59.一人で居酒屋に行って2時間飲み放題を注文すると、たまに店員さんが話しかけてくれます
この一週間は、とにかく忙しい日々だった。月曜日の朝、退職願を店長に提出した。店長にも舞にも湊にも引き止められたが、「中国に行くことになったので辞めます」と伝えると、なんとか納得してもらえた。それからの一週間は、引き継ぎ業務に追われ、息つく暇もないほどだった。
この世界線では、舞はまだ本部長と付き合っている。引き継ぎをしているとき、舞が本部長と親しげに話している姿を見かけた。しかし俺はもう、リンのことだけを考えると決めている。以前の世界線なら胸がざわついたかもしれないが、今は何の感情も湧かなかった。
父や弟の爽に会社を辞めたと知らせれば、一度札幌に戻ってこいと言われるに決まっている。それが面倒だったから、しばらくは黙っておくことにした。
湊とは、結局プライベートな連絡先を交換することもないまま退職の日を迎えた。おそらく、この世界線ではもう会うことはないだろう。俺はもう、リンのためだけに生きると決めたのだから。
昼休みには、JRAから振り込まれた配当金をそのままFX口座に全額移動させた。その日の為替相場が大きく動くことを俺は知っていたため、リスクなしに25倍のレバレッジで8000万円を得た。これで手元にある資金は2億2000万円になった。借りていた資金800万円を返済し、税金分として約1億円を差し引いても、自由に使えるお金が1億2000万円も残る計算だ。
納税に備え、税金用の1億円分を1キロの金のインゴット6本に換えた。貴金属店から保管を勧められたが、その足で日本最大手銀行の本店に行き、貸金庫を契約して6キロの金を預けた。これで万が一、日本政府が正常に機能を回復し、税務署から納税通知が来ても問題なく支払えるだろう。
リンのマンションの解約手続きも俺が代わりに済ませた。
資金的に余裕が生まれたので、これまでの世界線で辛い思いをさせてしまったクロへのお詫びも兼ね、高級なドッグフードを買ってやった。しかし、クロは特別喜ぶ様子もなかった。普通に食べるが、たまに与えていた骨付きジャーキーほどの喜びは見せない。結局、毎日骨付きジャーキーをあげることにしたところ、クロは満足げに尻尾を振りながら食べてくれた。
この期間は毎晩遅くまで残業が続き、リンとは会えなかった。それでも、毎日LINEで連絡は取り合っていた。リンの大学はすでに夏休みだったが、後期からの休学手続きのために大学に出向いたり、中国語講師のアルバイトを断ったり、急遽中国への帰省準備をしたりと忙しいらしかった。また、実家の両親や親戚、近所の人たちから頼まれた買い物をするため、暇を持て余すようなことはないようだった。
そして土曜日、ついに最終出勤日を迎えた。退勤後、支店長や舞たちから送別会を提案されたが、突然一方的に退職を決めた後ろめたさと、リンと過ごす時間を何よりも優先したい気持ちから丁重に断った。
舞や湊たちに見送られて会社を後にした。今日はリンが引っ越しの準備で遅くまで荷物をまとめる作業をするため会う予定はない。自由の身となった解放感から、俺は会社から自宅へ向かう途中、高円寺の立ち飲み屋に立ち寄った。
カウンターでビールとハムカツ、ポテトサラダを注文した。会社を辞めた日に飲む一口目のビールは、人生で味わったどのビールよりも格別だった。思わず「プハーッ!」という声が漏れ、一瞬で中ジョッキ一杯を空にした。
二杯目のビールを頼み、クロへのお土産として塩胡椒抜きの焼き鳥を5本注文した。届いたハムカツにウスターソースを多めにかけ、一口食べる。厚すぎず薄すぎないハムとソースが口いっぱいに広がり、「まさにこういうので良いんだよ」と心の中で呟いた。ビールを喉に流し込み、「最高だな」と漏らした。
二口目のハムカツを食べる前にポテトサラダを口に運ぶ。じゃがいもは完全に形がなくなったタイプで、ゴロゴロしたものより昔ながらの滑らかなポテトサラダが俺は好きだ。申し訳程度に振りかけられた乾燥パセリがさらに食欲を刺激する。またビールを飲む。生まれてきたことを神に感謝したくなるような至福のひとときだ。
二杯目のビールを飲み終える頃にハムカツとポテトサラダを食べ終わり、三杯目のビールと締めのソース焼きそばを同時に注文した。明日はリンの引っ越しの手伝いを朝からする予定だ。深酒はできないから、これが最後だ。
先に三杯目のビールが運ばれてきた。焼きそばを待ちたいところだったが、純白の泡が浮かぶ刹那の美しさを失うのは惜しい。俺は意を決してグラスを傾けた。三杯目なのに一杯目と同じくらい美味い。雑談に耳を傾けながら静かに焼きそばを待つ。
『大谷先輩、焼酎の梅割りっすかー、渋いっすねぇ。』
『大人の男はこれよ。林も一口飲んでみるか?』
『えっ、いいんですか?じゃあ、もらいます。うわっ、無理です。』
『まだまだガキだなー。林もあと10年経てばこの旨さがわかるようになる。はっはっは』
『自分ガキでいいです』
数分後、待望のソース焼きそばが運ばれてきた。楕円形の皿の焼きそばの上には、半熟の目玉焼きが載っていた。これは嬉しい誤算だった。まさか400円の焼きそばに目玉焼きまで付いてくるとは思っていなかった。
目玉焼きを崩さず、まず麺とキャベツを頬張る。すかさずビールを流し込む。「あーっ」とため息が漏れた。焼きそばとビール、この組み合わせはまさに悪魔的だ。次は目玉焼きの黄身を崩し、麺に絡めて一口、そしてまたビール。箸が止まらない。一気に焼きそばを食べ尽くし、残ったビールを飲み干した。
「ご馳走さまでした」
伝票を持ちレジで会計を済ませ、クロのお土産を受け取り、俺は軽い足取りで帰路に着いた。




