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空をかく  作者: 星野紗奈
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2 歌い手の話

 空を書くことができる人間なんて、この世に存在するのだろうか。いや、どうせそんな奴いない。だって私たちは皆、薄っぺらい人間だもの。でも、もしそんな歌があったら――――。そんな堂々巡りの思考回路に、呆れたようにため息をついた。

 邦枝凛子、十九歳、女。シンガーソングライターとして認められることを目指し活動している、アルバイターである。高校二年生の頃からシンガーソングライターを目指し始め、これまでに何度も作詞作曲や路上ライブを行ってきた。動画投稿サイトで路上ライブの様子をアップしたり、SNSでシンガーソングライター名義のアカウントを作って宣伝したりといったような積極的な活動のおかげか、少しずつ固定ファンが増えつつある現状に、邦枝は嬉しそうに鼻を鳴らしていた。

 しかし、人生はそううまくはいかないものである。邦枝の上向きな心を後ろからひっ捕まえて止めたのは、ある夏の日の出来事だった。その日も、邦枝は駅の近くで路上ライブを行っていた。

夏場は比較的暑さがマシになる夜に路上ライブを行うことが多かった。加えて、邦枝は近場で開催されていた夏祭りから人が流れてくれば万々歳だとも考えていた。

 何曲か歌い終えると、まばらながらも拍手が聞こえてきた。一方で、拍手はしていないがその辺にもたれかかって聞いている人、立ち止まって見ている人、通り過ぎるときに横目で見る人などもいる。活動を始めたばかりの頃に比べれば、ずいぶんと悪くない反応である。邦枝は、今日もそこそこ集まったなと思いながら、愛想よく笑顔で「ありがとうございます!」と言った。

 そんな邦枝の対応に一部のファンがポジティブな応援の言葉を浴びせる中、ある女が発したたった一言を邦枝は聞き逃さなかった。


「つまんな」


 邦枝は思わず真顔になって「え」と声を漏らした。だがすぐに思い直し、人当たりの良い笑顔を張り付ける。誰だ、そんなことを言ったのは。音の発信源を探って目をやると、そこには一人の、病み系というのか、あるいはアンニュイとも表現できそうな女性が立っていた。邦枝の目線が動いたのにつられて、一部の観客もそちらに目を向ける。

 邦枝と目が合ったことに気がついたのか、女はため息を一つついた後、邦枝の方をすっと見据えて口を開いた。


「この曲、あなたが自分で作詞作曲したんでしょ? メロディーはまあ頭に残るし悪くないとして、歌詞がつまんなさすぎ。本当に目の前で歌ってるやつが書いた言葉なのかってくらいの薄っぺらさだわ。歌詞が薄っぺらいから歌に対する感情も薄っぺら、そんでもってその万人受け狙ってそうな声と顔が加わって歌全体がクソみたいな仕上がりになってる」


 そうして最後に、嘲笑を添えて「あんた、本当に歌う気あんのかよ」と吐き捨てた。邦枝はただひきつった笑みで突っ立っていることしかできなかった。それはアンチに対する恐怖などではなく、女の心ない、というか八つ当たりとも取れるような言葉に腸が煮えくり返りそうなのを抑え込むのに必死だっただけである。邦枝は「今は人前」という言葉を繰り返し胸の内で唱え、平常心を装っていた。

 そんな邦枝を見た女は、舌打ちを一つ残してどこかへ去っていった。あんなふうに言われたのは初めてで、とにかく笑顔を保つので精いっぱいだった。

 なぜ、ただの通りすがりでしかないお前にそこまで言われなければならないのか。なぜ、歌うことをわかっているかのように語るのか。努力しているのに。真面目にやっているのに。そんな言葉が邦枝の頭の中をぐるぐると回った。女の行動に対して思うところはたくさんあったものの、最終的には「やってもいないやつに言われたくない」という結論に至るのだった。

