63.空港のラウンジは少しだけ優越感に浸りたいおじさん達の映えスポット
駅前広場は通勤ラッシュの真っただ中で、サラリーマンや学生が駅の改札に吸い込まれていく。颯たちは阿佐ヶ谷行きのバス停横で成田行きリムジンの乗車券を購入し、列に並んだ。
大型バスの荷物室にスーツケースとキャリーを預けると、運転手が「本日通常より十分程度早く到着予定です」と案内する。車内はまだ半分以上空席、窓際に並んで座ると高円寺駅の駅舎が徐々に後ろへ遠ざかる。
「クロ、大丈夫そうだったね」
「帰省するときに何度も預けてるから慣れたもんだよ。写真、あとで来るさ」
リンは頷き、スマホのカメラロールを開き、クロの写真を横スクロールし続ける。車窓には中野坂上の再開発ビルが現れ、甲州街道へ合流する頃には陽射しがフロントガラスの上で眩しく跳ねた。
渋滞はなく、バスは一定速度で東へ。
窓の外で、太平洋側の湿原が陽炎のように揺れ、機体の列を成す旅客機が滑走路端に整列していく。ほどなく車内放送が「まもなく第1ターミナルに到着いたします」と告げ、冷房の音が少し強まった。リンはシートベルトを外し、バッグの口を閉じると肩ひもを掴み直す。
降車デッキの熱気はまだ弱い。ターミナルに入ると大型ガラスが朝陽を浴びて白く光り、天井の梁が幾何学模様を描く。颯はカートを押しながら出発掲示板を確認し、瀋陽行きのカウンター番号を指差す。
チェックインを済ませ、出国審査を抜けるまでの動線は短かった。リンは初めてのビジネスクラスラウンジに目を輝かせ、レセプションで渡されたWi-Fiパスワードを大事そうにポーチへ収める。
ラウンジの窓際席でストロベリームースを頬張りながら、リンはスマホを解錠した。LINEにはペットホテルからの通知。クロが芝生の上でスタッフとボールを追いかける写真が送られ、「体調良好」とコメントが添えられていた。
「元気そう。よかった」
「ほらな」
颯はアイスコーヒーを一口飲んで、時計を確かめる。搭乗開始まで十五分。
成田空港第一ターミナル南ウイングのチェックインカウンター前に立つと、深い青が鮮やかに目に飛び込んできた。カウンターには出発までのタイムスケジュールが並び、颯は案内板を指差しながら呟いた。
「瀋陽行きはDカウンターだな」
「うわ、すごい人……本当に間に合うかな?」
リンは周囲を見回し、混雑したエコノミークラスのチェックイン列を眺めて不安そうに肩をすくめた。だが颯は得意げにポケットからスマホを取り出し、搭乗券をリンの目の前にひらひらと掲げる。
「安心してくれ、俺たちはビジネスクラスだからね」
リンは半信半疑の顔で颯について専用レーンへと向かった。驚いたことにビジネスクラスのカウンターにはほとんど人がいない。青い制服に身を包んだ地上係員が即座に笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます。ANA瀋陽行きのご搭乗ですね」
穏やかな声音の女性スタッフが、パスポートと予約情報を丁寧に確認する。颯とリンのスーツケースには真っ赤な「PRIORITY」のタグが素早く付けられ、ベルトコンベアで運ばれていくのを見てリンは感心したように頷いた。
「あれなら荷物もきっと迷子にならないね」
「迷子になったらママのお土産の高級バックが消えるぞ」と颯が冗談めかして言う。
出国審査を抜けると免税店が立ち並ぶエリアが広がり、香水や化粧品の香りが濃密に漂っている。搭乗ゲートへと向かう途中、ラウンジの入り口で「LOUNGE」のロゴを見つけ、颯はリンの腕を引いた。
「ビジネスクラス専用のラウンジ使えるんだ。ちょっと寄ってみようか」
「本当に?すごい!」
リンの目が輝き、二人はスマートフォンに表示した搭乗券を提示してラウンジに入った。
