13.休日の警察官は基本的にジャージ
【SIDE:爽】
爽と舞は、無事に搭乗手続きを済ませ、出発ロビーで自分たちの飛行機を待っていた。テレビでは「手荷物以外は機内に持ち込めません」と告知されていたにもかかわらず、多くの乗客は海外旅行用の大きなスーツケースを引いている。結局、搭乗ゲートで入場を断られ、スーツケースを広げ、持ち込む荷物と置いていく荷物とに仕分けする様子があちこちで見られた。
道外から来た人々は、たとえ北海道に到着しても行き先が定まらず、着の身着のまま避難しなければならない。彼らにとっては過酷な話だが、貨物スペースに余裕をつくるために「人や薬、医療機器を優先して載せる」という説明があれば、誰も抗えない。
平時なら「お金さえあれば現地で買えばいい」という考えも成り立つが、今は金の価値そのものが暴落してしまっている。手荷物をめぐる家族やカップルの言い争い、子どもの泣き声が飛び交う中、人々は悲鳴に近い焦燥を抱えていた。紙幣は「政府が保障しているから価値がある」にすぎず、人類全滅の瀬戸際に立たされた今、ただの紙切れ同然だ。北海道や長野に不動産を持たない限り、一等地のタワーマンションや高級ブランドも、隕石ひとつで無価値になってしまう。
普段よく利用する羽田空港国内線ターミナルだが、この日ばかりは様子が一変していた。迷彩服を着た自衛官が慌ただしく行き交い、空港のあちこちには陸上自衛隊の緑色のコンテナが山積みになっている。航空会社のカウンターは空港職員と警察官が並んで対応し、ターミナルの出入口はすべて機動隊が封鎖していた。
映画のワンシーンのような非日常的光景に、爽はどこか高揚感を覚えつつも、その場の写真をSNSで颯に送りつけては実況していた。運転中の颯はスマホを見ることができず、既読にならないのはわかっている。それでも、この異様な空気を共有したくてたまらなかったのだ。
「颯に送っているのですか? 運転中ですから見られないと思いますよ」
舞が心配そうに言った。颯の運転を邪魔したくないらしい。
「はい、そうなのですが……この状況を兄にもお知らせしたくて……」
「運転中に気が散るのは危ないですから、写真だけ撮っておいて、既読がついたらまとめて送ればいいでしょ?」
「はい、わかりました」
普段は大人しい爽だが、舞には素直に従う。結婚初日から、二人の間には既に明確なパワーバランスが生まれていた。
───
「ANA480便の事前改札を開始します。お体の不自由な方、小さなお子様連れの方はお申し出ください」
搭乗ゲートでアナウンスが流れ、高齢者や身体の不自由な方、子ども連れの優先搭乗が始まった。ダイヤモンドメンバーなど会員優先搭乗は中止されているという。
「ようやく乗れるみたいね。実は私、飛行機に乗るのは高校の修学旅行以来だから、少し緊張しているの」
「海外旅行とかバンバン行っているイメージでしたけれど、意外です。私は舞さんにお会いするために、毎月飛行機に乗っていたヘビーユーザーですから、私にお任せください!」
「颯に会いに来ていると思っていたけれど、違ったのね?」
「いくら兄と仲が良くても、それだけで毎月は来ませんよ(笑)」
爽と話しているうち、緊張でこわばっていた舞の表情に笑みが戻った。こんな非常事態だからこそ、そばにいてくれる爽の存在がありがたく感じられた。
(もし今も本部長と別れていなかったら……彼はきっと、私より家族を優先していたんだろうな……)
二人が他愛もない話に花を咲かせていると、保安検査場のほうから怒鳴り声が聞こえてきた。
「いつもこのスーツケースは手荷物で持ち込めるだろ! 何が『載せられない』だ、ふざけんな!」
「申し訳ありません。警察の指示で検査しておりますので、通常の基準とは異なります。お荷物は紙袋をご用意しておりますので、お入れいただける分だけ移し替えてください。本当にご迷惑をおかけして、申し訳ございません」
爽たちが声のする方を見ると、サラリーマン風の初老の男性が保安検査場の職員に食ってかかっていた。
「俺は毎週この便で新千歳空港に行ってるんだぞ! 今日だって出張で札幌に行く予定だったのに、そっちの都合で搭乗が遅れるし、いつも持ち込める荷物が持ち込めないって、紙袋に入れろだと? どんだけ客を舐めてるんだよ!」