 女が邦枝の視界からいなくなった後、ファンは「凛子ちゃんの歌は素敵だよ」「あんなのは気にしなくていい」と励ましの言葉をかけた。そんな声をきっかけに、邦枝は怒り渦巻く思考から覚め、ライブを再開したのだった。しかし、その後自分がどうやって歌ったのか、観客がどんなふうに反応したのか、そしてどうやって家に帰ってきたのかを邦枝は覚えていなかった。たった一つ邦枝が認めなければならなかったことは、女の吐き捨てていった言葉がいつまでも邦枝の脳裏に焼き付いて離れなかったということだった。

 邦枝にシンガーソングライターという夢を与えてくれたのは、一人の少女だった。少女は歌手ではなく子役だったのだが、邦枝と一つしか歳が違わないというのに、テレビに引っ張りだこだった。それはもう、当時テレビで少女の姿を目にしない日はないというほどの人気っぷりだった。画面には音楽番組のきらびやかなステージが映し出され、そこでまっすぐに立って力強い声で歌っている。そんな少女の姿に、邦枝は幼いながらにひどく心を打たれたのだった。実際に邦枝がシンガーソングライターを目指して具体的な活動に乗り出したのは高校二年生の頃だったが、その行動の原点には小学生の頃の記憶にあるその少女への憧れがあった。


「凛ちゃん、大丈夫?」


 透き通るような声が耳に響いて、邦枝ははっと我に返った。横では、コンビニのバイト仲間である久遠祈織が心配そうに邦枝のことをのぞき込んでいる。どうやら、思考にふけっていたせいで陳列作業の手が止まっていたらしい。邦枝は慌てて「大丈夫です、すみません」と謝った。


「そう、ならいいんだけど。何かあった?」

「……まあ、はい。昨日の路上ライブでちょっと予想外の出来事があって」


 邦枝はそう言いながら、眉尻を下げて笑った。久遠は邦枝の表情にどこか寂しさや危うさが含まれているような気がして、なんだか放っておけないと、そう思ったときには既に口が動いていた。


「凛ちゃん、今日お昼で終わりだよね?」


 突然話の方向が変わったことに戸惑いつつも、邦枝は首を縦に振る。


「私も今日はお昼までだから、そのまま一緒にご飯食べに行かない? 凛ちゃんのお話、いっぱい聞かせてほしいな」


 なんだかんだ、邦枝は久遠とバイト先以外で会ったことがなかった。自分がシンガーソングライターを目指しているということはなぜだかバイト仲間ほぼ全員に知れ渡っていたが、その詳細を誰かに伝えたことはない。話したところでたいしたものは得られないと、夢を追いかけてから二年ほど経ったころに気がついたからだ。

 邦枝の夢を聞いた人のうち、三割は反対の意を示し、一割は「話のネタになりそうだ」と応援するフリをする。そして、一番多い五割は笑顔で相槌を打ちながら「どうでもいい」と考えているのだ。したがって、正しく自分の夢の話に興味を持ってくれるのは、良くてせいぜい一割程度の人間だった。

 だから、邦枝は自分の夢について話すことに少し戸惑いがあった。加えて、邦枝は不本意かつ無自覚ではあるが絶賛落ち込み中である。久遠は優しいから断っても今後態度を変えることはないだろう。他人にシンガーソングライター活動の話をするのにはまだ抵抗があるし、心が不規則にざわざわしている今の自分には碌な話ができる気がしないから断ってしまおう。そう決めて邦枝は顔を上げた。しかし、目線を合わせて小さく首をかしげ、ちょっぴりの申し訳なさを含ませて、あざとく「だめ、かな?」と聞かれてしまえば、もう邦枝に断る術はなかった。

 久遠が連れて行ってくれたのは、落ち着いた雰囲気のおしゃれなカフェだった。客が少なく物静かであるが、店内のあちこちで目に入る木目がどこかぬくもりを感じさせる。邦枝は、久遠はもっと店の壁が全部パステルカラーで塗りたくられたふわふわしたパンケーキのお店の方が似合いそうなものだが、と内心少し驚いていた。

