75.麻辣湯のスープって四川だと飲まないの知らなくて初めて食べたとき全部飲んじゃったんだけど、湯ってスープだから飲むものだって思うじゃん
成都の中心部にある、政府が用意した高級マンションの広々としたリビングルームで、俺はリンと肩を寄せ合いながらソファに座っていた。足元ではクロが丸くなりながら、じっと俺たちの顔を見上げている。リンの指がそっと俺の手を握ったのを感じ、少しだけ緊張が和らいだ。
「ずっと北京かと思ったけど、あっさり成都に移動させられたな」
「私は北京よりこっちの方が好きかも。北京のマンションより広いし。あっ、政府の発表始まるみたいだよ」
報道番組のスタジオの壁一面に埋め込まれた巨大なモニターには、中国中央電視台のニュース速報が流れている。画面には中国外務省の報道官が厳粛な表情でマイクの前に立っていた。
「经过我国航天局的详细观测和分析,我们确认了一颗直径超过1.5公里的小行星将于今年12月4日撞击地球。我国政府第一时间掌握了这一信息,现特此向全球各国通报。」
(我国の国家航天局による詳細な観測と分析の結果、直径1.5キロを超える小惑星が今年12月4日に地球へ衝突することが確認されました。我国政府はこの情報をいち早く入手し、ここに全世界に向けて公式に発表します。)
報道官の冷静で、どこか機械的とも言える落ち着いた口調は、想像していたよりもずっと淡々としている。画面下部には世界各国の都市名と、衝突後に想定される津波の規模や被害範囲がリアルタイムで表示されている。
「哇,终于开始了啊……」(ついに始まったね……)
リンが小さな声でつぶやきながら、俺の手をさらに強く握った。その手の震えから、彼女が平静を装いながらも緊張しているのが伝わってきた。
世界各地の首脳陣や国連の声明が次々と画面に流れる中、中央電視台の映像は再び中国国内向けのニュースに切り替わった。
国内向けのニュースでは、若い女性アナウンサーが穏やかな表情で話し始めた。
「根据党中央和国务院的统一部署,我国东部沿海地区的居民将于明天中午开始实行封锁措施。请大家务必留在家中,严格遵守政府的防疫和避难指令。」
(党中央および国務院の統一指示に基づき、我国の東部沿岸地域の住民は明日の正午よりロックダウン措置を開始します。皆様は必ず自宅に待機し、政府の防疫および避難指示に従ってください。)
さらに、落ち着いた口調で続ける。
「请广大市民放心,目前我国政府已经在过去几个月内完成了所有受影响区域民众的临时居住设施、交通工具以及物资的充足储备,确保每一位居民都能安全有序地转移到指定地点。」
(国民の皆様、ご安心ください。我が国政府は過去数ヶ月のうちに、被害想定地域のすべての住民に対する仮設住宅、交通手段、物資の十分な備蓄を完了しており、全員が安全かつ円滑に指定された場所へ移動できるよう手配しています。)
俺は心の中で驚きを隠せなかった。あまりにも準備が行き届いていて、不安や混乱を煽るような表現は一切ない。実際にSNSを開いてみても、中国国内のSNSではパニックや混乱を伝える投稿は一切見つからなかった。代わりに目立つのは、「政府に感謝」「祖国に信頼を」「団結してこの困難を乗り切ろう」といった統一感のあるコメントばかりだった。
「看起来,政府真的控制得很好啊。」(政府は本当にうまくコントロールしているね。)
俺がスマホの画面を見ながらリンに向けて呟くと、彼女は少し皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「你以为呢?毕竟花了这么多资源。估计很多人在后台日夜工作吧。」(当然だよ。これだけのリソースを費やしているんだもの。裏ではたくさんの人が昼夜問わず働いていると思うよ。)
画面をスクロールすると、どのニュースサイトを見ても、沿岸都市から内陸への大規模な人の移動が計画通り進んでいること、医療、食糧、生活必需品などの備蓄状況が十分であることが報じられているだけだった。ネガティブな情報は完璧に統制されているのだろう。
ふと足元を見ると、クロが俺の膝に前足をかけて甘えてきた。
「クロ、お前は相変わらずマイペースだな……。」
クロは気楽そうな顔で尻尾を振りながら、俺をじっと見つめる。こんな時でもクロの態度が変わらないことが、不思議と俺たちを落ち着かせた。
リンがスマホを置いて俺の肩にもたれかかると、小さなため息をついた。
「说真的,我们能这么平静地坐在这里,也多亏了你啊,颯。」(本当に、私たちがこうして落ち着いて座っていられるのは、颯のおかげだよね。)
俺は照れ臭くなり、少し笑って答えた。
「其实我也没做什么啦。要谢也该谢你爸妈和你们家族的关系网吧。」(実際、俺は特に何もしていないよ。感謝するなら君の両親や家族の人脈だろう。)
リンが静かに微笑んだ。
「嗯,这倒是真的。我爸之前也说了,没想到他们家有一天会帮上国家这么大的忙。」(それは確かにね。お父さんもこの前言っていたよ。自分たちの家族がいつか国家にこれほど大きな貢献をする日が来るとは思ってなかったって。)
画面では、中央電視台の特別番組が続いている。専門家や学者が次々と出演し、小惑星衝突後の対応や影響を科学的に説明していたが、その説明もまた、冷静で淡々としたものだった。
俺は再びリンの手を握り直した。リンの細い指が俺の指の間に滑り込み、互いの体温が伝わり合う。
「你觉得接下来会发生什么呢?」(これからどうなると思う?)
リンが小声で問いかけてきた。俺は少し考えてから、慎重に言葉を選びながら答えた。
「谁也不知道真正的结果。但至少,我们现在所在的地方应该是这个世界上最安全的地方了吧。」(誰にも本当の結末は分からない。でも、少なくとも今俺たちがいる場所が、この世界で最も安全な場所だろうね。)
リンは穏やかな笑顔を浮かべた。
「那我们就好好珍惜现在吧。」(じゃあ、今のこの瞬間を大切にしよう。)
俺たちはそのまま、ソファに座ったまま静かに時間が過ぎるのを見守った。隣にリンがいて、クロが足元で安心しきったように寝息を立てている。モニターの画面に映る整然とした中国の様子を眺めながら、俺は心の底で静かな安堵を感じていた。
数日が経っても、成都の街はいつもどおり活気に満ち溢れていた。隕石衝突の発表からあまり時間が経っていないにも関わらず、街には特に動揺の兆しが見えない。沿岸地域では避難が順調に進んでいるという報道が連日テレビで放送されていたが、ここ成都では、日常の生活がほとんど変わることなく続いている。外に出れば、いつものように人々が街を歩き、カフェや店で賑わっている光景が広がっていた。