保安検査場の職員女性が困り果てていると、後ろまで控えていた「警視庁」と書かれた腕章をつけたスーツ姿の警察官が割って入ってきた。荷物の大きさをめぐって文句を言う客は時折いたが、大声で職員に詰め寄るクレーマーはいなかったため、警察官が出てくる事態は初めてだった。
「申し訳ございませんが、後ろに並んでいる方々もいらっしゃいます。お荷物を小さくまとめていただき、再度お並び直しいただけますでしょうか?」と、スーツの警察官は笑顔を崩さずに諭した。
「航空会社と話しているのに警察になんの関係があるんだ! 民事不介入って言葉知らないのか? 俺が何か犯罪でもしたっていうのか? 黙って後ろへ下がれ、このボンクラが!」
罵声を浴びせられても、スーツの警察官は眉一つ動かさず微笑み続けた。
「普段なら確かにそうですが、今は悠長なことを言っている場合ではありません。警察も余裕がない状況ですから、どうかご理解いただけませんか?」
警察官は初老の男性の肩にそっと手を置いた。
「触るな! 民事トラブルに介入するな! 職権乱用だぞ! 邪魔だ! どけ!」
初老男性は腕章の警察官の手を振り払おうとしたが、その直後、制服姿の警察官数名が取り囲み、若いスーツ姿の警察官が耳打ちして指示すると、その男性はあっという間に取り押さえられた。体格の良い警察官二人に引きずられるように保安検査場裏の事務室へ連れて行かれていった。
男性が連行されたあと、保安検査場の職員が警察官に深くお辞儀をしていた。だがスーツの警察官はにこりともせず一礼し、何事もなかったかのようにその場へ戻った。騒動のおかげで周囲の注目は男性に集中し、その後は誰一人文句を言わず、保安検査はスムーズに進んだ。
「舞さん、あの方、飛行機に乗れるのでしょうか?」
「たぶん大丈夫よ。あれだけ体格の良い方が本気で抵抗したら警察官二人でも抑えられないでしょうし、しかも“餃子耳”になってたでしょ? 柔道経験者じゃないかしら。あれだけ怒って暴れたのに、途中から手加減していたあたり、仕込みだったんじゃないの?」
「えっ……まさか。舞さん、子供向けミステリーの読みすぎですよ(笑)」
爽がそう言って笑っていると、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「よぉ、涼風くん。こんなご時世にでかい声で笑ってると、不謹慎罪で逮捕するぞ?」
爽とすっかり仲良くなっている大谷巡査部長と林巡査長が、私服に着替えて立っていた。
「あっ、大谷さん、林さん。私服に着替えたのですね。一瞬わかりませんでした」
大谷はグレーのスウェット姿、林は黒いジャージ上下だった。二人とも手ぶらで、まるで近所のコンビニへ買い物に行くかのようだ。
「おう、涼風君たちのおかげで他の連中より先に避難できたぜ。北海道に着いたら指示があるまでは待機になるからな。それより、さっき何を笑ってたんだ?」
「舞さんが先ほどの保安検査場の騒動を“仕込み”だと推理していたので、どこの名探偵だって話をしていたんです」
「おっ、奥さん、すげーな。じっちゃんが名探偵だったりするのか? まぁ、涼宮君たちだけには教えとくけど、大きな声を出すんじゃないぞ?」
爽と舞が笑顔で頷くと、長谷川は二人の間に割って入り、こっそり耳打ちした。
「さっき暴れてたのは警視庁OBの人だから、完全に仕込みだな。現職ではないけど、元々偉い人で、今も柔道の指導者として警察に関わっているから、何度か見かけたことがある」
思わず「えっ!」と声を上げた爽と舞だったが、小声だったため周囲の人々には気づかれなかった。
「ほらね? 言ったでしょ。今日から舞さんのこと『名探偵舞さん』って呼んでもいいのよ?」
舞が得意げに言うと、三人の男たちから笑い声が上がり、出発ゲート前の悲壮な空気が少し和らいだようだった。
───
そんなやり取りを続けるうち、一般客の搭乗が始まった。爽たち四人も席に着き、予定どおり離陸した。機内は特に混乱もなく、客室乗務員は普段どおりドリンクサービスを行い、通常のフライトと変わらなかった。
