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俺とクロのカタストロフィー  作者: ムネタカ・アームストロング
21/81

21.修学旅行で自分用のお土産に買った木刀は捨て方もわからず一生家にある

――― 二週間後 ―――

あれから結局テレビは映らず、インターネットも完全に途絶え、ラジオにさえ砂嵐のノイズが交じる。わずかに入っていた自衛隊の短波放送も、いつの間にか途切れていた。

俺たちに残された情報は、軋む大地の振動と、遠くで誰かが叫ぶ声、そして灰色に覆われた空だけだった。

午後になり、玄関の戸をそっと叩く音がした。出てみると、全身を灰で汚したダウンコート姿の30代くらいの女性と、小学校高学年くらいの痩せた少女が立っている。二人ともズボンの裾まで泥まみれで、背負ったリュックはほころびかけていた。

「すみません。東京の練馬区から来ました。この近くの避難所にいるのですが、食べ物がもう、ほとんどなくて……」

母親は震える声で頭を深く下げた。避難所の物資が尽きて、食料の配給が二日前に途絶えてから、この村の家を1件1件回っているらしい。

俺が一瞬躊躇していると、リンがさっと非常食用コンテナを引き寄せた。レトルト粥と乾パン、固形燃料、浄水タブレットを小さなビニール袋に無言で詰め込む。

「これで一週間くらい持つよ。大事に食べてね」

リンの片言交じりの優しい声に、母娘は涙をこぼしながら礼を言った。二人はよろよろと坂道を下りていった。

―――

翌日の夕暮れ前。昨日の母娘が身を寄せている公民館から、老若男女十五人ほどの一行が列をなし、別荘の前に立っていた。泥にまみれた顔、折れたスコップの柄を抱え、さきほど震度5弱の余震が走ったばかりで、皆の足はまだふらついている。

「子どもも高齢者もいます。どうか、少しで構いません。食料を分けてください」

代表の青年が頭を下げると、背後から空腹で泣きじゃくる子どもの声がか細く響いた。リンが倉庫へ向かおうとしたとき、俺はそっとリンの肩をつかんだ。

「すみません。備蓄は俺たちにも余裕がありません。申し訳ないがお引き取りください」

空気が刃のように鋭く張りつめる。遠くで地鳴りがゴウと唸り、誰かが身をすくめた。やがて青年は唇を噛みしめ、踵を返した。列の背中が闇へ溶けていくのを、リンは拳を握りしめて見送っていた。

「颯……あの子ども、お腹空かせて泣いてたよ」

「分かってる。でもあの人数に食料を分けたら、俺たちもすぐにあっち側になってしまうから」

自分の声のかすれに、少し動揺した。

―――

さらに翌朝。早朝の余震に浅い眠りを破られたリンは、気晴らしにクロを連れて外へ散歩に出た。林道は昨日の揺れでさらに崩れ、倒木が迷路のように散乱している。灰まじりの細い雪が舞い、吐息が白く凍えた。

帰ろうと歩いていると、背後から枝が折れる鋭い音がした。振り返ると、三人の男が距離を詰めてくる。破れた作業服から覗く肌は土色に汚れ、手には鉄パイプや鋸刃をくくりつけた板を握っていた。その中に、昨日食料を求めた列にいた若い男の顔が混ざっている。

「やっぱり、あそこの家の女だな」

「大人しくしてりゃ、痛い目に遭わずに済むから。静かにしような」

男たちは、食料を分けてもらえなかった恨みと、欲望のはけ口としてリンを狙った。クロは唸り声を上げて立ちはだかったが、一人に蹴り飛ばされて林道を転がった。リンが抵抗しようとするも、背後から腕を捻り上げられ、選挙用の蛍光グリーンのベンチコートが乱暴に裂かれた。すぐさまベンチコートの下に着ていたシャツまで引き裂かれ、白い肌と下着が晒される。口を塞がれたまま、彼女の悲鳴は木々の間に呑みこまれた。

クロは立ち上がるとリンを一瞥し、そのまま林の奥へ走り去った。

―――

別荘の扉を激しく引っかく音に、俺は飛び起きた。クロが泥と雪を跳ね散らしながら吠え、玄関マットを噛んで外へ引っぱろうとする。

「リンに何かあったんだな!」

玄関脇の荷物置きに立て掛けてあった木刀──学生時代の居合の稽古に使い、非常時の護身用としてこちらへ持ち込んでいた白木の木刀──を握りしめ、蛍光グリーンベンチコートを羽織ってクロの後を追った。

