43.それほど仲良くない友達がオーストラリア旅行に行ったときにくれる土産はコアラのキーホルダー
軽ワゴンが庭先に灯りを投げかけると、まだエンジンを切る前から玄関の引き戸が勢いよく開いた。舞、リン、湊の三人が靴もつっかけのまま飛び出してきて、ほぼ同時に「よかった!」と声を上げる。
「颯、ケガは? クロも大丈夫!?」
舞が腕をつかんで確かめるように揺さぶり、クロは尻尾を振って彼女の膝に頭を擦りつけた。
「血一滴出てない。こっちは全員無事だよ」
そう答えると、舞はほっと力を抜き、リンが屈み込んでクロを抱きしめた。湊は少し距離を保ちながらも微笑み、木刀を肩に乗せた祖父と良雄にも深く頭を下げる。
靴を脱いで茶の間に入れば、だしの匂いとともに卓上コンロにかかった石狩鍋が湯気を立てていた。祖母が「冷えるからねえ」と言って先に仕立てておいてくれたらしい。
鍋を囲むと舞がテレビを指さした。
「ニュースでやってたんだけど、昨日の地震で道東の四割くらいが停電と断水。いつ復旧できるかわからないって……」
「そうか……」と祖父は額を押さえ、良雄は黙って飯椀に盛った。
食事が始まると同時に、道内ローカル局の特番が全国ネットへ切り替わった。キャスターの表情は硬い。
『群発地震による線路と高速道路の寸断で、国内の物流網はほぼ麻痺状態です。さらに海外からの輸入は小惑星衝突の影響で全面停止。このため首都圏をはじめ全国各地で燃料と食料が枯渇し、窃盗・強盗・暴動が多発。治安は急速に悪化しています――』
映像には火の手が上がる倉庫街や、ガソリンスタンドを占拠する暴徒らしき影。続いて海外ニュース。
『アメリカや欧州の一部では軍・警察の指揮系統が崩壊し、無法地帯となった地域が……』
荒廃した市街地を走り抜けるトラックの荷台には自動小銃を構えた私兵が映し出され、リンが小さく息を呑んだ。
だが、切り替わった次の映像は拍子抜けするほど穏やかだった。
『こちらはオーストラリア。被害は軽微で、公共インフラも通常どおり。大都市では平常運転の路面電車が行き交い、人びとはビーチで週末を楽しんでいます――』
さきほど瓦礫をともに片付けた陽気な観光客たちの顔が脳裏に浮かぶ。颯は思わず「あいつら運が悪かったな……」と呟いた。
鍋をおかわりし終えたころ、足元がふわりと浮いた。直後にガタガタッと家全体が波打つ。クロが低い声で唸り、リンの手から箸が転げ落ちた。
「また余震か?」と良雄が立ち上がりかけた瞬間、テレビ画面が赤く染まる。〈緊急地震速報〉の文字とアラーム。
『石狩沖を震源とするマグニチュード7・9の地震が発生しました――』
昨日の震源は十勝沖だった。今回は石狩沖。北海道の西と東、巨大な二つの震源帯がほぼ同時期に動いたことになる。
卓上コンロの火がゆらりと揺れた。
ぐらり――畳の上を水面のような横波が通る。父が咄嗟に卓上コンロの火を消して鍋を持ちあげた。食器棚のガラスがガタガタ揺れただけで、昨日の凄まじい縦揺れに比べれば、いまの揺れは「大型トラックが家の横を通ったとき」のようなものだった。
「震度3くらいか?」
祖父が落ち着いた声で評し、鍋を持ち上げた父以外は誰も立ち上がらなかった。クロは尻尾を下げたままもぞもぞ座布団に潜り込むが、吠える気力はないらしい。
テレビには赤いテロップが流れっぱなしだ。〈石狩沖でM7・9 石狩地方で震度6強〉――帯の下に震度3と表示された足寄町の文字を確認し、舞が胸を撫で下ろした。
「大丈夫、大丈夫。家も揺れ吸収の免震だし、外は真っ暗で道に亀裂があるかもしれない。余震で飛び出してけがしたら元も子もない」
良雄が家族に言い聞かせるように語り、祖母は味噌汁の蓋を押さえて火を弱めた。
揺れが完全に収まったのを見計らい、颯はリモコンを手に音量を上げる。日本海沿岸地域へ一斉に発令された津波警報と避難指示が読み上げられるあいだ、誰も箸を延ばさなかった。
『津波到達予想時刻は午後八時五十二分。日本海沿岸地域では最大3メートルの津波が予想されています――』
「こりゃ北海道は二日続けて災難だ」祖父が低く呟く。「道内の流通も麻痺か?」
リンがスマホを取り出し、ニュースアプリを更新しながら眉をひそめた。
「停電と断水に加えて、今度は津波って。ネットも動画はぜんぜん繋がらないし、画像も重い。基地局がバッテリー駆動に切り替わって速度制限してるのかも」
