26.心配事の約90%は杞憂に終わるというけど、病院だけは早めに行け
リンと改札で別れたあと、俺はクロと急ぎ足で帰宅した。
雪こそ降っていないが、東京の冬の空気はもう刺すように冷たい。
玄関の鍵を閉め、コートを脱ぐより先にリビングのテーブルへノートを広げる。
“前回の反省点”──未来で死ぬ間際に心底後悔した項目を、一つずつ書き出した。
①物資のラインナップに発電機や燃料がなかったこと
②知り合いのいない湊の別荘に行ったことで助けてくれる人がいなかったこと
③武器が木刀1本しかなかったこと
④弟や浅野さんと別々に避難したこと
これらの反省点を考えると今回の避難先は、北海道足寄町の祖父母の家が最適だろう。
ノートに反省点を列挙し終えたあと、俺は祖父母の番号をタップした。
プルル……と二度鳴いて、祖母が出る。
「もしもし? 颯かい? お盆ぶりだねぇ」
「ばあちゃん、元気? 急にごめん。ちょっと聞いてほしいことがあるんだ」
「なに、どうしたのさ」
「明後日、爽と俺の彼女と友達2人を連れて、しばらく泊まりに行ってもいいかな?」
「いいともいいとも。人数なんぼでも、布団はあるべさ」
「それと、北海道に持っていきたい荷物をこっちから送るから、受け取っておいてほしいんだ」
「荷物ね、わかったわかった。クロちゃんのもんもあるのかい?」
「うん、クロ用のフードは別に送る」
祖母が笑い声を立てたそのとき、背後でガラリと戸の開く音。
「じいちゃん、颯から電話!」
「おう、替わるわ」
「颯か? どうした、何かあったんかい?」
「じいちゃん、も急で申し訳ないんだけど、明後日なんだけど爽と俺の彼女とか友達とかみんなで行っていい?しばらく泊まりたいんだけど」
「おお、かまわんかまわん。にぎやかでいいね。何日でもいたらいいべさ。人数は?」
「俺を入れて5人と犬1匹。それと、まだ誘ってないけど、たぶん父さんも行くかもしれない」
「お父さんもか。なら6人だな。そりゃあ宴会の準備しとかねぇとな」
「それで、家の灯油タンクさ、今日か明日には満タンにしておいてくれないかな?」
「おう、わかった、わかった。灯油屋の佐藤さんに電話しとくべさ。今日中に入れてもらう」
「ありがとう。それと、こっちから発電機やら食料やら送るから、荷物が届いたら納屋の奥に置いておいてほしいんだ」
「わかった。届いたらすぐ中に入れとくね。クロの小屋も納屋に用意したらいいかい?」
「うん、助かる。本当にありがとう。到着したらすぐ連絡するから」
「おう。気ぃつけてきなさい。こっちは準備して待ってるわ。したっけな」
通話を終えると、胸の奥で張りつめていた糸が少しだけ緩んだ。
「よし……これでじいちゃんはOKと...」
クロが尻尾を振りながら寄ってくる。
「もうちょっとだけ忙しくなるぞ、クロ。未来を変えに行くんだからな」
祖父との通話を終えた直後、スマホの連絡先から「父さん」をタップする。
コールが二度鳴いて、落ち着いた低い声が出た。
「もしもし、颯か? どうした?」
「今、大丈夫? ちょっと大事な話があるんだ」
「明後日、爽と俺の彼女と友達二人を連れて、足寄のじいちゃんちに行くことにしたんだ。しばらく向こうでお世話になる」
「5人で行くのか。ばあちゃんもいいって?」
「うん、あとクロも連れていく」
「それで俺の彼女を父さんに紹介したいんだわ。だから、できれば父さんも来てほしい。仕事、調整してもらえないかな」
「颯が俺に彼女紹介してくれるのは初めてだな。そりゃあ、行かねぇとな。シフトは代わってもらえるはずだ。明後日でいいのか?」
「うん。明日の昼の飛行機で千歳に付いて、明日は札幌のホテルに一泊してから。明後日、足寄に到着する予定。詳しい時間は明日また連絡する」
「それと頼みがあるんだけど。俺が実家に置きっぱなしにしてた非常食や保存水、携帯トイレ、ガス缶……全部まとめて車に積んで来てくれない? じいちゃんちに運び込みたいんだ」
「あれ全部か?」
「うん」
「わかった。ガレージに置いてある箱ごと持っていけばいいな?」
「うん、あとできれば俺と爽の卒業アルバムとかも持ってきてくれない?」
「おっ、彼女に見せるのか?まあそれはいいけど、何かあったのか?」
「詳しくは会ったときに話す。とにかく、明後日は家族みんなで集まっておきたいんだ」