 食事をしながら、久遠は邦枝の話をよく聞いた。それは夢の話に限ったことではなく、邦枝の誕生日だとか、好き嫌いだとか、最近出かけた場所だとか。どの話題でも会話が不自然に途切れることはなく、邦枝は、この人はちゃんと私のことを見てくれているんだ、と食事に誘われた時の戸惑いを忘れるほど居心地がよいと感じていた。一方で、どうして自分に興味を持っているのかと疑問にも思った。邦枝はある部分で思い切りのいい性格をしているため、尋ねることに躊躇はなかった。


「祈織さんは、どうして私の話を聞いてくれるんですか」

「『どうして』ってどういうこと? あ、もしかして私聞いちゃまずいこと聞いてたかな⁉」


 そう言って久遠がいきなり頭を下げて謝ろうとしたものだから、邦枝は慌てて止めた。


「違います、そうじゃなくて! えっと、こういう夢とかの話って大体反対されるじゃないですか。どうせ叶わないって。それか、適当に『頑張れ』とかなんとか言う人ばっかりだし。だから、こうやって私自身のことにも興味持ってくれて、夢のことも素直に応援してくれるタイプの人は珍しいなって思ったので、聞いてみたんですけど」


 邦枝の説明を聞いた久遠は「よかった」と胸をなでおろし、優しい微笑みを浮かべた。


「私ね、夢を追いかけている人って本当に素敵だと思うの。ずっと先を見据えて瞳をキラキラさせている感じとか、自分の道をがむしゃらに走り続けている感じとか、かっこよくて憧れちゃう。そうやって頑張っている人の姿ってとってもまぶしくて、私、応援せずにはいられない。それにね、『がんばれ!』って応援していると、『私もがんばるぞ!』って気持ちになるのよ」


 久遠の声には、確かに熱がこもっていた。邦枝は久遠の話しぶりを見て、彼女は応援することに取り憑かれているのではないかとさえ思った。だが、追いかける人と応援する人の両者がいてこそ夢は輝きを増すのだろうという気づきは、邦枝にとって非常に大きなものであった。

 しかし、突如声色を一転して、久遠は悲しそうな表情を携えてこう切り出した。


「私のお友達でね、あの子は自分で気づいていないかもしれないけれど、夢をあきらめちゃった子がいるの。だから今は、その分もって言ったらおかしいんだけど、今頑張っている人を精いっぱい応援したいなって思ってる」


 久遠は、「だから、私は凛ちゃんのこと応援するよ」と邦枝に微笑みかけた。その態度は、友人が夢をあきらめたことは残念ではあるが、言葉通り自分は今を見つめていると語っているようだった。邦枝は、自分がその人の代わりにされているだとか、そんなことは別に思わなかった。むしろ、自分のことを夢を追う者としてとらえたうえで発せられた言葉に、胸の中で何かがくすぶるのを感じた。


「……ってことがあってさー、新しい曲作ってみようと思うんだけど、やっぱ作詞がうまくいかないんだよねー。瑠璃姉、何かアイデアない?」

「久々にお出かけのお誘いがあったと思ったら、そういうことかぁ」


 楽曲制作の壁にぶち当たった邦枝は、後日、いとこにあたる茅瑠璃に相談を持ち掛けていた。うんうんうなって相談する邦枝に対し、茅は邦枝の悩みを軽く笑い飛ばしながら、呑気にずずっとフラペチーノを飲んでいる。


「何かって言われてもねぇ。そもそも、曲作りってテーマとか先に決めるんじゃないの?」

「それは人それぞれだけど……そもそもテーマすら思いつかないんだよ」


 目の前でうなだれる邦枝に対し、茅は「ありゃま」とこぼすだけで、フラペチーノに舌鼓を打っていた。


「もうあの女に『薄っぺら』なんて言われたくないもん。……って、瑠璃姉聞いてる⁉」

「聞いてる聞いてる」


 茅はそう返しながら、また喉をごくりと鳴らす。仕方がない、まだ残る夏の暑さのせいで、フラペチーノはすぐにでろでろになってしまうから。ちなみに、邦枝の注文したアイスココアは、上にのっていたホイップクリームが既にただの白い液体に変わりつつある。茅は、半分ほどフラペチーノを飲み進めたところで、ようやくカップをテーブルに置いた。


