5 大学生の話
もがいて、あがいて、苦しんで。どこにやってもただ空を切るだけこの手を、いったいどこに伸ばせというのだろう。
堺麻友、十九歳、女。しがない都内の大学生である。所属は文学部である。
「麻友ちゃん、大丈夫?」
「ん、何が?」
「また一人で抱え込んで病んでない?」
「……いつものことだから、気にしないで」
「もう、心配くらいさせて?」
「ありがと」
友人の久遠祈織は、不安定な堺のことが放っておけないのか、毎日のように彼女の安否確認のようなものを行っている。というのも、堺には以前、自傷癖に近いものがあったのである。それは、自分で自分を傷つける事はないが、傷ついた自分を放置してじわじわ痛めつけるという、なかなか質の悪いものであった。そういうことを含めたいろいろを知っている久遠は、堺とそれなりに長い付き合いであることもあって、ほどほどの距離感を保ちつつ、こうして一友人のことを健気に心配しているのである。
「まったく、こんなに私にかまってくる人なんて祈織くらいだよ」
「え、もしかして、また授業で話す人減ったの?」
「まあね。合わなかったから」
「えー⁉ 折角友達増えたのに? もー」
「私には祈織がいればいいんだよ。あとは一人の方が楽だし」
「本当に?」
「この通り」
「……もー、私、麻友ちゃんの将来が心配だよ」
「母親か、っての」
久遠の言葉を適当にかわしつつ、心の内で堺は、彼女の言うことは的を射ているなと感心していた。
堺自身、幼い頃はこんなにひねくれた人間になるだなんて、思ってもいなかった。なんだかんだ言って、一番今の自分を受け入れられずに当惑しているのは、当人の堺なのである。自覚していてもなお止められない自身の卑屈な言動に、最早改善をあきらめるような眼差しさえ含んでいた。
あるときは、道端でへらへら歌っているシンガーソングライターの女が許せなかった。目の前に立つ客たちに媚びていればいいという態度に、堺は心底腹が立った。だから堺は、「あんた、本当に歌う気あんのかよ」と言ってやったのである。その時の堺の頭の中に、そのシンガーソングライターが良い歌を歌うようになればいいなとか、真面目にやればもっと売れているだろうにとか、そんな思いは全然なかった。むしろ、あわよくばやめないかな、さっさと現実見て諦めろよ、などと考えていた。あれからしばらく彼女の姿を見かけていないから、それが偶然だったにしても、堺は心の内でざまあみろと嘲っていた。
またあるときには、知人に呼ばれて急遽ドラマ撮影に参加したのだが、そこにいたゲスト出演の芸人にも腹を立てた。三好晴彦のことは以前から知っていたが、普段テレビでやっているネタの役につられているせいか、日常的な動作まで常におどおどびくびくして見えるのが、堺は気に食わなかった。そんな様子で挨拶してきたものだから、つい感情を抑えきれず、半ば脅すように舌打ちをしてしまった。そうしてまた、ざまあみろと内心反芻するのだった。しかし、その帰り道、何故だか最後までおろおろしていた三好のことが脳裏に浮かんで消えなかった。理由は、よくわからなかった。ただ、撮影していたときの役の方が素だろうに、なんでわざわざ本当の性格を隠してやがるんだ、とまた勝手に一人でいら立っていたことだけは覚えていた。
何でこう、あいつにもこいつにもいちゃもんをつける姿勢になっているかを説明するには、彼女の前歴に触れる必要があるだろう。それが何かと問われれば、堺麻友は子役だったのである。重要なのは、それが過去形で表されているということだろう。
