25.とんかつ屋でキャベツにかけるドレッシングは多くなりがち
『もしもし、颯? どうしたの』
「今日って、俺たち何か約束してた?」
『ううん。――何かあった?』
「話したいことがある。1時間後、中野で会えないか?」
『いいよ。十二時に北口の時計の下ね。トンカツ奢ってくれる?』
「了解。――厚切りだろ?」
『やった! 厚切りロースかつ御膳!』
通話を切ると、冷たい北風が頬を刺した。高円寺から中野までは徒歩十五分。歩きながら、明日十一時発・新千歳行きの航空券をスマホで四席確保する。クロだけは貨物室――すまん、今は我慢してくれ。
◇
北口広場の時計下で、黒のチェスターコートを翻したリンが手を振る。その元気な笑顔に、思わず手を強く握ってしまった。
「リン!」
「颯!」
驚いた瞳が見返す。
「……安心したら、つい」
「もう。那么,走吧――ほら行こ!」
◇
百軒横丁の路地を曲がり、暖簾を割って老舗とんかつ店へ。メニューを開くまでもなく「厚切りロースかつ御膳を二つ」。奥の揚げ場から「じゅわっ」と油が弾ける音が届くたび、空腹が拍を刻む。
やがて盆ごと運ばれてきた皿は、ほとんど鍋蓋の直径。指三本分はある黄金色のロースが、衣の谷間から桜色の肉を覗かせている。箸を入れると――
サクリ。
衣が小気味良く割れ、続いて肉汁の雫が白い皿へほとばしる。立ち上る香りは、甘いラードと焙煎パン粉が溶け合ったものだ。
一切れを頬張ったリンの瞳が一瞬とろける。
「うわ、分厚っ!」
「ソース、かけ過ぎるなよ?」
「はいはい、いただきまーす!」
彼女が歯を立てるたび、衣が“ザクッ”と砕け、次の瞬間じゅわりと脂が舌を包む。背脂のコクに負けない肉の旨味が舌の奥に残り、熱々の白飯を誘う。ついでに山盛りキャベツを噛めば、甘みを含んだ水分が脂を洗い、新しいひと口を迎え入れる準備を整えてくれる。豚汁の湯気に生姜と味噌の匂いが絡むころには、箸が止まらない。リンはご飯とキャベツを二度おかわりし、俺も負けじと追随した。湯飲みの温かい緑茶で喉を落ち着かせると、ようやく言葉を整える余裕が生まれた。
◇
「リン、落ち着いて聞いてくれ。三週間後の未来で俺たちは全員死んだ。四日後に隕石が落ち、日本は地震でめちゃくちゃになる――だから未来を変えたい。明日の十一時発で北海道へ避難しよう。一緒に来てくれ」
おしぼりを握るリンの手が止まり、短い沈黙。
「……荷物、朝までにまとめれば間に合うね」
瞳はいつもの強気を宿している。
「好啊,我陪你去」――いいよ、付き合う。
「札幌に着いたら海鮮丼奢るわ」
「約束ね」
とんかつ屋を出て、冷え込むアーケードを並んで歩き、改札前で足を止める。リンが肘で軽く突いてくる。
「でさ、さっきの“手握り事件”は?」
「悪かったって」
「下心あった?」
「あるか!」
ふたりで笑い合い、リンが肩を俺の腕に軽くあててくる。
「じゃあ明日、絶対遅れんなよ」
「你也是。(そっちこそ)」
午後二時、冷気のアーケードで別れ際。リンは背伸びするように手を振り、雑踏に紛れた。
スマホで航空券の取得を再確認。クロはリードを引き、まるで急かすように前を向いた。
「わかってる。戻ったら、すぐ動く」
冬枯れのイチョウ並木に北風が走り、乾いた葉が足元を転がった。
やるべきことは山積みだけど、淡々と準備を進めるだけだ。
クロの足音と自分の靴音だけが舗道にリズムを刻む。
遠くで踏切が鳴り、雲間の光がわずかに射し込んだ。




