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俺とクロのカタストロフィー  作者: ムネタカ・アームストロング
62/81

62.金さえあれば東京はいくらでも楽しめる街

翌朝、午前7時30分。アラームより早く目覚めた俺は、薄いカーテンを透かして差し込む乳白色の光を眺めた。窓をわずかに開けると、八月とは思えないほど涼やかな風が頬を撫でる。遠くでセミが途切れ途切れに鳴きながら、早朝の静けさに溶け込んでいた。リビングのソファではクロが丸くなり、夢を見ているのか前脚を小さく動かしている。深い呼吸が規則正しく上下する毛並みは、まるで高級ファーのように柔らかそうだ。

 颯は軽くストレッチをしてから、キッチンで電気ケトルのスイッチを押した。湯が沸くまでのわずかな時間で、リンのために中国式の豆乳を鍋で温める。乾燥させた大豆の甘い香りが立ち上り、まだまどろみの中にいる頭を緩やかに覚醒させた。湯気の向こうで湯沸かしポットがコポコポと音を立て、程なくしてクリック音が鳴る。

「おはよ……早起きだね」

 リビングの奥、寝室の引き戸から髪を後ろでくしゃりとまとめたリンが現れた。すぐそばに置いたティッシュで目尻を拭い、欠伸を小さくかみ殺す。颯はマグカップにインスタントコーヒーを入れ、豆乳を器に注ぎながら声を返した。

「今日は初めての高級ブランド店だからちょっと緊張してる」

 豆乳を受け取ったリンは、器を両手で包みこむように持った。湯気で前髪が少し湿り、頬がうっすら桜色に染まる。颯はその様子を横目で確かめると、クロの朝食用フードを器に計量し、リビングの定位置に置いた。カリカリという乾いた咀嚼音が、彼らの朝のリズムを作り出す。

 食器を片づけた後、颯はクローゼットからアイロンの効いた白シャツを取り出した。中国行きのビジネスクラス搭乗を意識したコーディネートだが、今日は池袋の高級ブランドフロアを歩く準備でもある。リンは花柄のノースリーブワンピースという軽快な装いで、淡いパープルの小さなショルダーバッグを斜め掛けにした。

「じゃあ、クロ、行ってくるよ」

「クロいい子にしててねー」

クロに見送られて俺とリンは部屋を後にした。


午前10時15分、高円寺駅発の中央線各駅停車。車両は通勤ラッシュを外れていたものの、まだ乗客は多い。リンはつり革を取らず、颯の隣にぴたりと立ち、肩が触れ合う距離で車内広告を眺めている。窓の外を流れるビル壁面の落書き、シャッターを下ろした商店街の看板──全てがベルトコンベアに流されるように過ぎ去っていく。


山手線の高架をくぐり、ガラス張りのビル群が重なり出すと到着のチャイムが鳴った。


 伊勢丹本館1階、ハイブランドが一堂に並ぶハンドバッグフロア。天井のシャンデリアから柔らかな光が溢れ、磨き込まれた大理石の床が映し返す。開店したばかりで客はまばら、店内の空気に微かなレザーの香りが漂う。

 颯とリンは手をつなぐでもなく、自然に肩を並べて高級ブランド店の島へ歩み寄った。リンの黒髪が背中で揺れ、颯は一歩後ろでその歩幅に合わせる。


 「いらっしゃいませ」

 クリーム色のジャケットを着た店員が滑るように近づいた。名札に〈Tachibana〉とある。淡いピンクのスカーフが上品に首元で結ばれ、穏やかな微笑みが崩れない。


 「母への贈り物を探しています。色は赤系で、普段の装いにアクセントになるようなものがいいんですが……」

 リンが中国語訛りの少ない日本語で説明すると、橘は軽く首肯き、ふたりをガラスケースの脇へ案内した。 


 「では、こちらをご覧ください。今季の新作で、定番の“ミニフラップ”より少し大きめです。表革はラムスキン、金具は艶消しゴールド」

 白手袋をはめた手で、橘はディスプレイの赤いバッグをそっと持ち上げる。斜めに落ちるスポットライトを受け、シボの細かな革が深い光を宿した。


 リンは目を輝かせながら受け取り、掌で慎重に側面をなでた。

 「すごく柔らかい……パパの誕生日に私が贈った財布より、もっと質感が細かい」

 「うん、手に吸い付く感じだな」颯はバッグのフラップを開き、マチ幅と内ポケットの数を確認する。「普段から荷物を整理するのが上手じゃないって言ってたよね。ポケットが二つあるのは良さそう」