堺麻友は、子役だった。将来の夢は女優だと家庭内で語っていたころに、たまたま運よく街中でスカウトされたことがきっかけだったと、何度も繰り返しインタビューでそう話したのを覚えている。では、なぜやめてしまったのか。堺の夢は女優であったからである。一見矛盾を感じさせられるが、実状を知ればその食い違いは明らかであろう。堺は確かに子役としてデビューし、活躍していった。しかし、その活動の幅が広がっていくうちに、いつしか歌手に近い路線に踏み入れていくことになった。というのも、堺は歌が非常にうまかったのである。さらにいえば、幼い頃から随分賢かったので、ファンサービスもお手の物だった。当時の仕事の振り分けはマネージャーや親の指示だったから、堺は何の疑問も持たず、当然それに逆らおうともしなかった。いや、そこは何にもおかしくないと、ある意味充実した生活と天秤にかけて、その迷いを振り払っていただけかもしれない。そうこうしているうちに、堺はどんどんアイドル歌手みたいになっていった。テレビに映る時の衣装も、いつしかピンクのフリルが溢れるようになった。ドラマの撮影よりも、歌番組やそれ関連のバラエティに呼ばれることが、視聴者も察するほど明らかに多くなった。そうして数年経った頃、どうして私は演技より歌の仕事が多いのだろうと、ようやくその違和感と向き合うことができたのである。堺はそれを自覚してから、まずはどうにか現状を変えようと周りに訴えた。歌は好きだけどやりたいのはこれじゃない、私は女優になりたいんだと、声高らかに両親や番組関係者などに告げた。しかし、周囲の人々は子どもの戯言をちっとも聞かずに、変わらず彼女の歌を期待して目を輝かせ続けていた。それで、堺はうんざりして、芸能界とはすっぱり縁を切ったのだ。当時はまだ小学生だったから、成長するにつれて顔立ちはみるみる大人びていき、性格の変化も相まってか、現在は当時の面影がほとんどなくなっている。今では誰も彼女がかつてのスター子役だったとは気がつかず、普通の大学生として一般社会に溶け込んでいる、というわけである。
こうして、いつの間にか堺の人生の軸は、女優になりたいという輝かしい夢から、芸能界で夢を追うなんてクソくらえという風に、それはもう恐ろしい変貌を遂げた。そして、堺の抱えるそれを唯一知りうるのが久遠という存在なのであった。
「はー、クソだる」
なんだか嫌なことを思い出してしまった、と堺は道端にそう吐き出した。それは電車から下りて先を急ぐ人々の合間で踏みつぶされ、跡形もなく消えて行った。どうしてこんな世間なのだろう、と堺は憂えずにはいられない。それはもう、十年近い間ずっとだ。夢なんてまともに追いかけることすら叶わないのに、どうしてあたかも叶うように思わせておくのだろう。堺は、そういう世界を作り上げる大人たちが嫌いだった。大人になっていくことに逆らえない自分も、嫌いだった。
「あ」
そんなごみごみした頭の中を振り切って駅の改札を抜けようとしたとき、堺は思わず声を洩らした。鞄のポケットをまさぐって見たが、定期が見つからない。ひとまず、強引に人波を押しのけ、改札から手前に戻る。再び鞄に手を突っ込んでみたが、電車に乗る前には確かに入っていたはずのパスケースが見当たらない。ついてない、なんて日だ、と心の中で悪態をつくも、まるで意味がないと知っているから堺は肩を落とすしかなかった。
「あの」
すると、堺は明らかに自分にかけられた声を拾い上げた。
「これ、お姉さんのですか」
そう言って目の前に差し出されたのは、紺色のパスケースだった。それは、思った通りと言うべきか、間違いなく堺のものだった。
「あ、そうです。ありがとうございます」
「いえいえ。追いつけて良かったです」
「っ、た、高島先輩!」
快活に笑う少年にお礼を述べていると、また別の人物が駆け寄ってきた。どうやら、彼の後輩らしい。
「先輩、速く、ない、ですか」
「そう? ごめんごめん」
「え、走ってきてくれたんですか。なんかすみません」
「いえ、お気になさらず。これでも運動部なんで」
肩を揺らしている後輩の隣で、先輩にあたる少年はちっとも疲れていない様子でそう言った。彼の後輩はそんな先輩の姿を見て、「僕もランニングとかしようかなぁ……」と呟いている。
