ぶ。

八角や花椒の香りが鼻をくすぐり、四川らしい強い香辛料の存在感を主張していた。

「颯,你要尝尝这个吗?」(颯、これ試してみる?)

リンが勧めてきたのは、「兔头(うさぎの頭)」と呼ばれる四川名物。香辛料で煮込んだウサギの頭だ。

「え…頭…?」

正直、少し躊躇したが、屋台のおばちゃんがにこやかに「很好吃!(美味しいよ!)」と勧めてくるので、思い切って一口かじってみた。

……想像よりもずっと柔らかく、スパイスの香りが口いっぱいに広がる。

「うまい…けど、見た目のインパクトすごいな。」

リンは笑いながら俺の反応を見ていた。

「我就知道你会喜欢!」(絶対気に入ると思ってた!)

夜は再び外へ出て、有名な火鍋屋に入った。

真っ赤なスープと白いスープの二色鍋がテーブルの中央に置かれ、肉や野菜が次々と運ばれてくる。


「颯,小心!别放太久,不然会太辣!」(颯、気をつけて!あまり長く煮ると辛くなりすぎるよ!)

リンが慣れた手つきで肉を取り上げ、俺の皿に置いてくれた。

「ありがとう…って、うわっ!辛っ!」

予想以上の辛さに思わず水を飲み干す俺を見て、リンはおかしそうに笑った。

「你得慢慢习惯四川的味道。」(四川の味には慣れないとね。)

食後は街を散策し、赤く灯る提灯や屋台の喧騒を楽しんだ。成都の夜は遅くまで賑わっていて、人々の笑い声や音楽が途切れることはなかった。

しかし、こうした平和な時間の裏側で、世界は確実に「衝突」に向かって進んでいる。

ニュースでは、アメリカやロシアの動きが不自然に静かになり、代わりに各国が水面下で何らかの準備を進めている様子が報じられ始めていた。

帰り道、リンがふと空を見上げた。

「颯,你说…如果隕石真的来了,我们还能这样走在一起吗?」(颯…もし本当に隕石が来たら、私たちはまたこうして一緒に歩けるかな?)

俺は少し考えてから、彼女の手を握った。

「只要我们还在,就会一直走下去。」(俺たちが生きている限り、ずっと歩き続けるさ。)

その言葉に、リンは小さく「嗯…」と頷き、少しだけ強く俺の手を握り返してきた。

俺たちは、静かな夜の成都の街を、ゆっくりと家に向かって歩き続けた。

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