 橘が続ける。「カードケースが収まる仕切りも付いておりますので、お母さまが長財布から少し小さめに替えたいときにも便利かと。ちなみに同じトーンでワンサイズ小さい“マイクロ”もご覧になりますか?」 


 リンが颯を見上げ、小声で囁く。「これより小さいと、お財布とスマホしか入らないと思う。ママはリップとか鏡も持ち歩きたいはず」

 「じゃあ、このサイズがベストかな」 


 橘は微笑みながら後方の引き出しへ向かった。ガラス棚を引き出して、赤の色味がわずかに異なる三点を並べる。「同じモデルでも、革の染まり具合で印象が変わります。左は朱色寄り、中央がワインに近い赤、右が先ほどの標準色でございます」 


 颯は三つを肩に掛け替え、鏡の前でリンに向き直る。

 「どれがいちばん“お母さんらしい”?」

 リンは少し離れて腕を組み、真剣な表情で首を傾げた。「うーん……洋服がベージュ系だから、朱色だと浮くかも。ワインレッドは上品だけど、暗い場所だと黒っぽく見えそう」

 「ということは、最初の標準色?」

 「うん。ちょうどいい発色だと思う」


 橘がうなずく。「こちらは今日入荷したばかりで、国内では数点のみでございます。色止め加工を強めていますので、薄いお洋服にも色移りしにくいです」

 「お値段は……」颯がタグを確認しようとすると、橘は静かに左手を差し出した。「失礼します」タグを裏返し、数字を示す。 


 リンが目を丸くする。「リンの家賃の半年分くらいする!」

 颯は苦笑しつつうなずいた。「大丈夫。お母さん、喜んでくれそうだし、ここは奮発しよう」 


 リンが小さく拍手する。「ありがとう!じゃあこれにしよう!」

 橘はバッグを抱え、レザーケアの小冊子を添えてカウンターへ案内した。会計の間、リンは紙に中国語で短いメッセージを書き、颯も横文字で“From Hayate”と添える。 


 桐箱に薄い和紙、その上からブランドロゴ入りの布で包まれ、リボンが掛けられていく。橘が最後にリボンを整える所作を、リンは感嘆の眼差しで追った。 


 「贈り物用ですので、領収書や価格のわかる書類は別封筒にお入れしますね」

 「ありがとうございます」颯は黒革の財布からカードを差し出した。端末にサインすると、橘は白手袋のまま丁寧にカードを戻す。 


 大判のショッパーを受け取ると、リンは両腕でそっと抱えた。艶やかな紙の質感と、結ばれた金のリボンが揺れるたび、店内のライトをさざめかせる。 


 「素敵なおプレゼントですね。お気を付けてお帰りくださいませ」

 橘の一礼に二人も頭を下げ、静かなフロアを歩き出す。 


 買い物袋の赤と金が並ぶ姿に、颯は肩越しに声を落とした。「いい買い物だった?」

 リンは満面の笑みでうなずく。「うん。ママ、絶対大切にしてくれる。こんなに高いのありがとう」

 「金ならあるから気にするな。じゃあ、次はお父さんの酒だな」 


 二人の足取りが自然にそろい、光沢を帯びた床に影が重なった。彼らの後ろでシャンデリアが揺らぎ、午前の静かな空気に革と香水の匂いが細く溶けていった。


ハンドバッグの入ったショッパーを大切に抱えたまま、二人はエスカレーターで地下食品フロアへ降りた。週末午前のデパ地下はまだ混雑前で、和菓子の甘い匂いと総菜の香ばしい湯気が入り交じる。目的の酒売り場は一角をガラスの低いパーティションで仕切られ、磨かれた杉材の棚が日本酒と焼酎の一升瓶を静かに並べている。瓶底に反射した間接照明が翡翠色や琥珀色の光を作り、しんと冷えた空気に酒蔵の杉玉を思わせる木の匂いが漂う。 