「それじゃ、俺はこれで失礼します。野崎、行くぞ」
「は、はい!」
礼儀正しくお辞儀をした後、少年は人混みの中へ去っていった。後輩も、こちらに向かってぺこりと頭を下げると、慌てて彼の背中を追って行く。それをぼんやり見送っていると、堺にもたらされたわずかに明るい空気ごと背負って行った二人の少年の背中で、ラケットケースが揺れているのが見えた。
「テニス部かな」
堺はなんとなくそれらに見覚えがあった。おそらく、昔訪れたドラマの撮影現場ででも見かけたのだろう。堺にはそれが、彼らの胸の中で揺れ動く輝きのように思えた。
「青春、いいなぁ」
堺には、どうして自分がそう呟いてしまったのか、わからなかった。しかし、なんだかぎゅっと胸が締め付けられるような感覚がして、それがそのとき見た光景の余韻を引きずっていた。
少年に届けてもらった定期で、堺はすんなりと改札を抜けた。今度は問題が起きなかったことに、少し安心した。
駅から堺の家までは、徒歩で行ける距離である。ちょうど日が落ちるくらいの時間帯に裏通りを歩いて行かなければならないので、両親はちょっと過剰なくらいに心配していたが、本人は寧ろこの帰り道のどこか怪しげな雰囲気を好んでいた。
人の欲に塗れた道中を満足げに眺めていると、ふと堺はあるものに目がひかれた。そこには、ここらの店にしてはやけに凝ったポスターが、ちょうど電灯に照らされていた。さりげなく近づいてみると、一枚の紙の向こう側に綺麗な夜空があった。堺は思わず息を吐いた。同時に、こんなに素直に何かを綺麗だと思えたのはいつぶりだろうかと、自分のことを皮肉にも思った。
しばらくその世界を堪能していると、堺はあることが気になり始め、ふっと意識が戻った。堺が興味を持ったのは肝心のポスターの告知内容ではなく、この絵を描いた人物の名前の名前らしきものであった。
「『@そのへんの田辺』ってどういう……?」
「あ、やっぱりそこ気になるよね」
頤に手を当てて首を傾げていると、突然隣から声が響いてきた。さっきまで一人でいたはずなのに、と堺が驚いて、まるで背後に胡瓜を置かれた猫のような反応を見せたので、その女性は初対面にもかかわらず、隠す素振りすらなく笑っていた。
「あはは、ごめんね。そんなに驚くとは思ってなくて」
「……突然話しかけられたら普通驚くでしょ」
堺は女性の反応に、すねた様子で口をとがらせている。
「ねぇ、これ興味ある?」
しかし、女性は堺の話を聞いているのかいないのか、強引に話の舵をきった。
「興味ある、っていうか。ただ単に、絵が、綺麗だなって」
「あ、ほんとに? よかったー。ポスターどうしようかなーって悩んでたときに同僚だった人が紹介してくれてさ、SNSに投稿されてる絵見せてもらったんだけど、私一目惚れしちゃって。で、この人に『ポスターの絵を描いてもらえませんか』ってお願いしたの」
「そうなんですか。……なんか、世界が生きてるって感じがしますよね」
「でしょでしょー」
女性は頬をほころばせながら、テストの点数を褒められた子どものように返した。よく笑う人だなと堺が思っていると、女性ははっとしたような表情で話を切りかえた。
「あ、そうそう、本題は田辺さんの話じゃなくてね。この後ちょっと時間あるかな?」
「あるっちゃあるけどないっちゃないですね」
「あっれ、もしかして私、怪しまれてるのー? えーん、泣いちゃうぞ」
堺の返答の意図に気づくと、女性はわざとらしく泣いたふりを始めた。堺は女性のテンポについていけず、ため息をついた。
「で、何ですか。怪しい店には行きたくないんですけど」
「怪しい店じゃないよぉ。ほらここ」
女性は堺の声を聞くとすぐに立ち直り、ぱっと明るい表情でポスターのある部分を指さした。
「マジックバー?」
「そう」
「マジック……」
「どう? 見たくない?」
「……え、あなたがマジシャンなんですか」