中は静かで、フロアには濃いグレーのソファやモダンなデザインのカウンター席が並ぶ。大きな窓の外には、次々と離発着する飛行機が見える。リンは無料で提供されている軽食や飲み物のコーナーを目にして、はしゃぎ出した。
「颯、見て見て、サンドイッチもおにぎりもデザートも全部無料!」
「あんまり欲張ると機内食が食べられなくなるぞ」
颯の忠告を無視して、リンは小さな皿に一口サイズのケーキをいくつも載せて戻ってきた。ふたりは並んでソファに腰を下ろし、優雅な雰囲気を楽しみながらラウンジで時間を潰した。
やがて搭乗時刻のアナウンスが流れ、二人はラウンジを出てゲートへと向かう。青色の制服を着たグランドスタッフが笑顔で搭乗券を確認し、「ビジネスクラスのお客様、優先搭乗でご案内いたします」と丁重に誘導した。
「こんなに優先されたことないから緊張する」とリンが囁く。
「俺だって初めてだ」と颯も小声で返しながら、専用通路を通って機内へ足を踏み入れた。
ドアの入り口では、濃紺のスカーフを首に巻いた客室乗務員が丁寧に頭を下げ、「ご搭乗ありがとうございます」と静かな声で出迎えた。彼女の笑顔にはプロフェッショナルな温かみがあり、それだけで二人の緊張がややほぐれる。
指定された座席に到着し、颯とリンは驚きの表情で顔を見合わせた。個々に仕切られたシェル型のシートは広々としており、革張りの座席に腰を下ろすと、リクライニング機能を試しているうちにふたりはまるで子供のようにはしゃぎ始めた。
「これ、完全にフラットになるんだ!」
颯が背もたれを倒し、思わず声を上げた。リンも手元の操作パネルを夢中で押し、「ほんとだ!私たち、いま空飛ぶベッドを手に入れたみたい!」と冗談を飛ばす。
そのとき、客室乗務員が微笑みながら二人の席に近づいてきた。
「お飲み物はいかがですか?」
颯は少し躊躇いながら「あ、シャンパン……お願いします」とリクエストする。リンは「じゃあ、私はオレンジジュースで」と控えめに言ったが、すぐに颯のグラスが運ばれてくると好奇心に負けたように一口もらい、「わあ、本物のシャンパンだ!」と目を丸くした。
その後も毛布の質感やアメニティの充実ぶりにいちいち感動しているうちに、機内アナウンスが流れ始めた。
「当機はまもなく離陸いたします。シートベルトをご確認ください」
颯は慌てて背もたれを元の位置に戻し、リンもシートベルトをカチリと締め直す。
飛行機が滑走路をゆっくりと移動し始めると、エンジン音が次第に高まっていく。窓から見える景色は次々と流れ、心地よい緊張が二人を包んだ。
「いよいよだね」
リンが小声で言うと、颯はうなずき返した。その瞬間、機体が加速し、背中がぐっと座席に押し付けられた。窓の外では地面がみるみる離れてゆき、建物が小さな模型のように見え始めた。
「離陸成功!」
リンが小さく拍手をする。颯も自然と笑顔になった。
機体が安定すると、乗務員が再びやってきて二人のもとに機内食のメニューを届けてくれた。
「本日のお食事はこちらです。洋食か和食からお選びいただけます」
リンはすぐにメニューを広げ、「颯、見て!ステーキがある!」と興奮した。
「俺も洋食かな。こんな機内食は初めてだ」
雲の上を滑るように飛ぶ機内は静かで、心地よい揺れだけが二人の身体を揺らした。シャンパンとオレンジジュースを飲みながら、ふたりは初めての贅沢な空の旅を楽しみ始めた。
「颯、なんかこれから普通のエコノミーに戻れなくなりそう」
リンの言葉に颯も笑いながら応えた。
「俺も同感だよ。たぶん次回からは『エコミークラスに乗れない症候群』になると思う」
二人の笑い声は穏やかなエンジンの音に溶け込み、青と白の翼は静かに雲の海を滑っていった。




