61.能力が低い人ほど自分を過大評価するというが、そういう仕事できる風な人の方が能力が高い人より出世する
マンション前にハイエースを停めて、リンの部屋へと戻る。
「ここにあるのを全部積めばいいのか?」
山のように積まれた段ボールを指さして尋ねると、リンは頷きながら答えた。
「うん、段ボールが10箱、それと衣装ケースが4つ、あとはスーツケースが2つ。それで全部かな」
「よし。駐禁を取られたら面倒だから、一気に運んじゃうか。リンは車の中にいてくれ。万が一警察が来たら教えてくれ」
「えっ、リンも手伝わなくていいの?」
「これくらいなら一人でいける。それより駐車違反になったら面倒だからさ」
「うん、わかったー」
そう言って、リンは小走りでハイエースに戻っていった。後ろ姿のポニーテールが揺れている。
「よし、やるか」
気合いを入れ直し、段ボールや衣装ケースを2つずつ抱えて何往復もする。腰に重みがずっしりくるが、リンのためだと思うと苦にならない。結局、8往復で全ての荷物を積み終えた。
「リン、終わったぞ。あとは掃除か?」
「掃除は朝早く起きて、颯が来る前に全部終わらせたよー」
満足げな笑顔で胸を張るリンが眩しかった。
「おお、偉いぞ。じゃあ、あとは電気のブレーカーを落として、ガスの元栓を締めれば完了だな。俺がやってくるから鍵を貸してくれ」
「はい、ありがとー」
小さな手から鍵を受け取り、俺は再び部屋に戻る。
人気のなくなった部屋は、わずかに残る洗剤の香りが漂っていた。念のため部屋の隅々を確認し、忘れ物がないかをチェックする。ガスの元栓を締め、ブレーカーを落とすと、一瞬部屋の中が静寂に包まれた。玄関の鍵を閉める音が、その空間の最後の音になった。
「管理会社には明日、退去の立ち合いをお願いしてあるから、今日はこれで終わりだな」
「立ち合いって何するの?」
「部屋の傷や汚れを一緒に確認して、修繕費がかかる分は敷金から引かれるって感じだ」
「ふむふむ…なんとなく理解できた。颯に任せておけばいいのね?」
「そう、リンは隣にいてくれるだけでいいよ」
「了解ですっ!」
「じゃ、帰ろうか」
俺はエンジンをかけて車を発進させた。
交差点で信号待ちをしていたとき、リンが突然声を上げた。
「颯!左見て!あれ、颯の会社の人だよね?」
言われるままに視線を移すと、舞と本部長がスーツ姿のまま手を繋いで、ラブホテルに入っていくのが見えた。
「あっ、ほんとだ…」
俺の口から漏れた声は、呆れと失望が入り混じっていた。
「颯、青だよー!進んで!」
リンが俺の肩を軽くポンポンと叩いた。
「うおっ、やべっ」
慌ててアクセルを踏みながらも、先輩への幻滅感が消えなかった。
「仕事中にラブホなんて最低だねー。あんな上司がいる会社、辞めて正解だったよ」
「うん、前の世界線では全然気づかなかったな」
「みんなが真面目に働いてる中であれはないわー」
「だよな、ほんと辞めてよかった」
そんな会話をしているうちに、自宅マンションに到着した。俺の部屋も1階にあるので搬入は楽だ。
「また悪いけど、駐禁が怖いからリンは車に残って見張っててくれ」
「了解」
軽く敬礼するように言うリンが可愛らしかった。
段ボールを運び込むと、クロが待ちかねたように駆け寄ってきた。しっぽをブンブン振りながら、足元にまとわりついてくる。
「お、クロ。ただいまー」
リビングの真ん中には衣装ケースを積み上げた。廊下には段ボールとスーツケース。リンの荷物で我が家は一気に“二人暮らし”の空気を纏った。
「じゃ、車返してくるわ。リンは荷解きしてて」
「うん。あっ、自転車積んで行ったら?帰り楽だよ」
「おお、ナイスアイデア。それならすぐ帰れる」
「すぐ帰ってきてね?」
少し照れくさそうにそう言うリンの頬はほんのり赤い。
「任せとけ、ダッシュで戻る。あっ、お昼どうする?」
「うーん、蕎麦の出前がいい!引っ越しそばってやつ!」
「一応言っとくけど、引っ越しそばってのはご近所に配る用なんだけどな。でも、まあ…自分で食べるのもアリか」
「えっ?配るの?それはちょっと…」
「大丈夫、今どき配る人なんていないし、もらっても困るだろ」
「じゃあ、リンは引っ越しそば食べる!」
「よし、天ざるでいい?冷たい蕎麦と天ぷらのセットなんだけど」
「うん!大盛りで!」
「了解。俺も大盛りにしよう」
スマホを操作して、近所の蕎麦屋に電話する。
『はい、蕎麦紋です』
「あ、出前お願いします。天ざる大盛り2つ。高円寺3丁目のシャンポール102、涼風です」
『はい、30分ほどでお届けします』
通話を終えて、財布から4,000円を出してリンに渡す。
「これで払っといて」
「うん、気をつけてね」
「行ってきまーす」
俺はハイエースに乗り込み、給油してからレンタカーを返却。自転車を取り出し、軽快にペダルを漕いだ。真夏の日差しが照りつける中、俺は汗をかきながらも笑顔だった。今日から、ここが二人の家になるのだ。
家に戻ると、インターホンの音が鳴った。タイミングからして、ちょうど蕎麦屋が来たようだ。