「そうなの!」
嬉しそうに目を輝かせると、女性は堺の目の前で、何にもないはずのところから花を出して見せた。
「どーぞぉ」
「え、すご」
堺はありきたりな感嘆の声を漏らしながら、差し出された花を受け取る。
「悲しいことにさ、私の公演、まだ席が余ってるんだよねー。ってことでさ、見に来ない?」
「私がですか?」
「うん? 他に誰が?」
「いや、私マジックなんて何もわかんないし」
「大丈夫だよー、最初は誰でも初めてだから」
「え、あ、ちょっと」
女性はにこやかな表情で、さりげなく堺の背を押し始めた。女性の力は思ったよりちゃんと込められていて、よろけた堺は抵抗する意思に逆らって一歩を踏み出してしまった。なんだか嫌な予感がして、恐る恐る背後を振り返って見ると、それを見逃さなかった女性がにんまりと満足げな笑みを浮かべている。そこで堺はようやく、自分がもう戻れない道に踏み入れてしまったことを悟ったのだった。
「あ、名前聞いてもいい?」
「堺です」
「堺さんね、オッケー。あなたの席はこちらでーす」
「……ありがとうございます」
店内は明るすぎず、かといって暗すぎもしなかった。予想よりかは幾分か馴染みやすい雰囲気に、ほっと息をつく。堺が女性に言われた席に着くと、女性もすぐ隣の空席に腰をかけた。
「え、座るんですか?」
「うん。まだ時間あるし、ちょっとおしゃべりしようかなって」
「はぁ」
「何か気になることとかある?」
女性に聞かれて、堺は顎に手を添えて真面目に考えた。こういうとき、無言で過ごす時間ほど怖いものはないのである。数秒の後、堺は素朴な疑問にたどり着いた。
「あの、自己紹介してもらえますか」
「あぁ、そういえば忘れてた」
さっぱり言い切った女性は、姿勢を正して堺の方を向き直った。
「はじめまして、SOLAと言います。元OLのアラサーマジシャンです。よろしく!」
にぱっと笑いかけられて、堺はどうしたらよいのか分からず、とりあえず目の前で手をぱちぱちと叩いた。
「あれ、ツッコミなし?」
「え、つっこんでいいんですか」
「いいよー。何でも聞いて?」
「元OLってどういうことですか」
「そのまんまの意味だよ」
堺はためらい一つないSOLAの言葉に戸惑った。そして同時に、この人やっぱり普通じゃないとも思った。だから、「どういう意味だよ」と聞き返す気には到底なれなかった。無論、実行に移す前に効果がないであろうことを悟ったのである。
「会社、辞めちゃったんですか?」
「うん」
「どうして」
堺が迷子になった子どものような表情を浮かべたのを見て、SOLAは思い出話を懐かしむかのように語り始めた。
「私が初めてマジック好きになったのはね、高校生の頃だったんだー。友達とかにもよく見せたりしてた。本当はそれでお金稼げたらよかったんだけどさ、あいにく私にはそんな勇気はなくて。大学でマジックのサークルに入って、大学卒業したらもちろんそこにはいられなくなるから、それでおしまい。の、はずだった」
SOLAはそこで一旦息を吸い込んだ。堺は、なんだかそれに呑みこまれてしまいそうな気がした。
「そのはずだったんだけどさ。大学卒業して、何年か普通に働いて、ある日、たまたま大学の前を通りかかったもんだから、学祭に顔出してみたの。そうしたらそこに来てたマジシャンが、もう、すっごくってさ。それで、次の日会社辞めちった」
「『辞めちった』じゃないでしょ」
「いやいや、ほんとにそんなんだったって」
「だって、会社辞めるって、生きていけなくなったら」
どうするんですか、とは続けられなかった。それは、目の前にいる人物に対して失礼すぎる発言だというおことは、堺自身よく分かっていた。わずかに息を洩らした堺に、SOLAはあっけらかんとした様子で言った。
「それが案外いけるんだよね。一応貯金はあったし、たまたまここのオーナーに拾ってもらえたし、さっきやった自己紹介を面白がって何回も見に来てくれる人もいるし」