 「いらっしゃいませ」

 すらりとした白い羽織を着た若い男性店員が一礼した。頬に柔らかいえくぼが浮かぶ。 


 颯は軽く会釈して切り出す。「彼女のお父さんへの贈り物を探していまして。日本酒と焼酎、一本ずつ。どちらも晩酌用ですけど、特別感があって、料理にも合わせやすいものがいいんです」

 リンが補足する。「パパは甘口が好きかも。あと、香りが華やかなのも試してみたいって最近言ってました」


 若い店員は顎に指を当て、棚の上段を見渡した。「晩酌となると、温度帯の幅が広いお酒が扱いやすいですね。こちらの“而今じこん”はいかがでしょう」

 棚から四合瓶を取り出す。艶黒の瓶に墨痕のような筆書きラベル、縁だけ金箔で縁取られている。 


 「精米歩合は四十%。ベリー系の香りが立ちますが、甘さが引きすぎないので燗にしても輪郭が崩れません。酒米の旨味を残したい蔵なので、口に含むと良く溶けた清楚な甘味が口いっぱいに広がります。冷や(常温)でも熱めの燗でも変化が楽しい一本です」 


「じゃあ、日本酒はそれでお願いします」

「かしこまりました」と言って店員は近くにいた別の女性店員に日本酒の瓶を渡した。


 「では焼酎は、芋・麦・米のどれをご検討でしょう?」店員が棚を示す。

 「米がいいです」 


 店員は焼酎の棚から1本の瓶を手に取った。緑がかったグレーの化粧箱に白い箔押しで「獺祭 焼酎」とだけ刻まれ、ロゴの横に小さく「獺祭の香りを閉じ込めた」と書いてある。 


 「焼酎がお好きなお父さまなら、こちらはいかがでしょう。清酒“獺祭”の酒粕を、剥いだその日に蒸留して造った本数限定品です」

 佐伯は手袋をはめ直し、瓶を胸の位置までそっと掲げた。ガラス越しに見える液体は無色に近いが、角度によって微かに金を含む。 


 「仕込み当日の粕をすぐ蒸留しますので、量はどうしても取れません。ただ、そのぶん“獺祭”らしいメロンやマスカットの香りを一切逃さず閉じ込めています。度数を39 %まで引き上げているのも、香りが最も立体的に感じられるレンジを狙っているからです。冷凍庫でキンと冷やして小さなリキュールグラスに注ぐか、瓶ごと冷蔵してストレート。あるいは氷を大きめに一つ落としてロックで。」 


「獺祭に焼酎があったんですね。では、これをお願いします。中国には無さそうなので話のタネにもなりそうです」


会計時、店員が極厚の緩衝材と桐箱で丁寧に包み、金銀の水引で留めた。ずっしりとした紙袋を受け取ると、肩に重量が掛かり背筋が強制的に伸びる。


「ありがとうございます」と深く頭を下げる店員に見送られて俺たちは店を後にした。


新宿伊勢丹前の喧騒を一歩抜け、花園神社の並木を横切ると、しっとりと磨かれた黒の石畳が現れる。その奥で行灯が小さく灯り、墨文字で〈鮨〉とだけ記されていた。自動ドアなどない。厚い杉の格子戸を手前に引くと、途端に街のざわめきが背中で溶ける。正面には白木の一枚板が湾曲しながらカウンターを形づくり、奥に立つ職人と客の体温を柔く返していた。


 「わぁ……」

 リンが胸の前で指を絡め、吐息をこぼす。握り台はわずか八席。漆黒の壁面は装飾らしい装飾を排し、代わりに天井際の梁に藍染の暖簾が細くたなびいている。午後一時。昼の二巡目の客はまだ入っておらず、檜の香りと出汁を温める昆布の匂いが静かに交錯していた。