しかし、新千歳空港近くでは滑走路が混雑しており、着陸できずに上空を十回以上旋回してようやく着陸した。燃料不足で新千歳への着陸を断念し、函館空港へ向かう便もあったほどだ。
「はぁ~、やっと降りられたなー。途中で燃料が尽きるかと思ってヒヤヒヤしたよ」
大谷は飛行機を降りると両腕を大きく上げて伸びをし、そのまま歩いていた中年女性に肘が当たりそうになった。驚いた女性は険しい表情で睨みつけながら立ち去っていった。
「大谷先輩は、ビビりすぎですよ。羽田から満タンで飛んでいるのに、あれくらいで落ちるわけないでしょう。それに、機内でずっと小説を握りしめてましたけど、手汗で表紙がふにゃふにゃになってましたね」
今回のフライトは何度も旋回を繰り返したため、大谷巡査部長にとっては地獄のような時間だった。彼は高所恐怖症というより閉所恐怖症で、飛行機が苦手なのだ。乗るたびに気を紛らわせるため小説を読もうとするが、すぐに集中が途切れ、数ページ読んだ後は窓の外をぼんやり眺めたりコーヒーを飲んだりして時間をやり過ごしている。
「飛行機なんて、修学旅行と新婚旅行の二回しか乗ったことないんだから仕方ねぇだろ。あれだけぐるぐる回っていたら、普通に怖いと思うだろうが、ねぇ、爽くん?」
「さっきまでは『涼風君』って呼んでませんでしたか? まあいいですけど……大谷さんは飛行機が怖いんですか? 僕は一度も怖いと思ったことがありませんから全然理解できないですね。毎月乗っていますし、むしろ最近は飛行機が好きですよ。ちなみに舞さんは、着陸して私が起こすまでずっとお休みになっていましたよ」
「さすがは名探偵舞さんだな」
「そろそろ、名探偵ネタいいって。そんなことより、お二人はこれからどうされるんですか?」
「俺たちは、とりあえず道警が用意してくれたバスで道警本部にご挨拶に行ってから、家族と合流することになっている。札幌市南区川沿の石山通り沿いのホテルだけど、知ってるか?」
舞が「知ってる?」という顔で爽の方を見る。
「ええ、よく知ってますよ。あの辺りには他にホテルがないですからね。でも、あそこは標高がそれほど高くないですよね?」
「ああ、そうなんだ。とりあえず今はあのホテルに家族がいるんだけど、その後は近くの高台にあるHK大学に移るって聞いている」
「HK大学ですね。確かにあそこなら水没する心配はなさそうです」
「そうか。それなら安心だ。で、おまえたちは?」
「僕たちは、札幌の実家に向かいます。その後は、僕も上司から何度も連絡が来てるので、いったん道庁に登庁する予定です。上司から『今は忙しくて戦場のようだ。北海道に戻ったら大至急登庁しろ』というメッセージが10通以上届いていました」
現在、札幌にある道庁本庁舎は二十四時間体制で政府機関の受け入れを進めており、まさに戦場と化している。
「公務員はこんなときでも休めないから大変だよな~」
「いやいや、俺たちも公務員じゃないですか! 道警本部に行ったらすぐ仕事を振り分けられるでしょうね」
大谷巡査美朝がボケを披露するたび、林巡査長はツッコミに徹していた。
「じゃあ、私たちは電車で札幌に向かいますので、ここでお別れですね。さっき交換した電話番号もいつまで使えるかわからないので、うちの実家の住所を書いておきます。落ち着いたらジンギスカンでも食べに行きましょう」
爽は長谷川と林にそれぞれ実家の住所を書いたメモを手渡した。
「これから大変だろうけど、爽君達と友達になれて本当に良かったよ。ジンギスカン、楽しみにしているからな」
ドラマの主役のようにタバコをくわえ、右手を高々と振りながら去っていく大谷巡査部長の後ろ姿を、爽と舞は笑いながら見送った。しばらくすると、林巡査長の声がかすかに聞こえた。
「長谷川先輩、タバコに火を点けてないですよね? 空港内禁煙エリアだってお忘れですか? それ、火つけれないタバコ咥えてカッコつけてるの、ちょっと恥ずかしくないですか?」
爽と舞は顔を見合わせて微笑んだ。
到着ロビーで大谷巡査部長たちと別れた後、爽たちは空港駅から快速エアポートに乗り、札幌駅へ向かった。