「こういうときはラジオだね」祖母が言い、災害用に祖母が用意していたラジオを祖母が持ち出してきた。
道内の情報がテレビ局にもあまり入ってこないのか、『津波情報』が画面の上部と左端に表示あれた状態で海外ニュースに切り替わった。北米大陸を覆う夜の映像――都市部は依然として停電、無灯火の高速を縦列で走る避難車両の列がぼんやりとナイトビジョンで映る。
「北米の物流は完全に崩壊…石油精製所の停止で燃料が底を突き、コロラド州では食料配給車が武装民兵に襲撃された模様です」とキャスターが噛み気味に読み上げる。
舞はテレビを凝視しながら、壊れたショッピングモールの映像を見て目を伏せた。
「こっちは治安が悪くなったって言っても、まだ警察も自衛隊も組織的に動いてるもんね。海外は酷いね……」
祖父はいつの間にか、いつものマッサージチェアに移動していた。
「今日、隣町の瓦礫の撤去に来てたオーストラリアの若い衆を思い出すだろ? 映像じゃオーストラリアは平穏そのものだ。ほんと運が悪かったな。最初はどうなることかと思ってたけど、悪いやつらじゃなかったな。帰るとき日本語で『アリガトゴザイマシタ』ってお辞儀までしたな」
「確かに。そういえば、あの人たち、明日から自警団の手伝いに来たいって言ってた」颯が笑う。「力仕事もあるし男手が6人も増えたら助かるよ」
「英語の通訳担当は颯になるけどな」父が茶化すと、祖父が笑って揃ってうなずいた。
「はいはい。あの人たちが来るときは俺も行くわ」
そのとき茶の間の蛍光灯がジジ…と小さく明滅し、一同が顔を見合わせた。停電? ――しかし光はすぐに安定した。
「送電が不安定なのかもな。配電線が揺らされると瞬断することがある」良雄が言う。
だが、北海道電力の送電網は十勝沖地震直後からフル稼働のままだ。道央の火力発電所が無傷で持ちこたえているといえ、石狩沖の大きな地震が重なれば、いつ長期停電になってもおかしくない。
祖母が石狩鍋をキッチンのガスコンロで温めなおしてきて、またカセットコンロの上に置いた。
「〆はどうする?ご飯、ラーメン?」
リンが嬉しそうにカセットコンロの火をつけた「ラーメン入れたら絶対おいしい」と呟き、湊が「うん、細ちぢれ麺ね」と同調する。
「それなら、鍋用のラーメンがあったから入れようかね」祖母は戸棚から鍋用にそのまま使える乾麺のラーメンを4袋出して鍋に入れた。
みんなで〆のラーメンを食べ終えて食器を下げ、リビングのローテーブルを中心に家族全員がソファーやラグに座ってくつろいでいる。いつもストーブの上には湯を張ったヤカンが置いてあったが、地震がまた起こると危ないので今は何持っていない。
「自警団すぐに結成しておいてよかったな。あのオーストラリア人達もこっちの人数見て大人しくなったもんね」
祖父は「明日、他の町内会でも自警団を作った方がいいと町役場にも言ってこよう」と言い、良雄は「中期計画を練らないとな」と眉をひそめる。
「物流が止まった以上、冬を越す準備は町内だけでやるしかない」と祖父が続けた。「この辺は農家ばっかりだから。米とイモやら玉ねぎは皆あるだろうが、問題は肉とか魚、あとは灯油とガソリンだな――灯油ねぇとみんな凍死しちまうからな。明日、みんなに相談してみよう」
「私たち、何か手伝えますか?」舞が顔を上げる。
「昼間は舞さん達で、近所のばぁ様連中の話し相手になってやってくれねぇか?じいさんたちは自警団で家空けるから一人で暇だろうよ」祖父が頼む。「わかりました。じゃあ、明日は、私と湊とリンちゃんの3人でおばあちゃん達の様子見てきますね」
湊とリンも頷いて同意した。
時刻は二一時四五分。石狩湾の津波第1波は既に到達したとテロップが過ぎていった。幸い観測値は1メートル台で、水位が防波堤を超えることはなかった
それでも、アナウンサーは「このあと規模の大きい余震が発生する恐れがあります。念のため、沿岸の方は夜明けまで高台に留まってください」と繰り返す。
誰かが長い息をついた。
「――やっぱり寝られそうにないね」舞が苦笑する。「でも布団に入らないと体がもたない」
クロが立ち上がり、尻尾で舞の膝をとんとん叩いた。散歩に行きたいというより「横になろう?」と誘うような仕草だ。
「クロも休みたがっているみたいだね。とりあえず布団に潜って、目をつぶろう。地震速報が鳴ったらまた起きればいい」俺は立ち上がり、皆に「じゃあ、寝るわ。お休み」と伝えて、舞とクロを連れて、自室に戻った。