 板場から、背筋の伸びた中年の板長が手を拭きながら進み出る。

 「ご予約の涼風さまですね。どうぞ、中央へ」

 俺とリンは案内され、緩やかなカーブの真ん中に席を取った。白木の柾目が艶を帯び、カウンター越しの氷の上にたくさんの種類の魚が宝石のように横たわる。


 「お昼は握り十貫と小鉢が基本でございます。追加はその都度お声がけください」

 板長は二人の目線に合わせて微かに頷き、早速濡れ布巾で手元を清める。その仕草一つで、この店がただの高級店ではないと知れる。 


 最初の小鉢は、甘鯛の酒蒸しを氷温で一晩寝かせ、山葵と白醤油で和えたもの。笹の葉を敷いた薄瑠璃の皿が、カウンターの白木に淡く映りこむ。

 「どうぞ、まずは香りを」と差し出され、リンは鼻先を寄せる。甘く、澄んだ海の匂い。小さな匙で口に運ぶと、あえて残された鱗がほろりと崩れ、次の瞬間にじゅわりと凝縮した旨味だけを舌に残した。 


 「……すごい。冷たいのに脂が溶ける」

 リンが日本語で小さく呟く。板長の目尻がほころび、

 「鱗をはぜさせてから蒸気で締め、氷で霜降りにすると、温度差で脂が立ち上がります」

 説明は必要最小限だが、声には情熱が滲んでいた。


 続く握り一貫目は小肌。角度をつけて包丁が走り、銀白の皮目が市松模様になる。握る瞬間、掌の中で指が米粒をすべらせ、途端に酢飯がふわりと解ける。口に入れると、七分だけ温度が伝わって米がほどけ、後追いで昆布締めの香りが鼻腔を抜けていく。 


 「ああ……」

 思わず声が漏れた俺を横目に、リンは頬に手を当て、目を閉じた。

 「颯、これ、一口で世界変わったよ」


 その後も、炙りを入れた春子鯛、まるでバターのような白甘鯛、氷温熟成させた中トロ、艶黒の煮蛤──。職人の所作、ネタの温度、酢飯の硬さ、すべてが寸分違わず「いまここで味わうこと」が最優先されている。リンは一貫ごとに箸を置き、両手で握りを包むようにして口へ運んだ。

 八貫目、板長が「本鮪の大トロは敢えて小さめに」と宣言し、厚みではなく面積で遊びを付けて握る。脂が常温で透け、光が走る。リンは恐る恐る口へ近づけ、噛んだ瞬間――目を大きくして、思い切り眉を寄せた。声にならない歓声が零れ、頬がゆっくり下がる。 


 「飲み込むのがもったいない……」

 彼女の言葉に板長が一礼し、「口の内側に脂が残りましたら、昆布茶をどうぞ」と小さな白磁の湯呑を置く。 


 閉めは雲丹と車海老。雲丹は根室産の蝦夷バフンウニ、海老はさっと湯通しして身だけ氷で締め、まだ温かい頭は味噌と共に炙って別皿に添える。リンは細い指で海老の頭を持ち上げ、恐る恐る味噌を啜り、すぐに笑みを浮かべた。 


 「甘い……!」

 「頬張ったらすぐ雲丹を」と板長。指示通り雲丹を追いかけると、口いっぱいに潮の香りと乳脂のような甘みが広がり、海老味噌の濃厚な旨味が背後で支える。思わず二人で顔を見合わせ、言葉の代わりに笑い合った。 


 最後は玉子。エビのすり身と大和芋を練り込み、かすかに鰹出汁を忍ばせた厚焼きは、杉箸で割ると断面に細かな気泡が立つ。リンが「これだけ20個持ち帰りたい」と真顔で呟き、板長と俺が同時に吹き出す。 


 食事を終えると、すりガラス越しの天窓から細長い光が差し込んでいた。板長が懐紙を差し出し、「お連れさまの笑顔が一番のご褒美です」と静かに告げる。リンは深く頭を下げ、「また絶対来ます」と日本語で言い切った。 


 会計は二人で三万と少し。高額だが、払った瞬間に後悔よりも今日というページが厚みを増す感覚が残る。店を出ると、夏の陽射しがビルのガラスに反射し、金色の帯のように歩道へ落ちていた。リンは握りたての寿司を思い出すかのように頬に手を当て、「幸せ……」と呟く。 


 「また来ような。今度は厚焼きいっぱい作ってもらおうな」

 颯がそう言うと、リンは一瞬驚いた顔をしてから、くしゃっと笑った。歩道の向こうで信号が青に変わる。夏のアスファルトに熱気が揺れる中、二人は肩を並べて横断歩道を渡り、午後の新宿へ溶けていった。

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