SOLAはそうやって言いながら指折り数えていた。堺には、彼女のあまりにも軽すぎる態度が気に食わなかった。そして当然ながら、堺にはそれを隠しきるだけの度胸はなかった。
「結果論は嫌いです」
堺が苦々しく口にした言葉に、SOLAは目を丸くした。しかし、その面持ちはすぐに穏やかさを取り戻した。
「そうだねぇ。私もどっちかっていうと好きくない」
「じゃあなんで――あぁ、そっか。夢が叶ったやつしか、結局そういうことは言えないんですよ」
「まぁ、確かに」
堺の重々しく響く言葉をさらりと受け流すSOLAに、堺はさらに苛立った。
「大人なんて、汚くて、大っ嫌いだ」
「私も嫌いだよ」
すると、SOLAの口から思わぬ言葉が飛び出してきて、堺はそらしていた目を再び彼女の方へやった。SOLAは、愚痴を吐かれたにしてはあまりに優しすぎる笑みを携えていた。
「でもね、大人だって、なりたくて汚くなっていくんじゃないんだよ」
「……うん」
「皆さ、大なり小なり多かれ少なかれ、夢は持ってたんだよ。ただ、それが叶わなくって、悔しくって、それでヤケクソになってるんだよ、多分」
そんなことを言いながら、SOLAはブランコに乗った子どものように足をぷらぷら揺らしている。
「子どものままでもいいかなーって、私は思うんだよ」
「こども」
「そ。そりゃあ一般常識とかお金とか、あるに越したことはないけど。でも無理して大人ぶる必要ないじゃん」
「……笑われますよ」
「子どもだから何にもわかりませーん」
おかしな理屈を述べながら、SOLAはくふふと声を洩らして笑った。その様子を見て、さっきまでの緊張感はどこへ行ったのやらと、堺はなんだか気が抜けた心持になった。
「あ、そろそろ時間だ」
「……すみません、くだらないことでひきとめて」
「いいのいいの。くだらなくなんかないしね。それに、八つ当たりも子どもの仕事でしょ?」
「八つ当たりって……ていうか私は」
「じゃ、行ってきまーす」
ひらひらと手を振ると、軽快なステップを刻みながら、SOLAはバックヤードへ去って行った。「子どもじゃない」という言葉と共に席に一人取り残された堺は、背もたれにちょんと体重をかけた。今更帰ろうという思いは、なかった。
それからしばらく携帯をいじっていると、堺はふと周りに人が集まり出していることに気が付いた。さっきまでの静かな反響は、今やもう期待の声の渦に飲み込まれてしまったようだ。そっと会話を盗み聞きしてみるに、どうやら彼女には一定数のファンもいるらしい。
そうやってきょろきょろ周りの様子をうかがっているうちに、店内の照明が徐々に落とされ、舞台上にスポットライトが照らされた。様々な方向を向いていた視線の糸が、主を探すように一斉にそちらに集まる。さっきまですぐ隣で話していた彼女は、ずっと先に見えるステージの上で真直ぐに立っていた。そうして、いよいよSOLAによるパフォーマンスが始まった。
堺がマジックショーというものを見たのはこれが初めてのことで、珍しく見惚れていた。それは文字通りの魔法を見せられたからというだけではない。何せ、つい先ほどまでそばで話をしていた人物と同じ人だということが信じられないくらい、舞台に立つ彼女は堂々としているさまだったのである。ふいに口角を上げたり、指が軽快なリズムを刻んだりと、会話の最中にひょっこりと顔を出していた子ども心は隠しきれていないようだったが、やはり舞台の上に立つ覚悟が堺にはひしひしと感じられた。そういう目に映る彼女の動作全てが輝かしい魔法の粉を振り落としていくようで、堺は自然と彼女から目が離せなかった。技術的なレベルはよく分からなかったが、魔法って本当にあるのかもしれないと、そういう妄想に耽れるくらいには、堺はその世界に没頭していた。