「んー、じゃあ、いつもと違うことしてみたら?」


 ピンと人差し指を立ててそう提案する茅に対し、邦枝は「いつもと違うこと?」と復唱して首を傾げた。


「例えば、一枚の絵をモチーフに一曲かいてみるとか」


 満面の笑みでそう言った茅に、邦枝はなんだか嫌な予感、というか面倒な予感がした。しかし、邦枝が「それって」と聞き返す言葉をさえぎって、茅は語り始めてしまった。


「ってことで田辺さんのイラスト鑑賞会しよ。マジで神絵師だから」

「田辺……あー、『そのへんの田辺』ってアカウントの人? 前にもその人のこと紹介してきたよね。その時一応見たけどさぁ、アニメとかの絵ばっかりじゃん。下手くそではないと思うけど」

「ちっちっち、甘いなぁ凛子ちゃんは。最近ね、なんかすっごく成長してるんだよ」

「なんで瑠璃姉が偉そうなの……」


 萎えた顔をする邦枝を気にする素振りもなく、茅はスマートフォンを忙しなく操作している。そうして、画面をずいと邦枝の方に近づけてきた。


「これを神絵師と言わずして何と言う」


 しぶしぶ茅からスマートフォンを受け取った邦枝は、画面に表示されたイラストを見て目を見開いた。

 空を一面赤く染め上げる夕焼けが描かれたそれは、邦枝の心を強く揺さぶった。細かく重なり合う色たちはやけに鮮やかで、様々な感情が自分の中で熱を持ち始める。そのとき、絵の中の世界が確かに生きているように見えた。空を染め上げる夕日のように、見た者の胸すらも独自の色に染め上げてみせるイラストに、邦枝は圧倒された。と同時に、空を描くってこういうことか、と納得させられた気分になった。

 その反応を見ていた茅は、非常に満足げな表情を浮かべた。


「え、これ本当にあの人? キャラ絵ばっかで、空とか、こんなの描いてなかった気がするんだけど」

「信じらんないよねー。ちょっと前から急にこういうのも描くようになったらしくて。私もびっくりしちゃった」


 まだ絵の衝撃の余韻が残る邦枝に対し、茅は「まぁ、私の審美眼は間違ってなかったってことよ」と自信ありげに笑っている。


「で、どう?」

「どう、って」

「こう、何か、パッションとか感じる?」

「パッションって言い方ちょっと古臭いね」


 邦枝がようやく落ち着いてきた思考でそう返すと、茅は少し渋い顔をして「これがジェネレーションギャップか……?」なんて呟いている。


「うん、でも、ありがと。なんかいける気がしてきた」


 邦枝はそう言って顔をほころばせた。それを見た茅も、つられてにへらと笑みをこぼす。「またなんかあったら相談してよ」と、お姉さん気取りができてうれしがる姉のような言葉を付け加えて、フラペチーノに刺さったストローに再び口をつけた。邦枝も、胸の内のわだかまりがほどけ始めたような表情を見せて、ようやくホイップクリームの溶けだした不格好なアイスココアを飲み始めた。

 それからは、怒涛の日々だった。茅に紹介された「そのへんの田辺」というアカウントによって投稿されたイラストをモチーフとし、久遠の応援の言葉を胸の内で反芻しながら、邦枝は毎日必死で言葉を書き連ねた。しかし、それは苦ではなかった。むしろ、こんなに熱中できたのは久しぶりで、驚くほど楽しくて仕方がなかった。行き詰まることが一度もなかったわけではなかったけれど、その時はいつか自分が夢見た少女の姿を再び目にすることで、かつての憧れや興奮がよみがえり、夢を追いかけている感覚を思い出したのだった。

 そうして、自信を持って一番のできだと胸を張れるような曲が完成した、はずだった。邦枝は困惑していた。出来上がった歌は、今まで自分が路上ライブで歌ってきたものとはあまりにもかけはなれたものだったのだ。こんな、自分の感情を泣き叫ぶみたいな歌、私、人前で歌ったことがない。そこまできてやっと、今まで自分が歌ってきたものがいかに万人受けしそうなものばかりだったかということを改めて気づかされた。要するに、邦枝は未知の領域に踏み込むことに気が引けてしまったのだ。