父は短く息をついたあと、静かに言った。
「おまえがそこまで言うなら何も聞かないけどよ。じゃあ明後日、彼女紹介してくれるの楽しみにしてるわ」
「ありがとう、父さん。ほんと急にごめん」
「なんもだ。気をつけて来いよ」
通話を切ると、時計は午後四時を回っていた。
あとは、爽の告白の結果の連絡をもらったときに、爽には話して、湊には爽から説明してもえばいいか。
リビングのテーブルにノート PC を開き、大手のショッピングサイト2つを同時に開いた。
まずは祖父母宅の住所をデフォルト配送先に設定し直し、“お急ぎ便”のアイコンだけを頼りにカートへ突っ込む。
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発電機 × 1
大型のポータブル電源 ×2
LEDランタン ×6
LEDヘッドライト ×6
飲料水 2Lペットケース(6本)×50箱
レトルト白米&おかずパウチ 600食分
山岳用浄水フィルター ×2
ドックフード(10kg)×10袋
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ここからが前回足りなかった護身具だ。
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スタンガン(120万V)×2
催涙スプレー×3
伸縮警棒×2
白樫木刀 ×2
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カートの合計金額が、預金口座の残高にほぼ並ぶ。
「どうせ現金は役に立たなくなる――」
独り言を漏らしながら、銀行口座から直接送金するためのワンタイムパスワードを入力し、すべて購入をクリック。
通帳の残高が数秒で “ほぼゼロ” に変わるのを確認して、ため息ではなく深呼吸をひとつ。
次に航空券アプリで確認した便に合わせ、札幌駅近くのビジネスホテル を予約。
部屋はツインを二部屋。念のため朝食付き。こちらはクレジットカードで決済した。
「決済完了」のメールを確認し、PC を閉じた。
PC を閉じて一息ついたところで、クロがリードの前で尻尾を振り始めた。
「やっぱり一緒に行くか。気分転換だ」
首輪を留め、マンションの階段を下りて商店街へ向かう。
冬の夕方はもう真っ暗で、街路灯のオレンジが雪雲を照らしていた。
五分もしないうちに、馴染みの弁当屋「山勝」の看板が見えてくる。引き戸を開けると、から揚げの匂いが鼻をくすぐった。
弁当屋の前に着いたが、店頭には誰も立っていなかった。
カウンター越しに厨房を覗くと店主の姿が見えたので声をかける。
しかし、店主は一瞬だけこちらに目を動かすと、顔を向けようともせず、作業を続けながら「今日はなに?」と聞いてきたので。
「デラックス唐揚げ弁当特盛で」とだけ答えた。
5分ほど店先で待っていると、店主が唐揚げ弁当を持ってきた。
唐揚げが弁当の容器から大幅にはみ出して、蓋が閉まっていない。
容器の規格を完全に無視して、唐揚げの上に蓋を乗せて、輪ゴムで固定しているだけだ。
白飯に至っては、容器1つに収まりきらず、容器が2段になっている。
俺は店主に弁当の代金1,200円を渡した。
金を受け取るときに店主がチラッとクロを見た。
「今日は犬も一緒か。少し待ってろ」
店主は、受け取った代金をレジに入れると厨房に戻り、業務用冷蔵庫から、ビニール袋を取り出して俺に渡してくれた。
「昨日残った鶏のササミだ」
このササミは店主がいつもくれるもので、犬用に味が付いてないからクロも食べられる。
「また用意してくれたのか。
いつもありがとう」
礼を言うと店主はクロに手を振って、厨房に戻って行った。
クロは礼のつもりか分からないが、尻尾をブンブン振りながら「ワンっ」と一度だけ吠えた
マンションに戻り、クロの皿へささみを置く。
「よかったな、クロ」
クロが夢中でかじりつく間、俺はテーブルに弁当を広げる。弁当の匂いが一日の疲れを溶かしていく。
テレビはやっぱりつけない。代わりにスマホを傍らに置き爽からの連絡を待つ。
スマホに通知が届いたからすぐ開くと浅野さんから「こっちは片付いたわ。やっぱり、今日も颯の部屋に泊まっていい?」と連絡がきていた。
『はい、お待ちしてます』とだけ返信しておいた。