玄関を開けると、リンがちょこんと立っていて、蕎麦と天ぷらが乗った四角い大きなおぼんを持っていた。
「おかえりー。ちょうど今、届いたところだよ」
部屋の中には、ほんのりと天ぷら油の香ばしい匂いが漂っている。リンがおぼんをテーブルの上に置いて、丁寧にた天ざるそばをふたつ丁寧に並べる。冷たい蕎麦が麺の輪郭をしっかり保ったままきれいに折り重なり、その隣にはサクサクの天ぷら盛り合わせが揚げたてのような香りを漂わせている。
「いただきます!」と二人で声を合わせ、手を合わせる。
つゆの器に山葵と刻みネギを入れて、箸の先でそっと混ぜる。颯はまず、ほんの一口、そばの端をつゆに軽くくぐらせて、音を立ててすすり上げた。
「ずるるっ……ふう、やっぱ冷たいそばは夏に最高だな」
向かい側のリンが、それをじっと見て笑う。
「凄い音出るね。映画で見たことあるけど、実際に聞くのは初めて」
「そばは勢いで啜るほうが旨い気がするんだよな。食べ方に正解はないけど、そういう文化だし」
「リンもやってみる」
リンは箸で蕎麦を持ち上げ、口元まで運んで勢いよく吸い込もうとするが、「ちゅるっ」と控えめな音しか出ない。
「……むずかしい。全然音出ない」
「まあ、無理しない方がいいよ。つゆが気管に入ったら苦しいしな」
「そうだね。普通に食べるー」
サクサクの海老天をひとくち齧ると、リンの表情がぱっと明るくなる。
「おいしい!やっぱ引っ越しそばって最高!」
「はは、元々は隣人に配るものだけどな。でも、こうして一緒に食べる引っ越しそばも、悪くないだろ?」
「うん、すっごく幸せな味」
その言葉に、颯の胸の奥がふわりと温かくなった。
蕎麦を食べ終わると、リンは空になった容器を片付けながら、ふとソファに腰を下ろした。颯も隣に座り、自然と肩が触れ合う距離になった。
「中国には明後日出発でよかったんだよな?」
「うん。明後日の朝10時に成田から瀋陽に飛ぶ飛行機だよ。往復で一人二十六万円かかったけど、颯の希望通り、ちゃんとビジネスクラスを予約したよ」
リンは少し誇らしげな表情で微笑んだ。
「おお、ありがとう! 一度ビジネスクラス乗ってみたかったんだ。帰りは?」
「帰りは一週間後の16時、瀋陽発の成田空港行きだよ。これもビジネスクラスだよ」
「おー、いいねー。楽しみだな」
リンは嬉しそうに微笑んだが、すぐに苦笑いをした。
「でもちょうど夏休みの時期で、飛行機代高かったよ」
「まあ、お金持ちになったことだし、たまには贅沢してもいいだろ?」
リンはいたずらっぽく俺を見つめた。
「たまにだよ?」
「分かってるよ。それで、瀋陽からどうするんだっけ?」
「そこから高速鉄道に乗ってハルピンへ向かうの。チケットは向こうで買えば問題ないよ」
「瀋陽からハルピンって近いのか?」
「近くはないけど、高鉄なら二時間半くらいかな」
「なるほど。……てか、本当に俺もリンの実家に泊まって大丈夫?」
「うん、ちゃんと両親に彼氏と一緒に帰るって伝えてあるから大丈夫だよ」
リンは照れたように頬を赤く染めた。その表情に俺は胸が高鳴った。
「なんか緊張するな……。あ、お土産はどうしよう?」
「ママとパパから頼まれた物はリンが全部用意したから、颯があげたいものを自由に選んでいいと思うよ」
リンの言葉に俺はしばらく考え込んだ。
「そう言われると悩むな。お義父さん、お酒は好き?」
「うん!すごく好きだから、お酒をあげたら絶対喜ぶよ!」
「じゃあお義父さんはお酒だな。お母さんはどうしようかな。俺、小さい頃から父さんと弟との三人暮らしだったから、お母さんの好みってよく分からないんだよな」
「ママはきっと、友達に自慢したいタイプだから、シャネルとかのハイブランドなら喜ぶと思うよ」
「なるほど、お金はあるし、それにしよう!一度高級ブランド店で買い物をしてみたかったんだよな」
「本当に大丈夫?高いよ?」
「今の俺には問題ないよ」
「ありがと!ママ、きっと喜ぶよ!」
「じゃあ明日、一緒に買いに行こうか」
「うん!」
リンは楽しそうに頷いた。俺は続けて今後の生活について口を開いた。
「あとは住むところだな。さすがにここじゃ二人には狭すぎるし、長野に早く引っ越したいな」
「うん、旅行から戻ったらすぐに家を探そう!」
「中国は安全だっけ?」
「隕石が海に落ちる場合、日本より中国の方が安全だけど、中央アジアに落ちるなら日本の方が安全かな」
「どっちか分からないんだよね?」
「うん。二日前まで分からないんだ」
「じゃあ日本にいた方がいいよね。治安も考えたら」
「リンの両親も日本に呼ぶ?」
リンは微笑んで首を横に振った。
「呼びたいけど、絶対嫌がるから大丈夫」
「日本嫌い?」
「違うよ。友達や親戚が中国にいるから、隕石が落ちるなら中国にいた方が安全だって言うと思う」
「なるほどね」
俺は立ち上がり、旅行の準備を始めた。
「リンは昨日引っ越しの準備で寝不足なんだろ?ちょっと昼寝すれば?」
「うん。そうしようかな。おやすみー」
リンは柔らかく微笑み、ベッドでゆっくりと目を閉じた。その穏やかな寝顔に、俺はそっと微笑み返した。