林道を駆ける途中、縦揺れが再び足元を弾ませた。枯れ枝が雨のように降り注ぎ、視界が揺らぐ。クロは何度も振り返りながら、まるで俺を導くかのように走り続ける。

開けた伐採跡地── そこに、三人の男がリンを地面に押しつけ、かろうじて胸を隠している下着に手をかけ、乱暴しようとしていた。彼女の素肌は冬の冷気にさらされ、震えている。

「やめろッ!」

怒号と同時に木刀を横一文字に払う。最も近い男の肩に白木が叩きつけられ、鈍い破裂音と歓声にも似た悲鳴が混ざった。

クロは別の男の脛に噛みつき、残る一人は鉄パイプを振り上げてきた。俺は木刀を腕の内側に滑り込ませ、肘を鋭く突き上げると、男の構えが崩れ、パイプは地面へと落ちた。さらに柄頭で顎を撃ち上げると、驚きとともに抜けた歯が雪に飛んだ。

最後の男がリンを盾にしようと身を寄せたが、その瞬間、大きな余震が襲いかかる。地面が揺れ、男は重心を崩してバランスを失った。そのとき、リンが素早く踵を男で男の股間を突き上げ、男は苦悶の声を残して倒れ込んだ。

「次この辺で見かけたら殺す。消えろ」

木刀の先端を突き付けると、三人は互いを支え合いながら、茂みの暗闇へと逃げ去っていった。

―――

リンの破れた服から冬の冷気が容赦なく侵入し、彼女の肌は青白くなっていた。俺はベンチコートを脱ぎ、肩から彼女を抱き寄せる。

「クロが知らせてくれた。もう、大丈夫だ」

リンは震える声で答える。

「怖かった……クロ、ありがとう……」

クロは泥まみれの鼻先をリンの膝に寄せ、かすかに尻尾を振った。遠くで地鳴りが低く唸り、再び大地の警告を響かせた。

俺たちは互いの体温を確かめながら、林道を慎重に引き返した。別荘まではわずか数百メートルだが、揺れの続く足元は依然として危険だった。

白木の木刀を握る手がまだ熱を帯びている――この荒れ果てた世界で、彼女達を守れるものは自分の意志と、左手に握りしめた木刀だけだと痛感しながら、俺はリンとクロを守るように歩き続けた。

―――

別荘の玄関の戸を閉めた瞬間、湊が駆け寄ってきた。

「リン、大丈夫!?」

ボロボロに引き裂かれたリンの服と血の気が失せたリンの表情を見て、湊の顔は険しく歪んだ。

「怪我はないよ。でも、本当に怖かった……」

リンは微笑むように応え、クロが足元で鼻を鳴らす。俺は木刀を壁に立て掛け、玄関の扉を施錠した。

リビングに移動して、テーブルに地図と残りの物資リストを広げる。このまま俺たちだけで物資を消費すればあと2年近くは生き延びられるだろうが、果たして物資があると知られた今、ここを守り切れるだろうか。

「ここを捨てて逃げるか、ここを守るか――すぐに判断が必要そうですね」と湊が言い、リンは歯を噛みしめた。

「逃げるにしても、どこが安全なのか一切わからないな。でも、あの男たちがここに戻ってきたら……」

沈黙が重く落ちたとき、玄関の扉を控えめに叩く音がした。

木刀を握りしめ、そっと扉を開けると、昼間リンを襲った三人の男と、ひときわ大柄なリーダー格が玄関の前に立っていた。

リーダーは深々と会釈し、柔らかな声で切り出す。

「先ほどは、うちの若い連中が失礼を働いた。物資を半分でいいから分けてもらえないだろうか。そうすれば二度とここには近づかない。平和的に解決したいんだ」

俺は木刀を握ったまま、眉一つ動かさず返した。

「襲ってきたのは、あそこの三人だろう。どうして被害者側の俺たちが食料を渡さなくちゃいけないんだ」

リーダーは肩をすくめ、背後の男たちが薄く笑った。

「世の中は、持ちつ持たれつ、ってな。困ったときはお互い様だろ?こいらもおたくに怪我させられてるみてぇだし、こっちの被害の方が大きいくらいだ。和解金みたいなもんだ。それくらいで済むなら安いだろ?」

「和解金?こっちは完全に正当防衛なのに、そんな理屈がとおるか。帰ってくれ」

俺は扉をさらに強く閉め、木刀を置いた。

リーダーの眼が細く笑みを帯びる。扉越しにリーダーが颯に話しかける。

「穏やかじゃないねぇ。とりあえず、明日の朝までに考え直せ。こっちは人数を揃えて出直してくる」

言い残し、四人は坂を下っていった。

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