 邦枝自身が変わるチャンスとなるはずだったその曲は、日の目を浴びることがないまま時間が過ぎた。ライブはいつも通りに行っていたが、その曲をリストに入れることはできず、邦枝は一人で勝手にビビっていたのだった。

 ようやく転機が訪れたのは、そんな日々がそろそろ一か月、という頃のことだった。その日は昼間から夕方にかけて路上ライブを行っていた。夜の街で歌うのは、特別理由があったわけではなかったが、その日はなんとなく気が引けた。

 ギターを背負って、家への帰路を辿る。川を流れる水の音と、砂利を踏みしめる音と、遠くを走る自動車のエンジン音くらいしか聞こえてこない帰り道。今日も、歌えなかったな、なんて、ちょっぴり反省してみる。もう道は開けているのに、進めない。いや、進もうとしていないのだ。邦枝には現状に対する自覚がしっかりとあった。自分の覚悟が足りなかったのか。そう思うたびに、あの女の言葉が頭にちらつく。

 延々と繰り返されるループにむしゃくしゃして、邦枝は足元にあった石を思い切り蹴飛ばした。すると、それは河川敷の方へ勢いよく転がっていった。石の行く先に目を向けると、ちょうどその方向に一人の青年が座り込んでいた。あ、当たる。邦枝がそう思ったと同時に、「いてっ」と声が聞こえた。青年が振り向くと、視線がぱちりと合って、邦枝は反射的に「ごめん」と謝った。


「いや、いいよ。俺がぼーっとしてて気づかなかったのも悪いし」


 そう話した青年の声は、どこか湿っぽい。邦枝は、気づけば青年のいる方へ歩を進め、「何かあった?」と訊いていた。


「え、何か、って?」

「あー、なんかさ、しょげてる感じしたから。気のせい?」

「まあ、確かに、ちょっとしょげてるかも。俺ってそんなにわかりやすい?」


 青年は苦笑いしながらそう言うものだから、邦枝は「そういうわけじゃないと思うけど」と目をそらした。会話が途切れるのが気まずくて、視線が宙をさまよう。


「あ、君、南中か」

「そうだけど。え、なんでわかったの?」


 青年がびっくりしたように聞いてきたので、邦枝は「ん」と彼の着ている制服を軽く指さした。邦枝の言いたいことを理解したようで、青年は「あ、そっか」と息を吐きだした。


「何悩んでたの」

「部活のこと」

「何部?」

「ソフテニ」


 青年の肌はこんがり焼けていて、邦枝は彼の返答になるほどと一人頷いた。すると、彼の中で関わっても大丈夫な人という判定になったのか、今度は青年の方から声をかけてきた。


「俺、高島夏。高二。名前あったほうが話しやすいよね?」

「ああ、確かに。邦枝凛子、十九歳。今はただのアルバイト」


 邦枝の発言を聞いた高島は、「あ、年上」と驚いたようにこぼした。


「あの、ため口ですんません。敬語、の方がいいっすよね」

「んや、気にしなくていいよ。今から敬語で話すってのも、ほら、なんか変じゃん?」


 邦枝がそう提案すると、高島は「じゃ、お言葉に甘えて」と笑みをこぼした。


「で、高島くんはなんでしょげてたの」


 改めて邦枝がそう尋ねると、高島は眉尻を下げて笑った後、ゆっくりと話し始めた。


「さっき言った通り、俺ソフトテニス部で、学校の部活のソフテニって、基本ペアなの。簡単に言うと、俺のペアが部活やめちゃって、今ボッチなんだよね。それで、なんつーか、寂しくて? 悲しくて? ちょっと落ち込んでた。去年は地方大会いったし、今年も地区予選勝ち抜いてたし、そこそこ強かったはずなんだけどさ。……あいつ絵の道に進みたいんだって。美大に行きたいから、部活やめてそれ用の塾通うって。いや、俺は別に、あいつが自分で決めた道だから、否定するつもりも無理に引き留めるつもりもないんだけど。引退までには絶対大会で優勝してやるぞって二人で言い合ってたから、なんかあっけなく終わっちまったなーって思って。来年の夏までは時間があると思ってたんだけど、全然そんなことなかったわ」