しかし、ショーが後半に突入すると、堺は時折不思議な気持ちに襲われ始めた。あそこはああ動いた方がきれいに見えるだろうに、あのタイミングで表情がうまくハマればもっと見惚れただろうに。SOLAのショーに感心しながらも、いつの間にかそういうことを頭の隅で考え始めていたのである。すると、今までは魔法で輝いて見えていたはずのショーが、急にただの遊戯でしかないように思えてきた。あんな人でもあそこに立てるなんて、あれで夢が叶った気になってるなんて。そう悪態をつきながらも、堺の胸の内には彼女によって焚きつけられた灯火があるのも確かだった。
そうして、ショーが終わりを告げた時、ようやく堺はその感情の名前を正しく理解したのだった。自分は、きっと悔しかったのだ。自分が諦めた道をこんなにも迷いなく進んでいる人がいるのを目の当たりにして、この人の人生に嫉妬したんだ。
「私、夢追いかけたかったんだ」
それが、堺の答えだった。
「なんで、諦めちゃったんだろう」
堺は、こうやってぐずる姿はまさにクソガキ同然だろうなと思った。しかし、頬を伝う涙を無理にせき止めることはしなかった。寧ろ、自分の中にまだ子どもがあることが知れて、ひどく嬉しくもあった。
「えっ、さ、堺さん⁉ だっ、大丈夫? じゃないよね?」
パフォーマンスを終えて戻ってくると何故だか自分が呼び込んだ客が泣いているのだから、SOLAは当然慌てふためいた。
「え、えーっと」
涙が収まらない堺を見て、SOLAは両手をうろつかせる。そして、両手をぐっと握り込んだ後、それをゆっくりと開いてみせた。そこには空色のパッケージに包まれた一粒のキャンディーが、可愛らしくちょこんと佇んでいた。
「ど、どうぞ」
今までの様子と打って変わっておずおずと差し出されたものだから、堺は思わず笑ってしまった。SOLAは、堺の表情の変化にまだついていけていないらしく、びくっと大げさなくらいに肩を揺らした。しかし、「ありがとうございます」という落ち着いた声を聞き取って、ほっと胸をなでおろしたようだった。
「あの」
「ん?」
「ステージ、見せてもらえたりしますか」
「おぉ?」
堺の眼差しが変わったことに気がついたのか、SOLAはすぐに「ちょっとオーナーに聞いてくるね」と駆けて行った。そして数十秒後、バックヤードからぴょこんと顔を出すと、堺の方に向かって両手で大きく丸を作って見せた。もちろん、笑顔も添えてである。
SOLAに連れられて上ったステージは、堺が子役の頃に立ったほとんどのステージより小さくて、狭苦しくて、みすぼらしかった。どうしてショーの最中はあんなに光を放っているように見えたのか、不思議で仕方がない。しかし、本能的にはその理由を感じ取っているのか、堺にとってはこのステージがどれよりも一番輝かしいものに思えた。
「どう?」
ステージの中央に降り注ぐスポットライトを舞台袖からぼうっと眺めていると、SOLAにそう問いかけられて、堺はふっと笑みをこぼした。
「そうですね。あなたより私の方がステージ向いてそうだなとは思いました」
「えっ」
「冗談です」
「もー、脅かさないでよぉ」
「でも、私も、ステージに立ちたいなって、今日思いました」
「じゃ、始めないとね」
SOLAがそう言うと同時に、堺はなにかあたたかい二つのものに押し出された。驚いた堺は、ばっとSOLAの方を振り返った。
「ユーキャンフライ、ってね」
そこには慈しみの笑みが浮かべられており、目には星が宿っている。が、堺からすれば、その本質はいかにもいたずらが成功したことを喜んでいるような感じだった。
そしてやはり、と堺は思った。それがたとえ一時の気の迷いだったとしても、どんなに重く暗い道を歩むことになったとしても、そうやってどうしようもなく夢に溺れている人たちが、きっとこの空の下で一番輝いて見えるのだ、と。
「……眩しいなぁ」
久方ぶりのスポットライトに照らされながら、堺は二本の足でステージをぎゅっと踏みしめていた。