 また、寂しそうに笑った。そんな高島の様子を見て、邦枝は「青春だねぇ」と呟いた。高島はその言葉を聞いても、あきらめたようにどこか遠くを見つめているだけだった。


「私はさ、ずっと一人だったよ」


 杭枝が話をし始めたことで、高島はふっと顔を上げる。


「私ね、シンガーソングライター目指してんの。高校二年生の頃から、作詞作曲とか、路上ライブとか、全部自分でやってた。でもさ、めちゃくちゃ頑張ってるのに、やっぱ皆無謀だとか言ってくるのね。大学行くなり、就職するなり、もっと普通に生きていけばいいじゃん、って。味方なんて全然いなかったよ。だから私は、ずっと、一人だったんだと思う」


 嘲笑しながら邦枝は言葉を続ける。


「だからかな、夢を追いかける仲間がいるのって、なんだかうらやましい。多分君は、今まで一緒にいた仲間が急にいなくなって、戸惑ってるだけなんじゃないかな」


 「だからさ、そんな何もかもあきらめたみたいな顔しないでよ」と、邦枝は高島に苦笑いしながら言った。その言葉は高島の胸に抵抗なく打ち解けたようで、浮かべられた表情は先ほどより幾分か穏やかなものになっていた。


「邦枝さんも、ボッチか」

「ボッチって、失礼な。まあ、否定はしないけど。……あ、ごめん、嘘。応援してくれる人いるわ」

「いるのかよ」

「いいじゃん、いたって」

「いや、さっきの話はボッチの人が話すから重みが増すんじゃないの?」

「はーい、細かいことは気にしない、気にしなーい」


 そんな茶番みたいなことをしていたら、いつの間にか二人とも笑っていた。しばらくして笑いが収まってくると、高島は少し真面目な口調で邦枝に話した。


「一人で頑張るのって、きついよな」

「そうだね」

「俺、今まで誰かと一緒に頑張ったことしかなかったから、急に一人になってびっくりしたのか。そーかそーか」


 誤って石をぶつけてしまったときよりずっとすっきりとした表情で、高島は一人でうんうんと頷いている。


「俺、誰かと一緒に頑張れるまで、ちょっと一人で頑張ってみるわ」


 そう言って、高島はにっかりと笑ってみせた。前を向いた輝かしい青年の瞳に、邦枝はゆるく目を細めた。


「俺、邦枝さんのこと応援するよ。邦枝さんボッチじゃないから、元気出して」

「元気なかったのは高島くんでしょ。私は別に落ち込んでないし。てか元からボッチでもないし」

「俺も頑張るから、邦枝さんも頑張って」

「言われなくても頑張りますー」


 皆一人で、一人じゃないんだな。そういう感想が邦枝の心をやけに前向きにさせた。高島と別れて再び歩み出した帰路は、夕日がさして眩しかった。

 それから一週間ほど経った日だろうか、一人の男が邦枝の歌声に足を止められていた。


「いいなぁ」


 男は思わずそう呟いた。曲の出来は申し分ないし、歌唱力も十分だ。何より、歌っているときの顔がいい。自信を持ってあの場に立ち、自分の心を裏切らず、今を見つめ、ちゃんと生きている感じがする。脳内の採点用紙にいくつも加点を書き入れながら、男は魅入られたように邦枝の歌を聞いていた。

 観客の拍手が一段と大きくなっていき、やがて駅の喧騒に打ち解け、ライブの終わりが告げられる。男は観客たちが立ち去っていくのを見届けて、片づけをしている邦枝に「すみません」と声をかけた。


「私、こういう者なのですが」


 男はそう断って名刺を差し出す。邦枝は、困惑しながらもそれを受け取り、まじまじと見つめた。それから邦枝が視線をあげて目が合ったことを確認すると、影山冬弥と名乗る男は単刀直入に言った。


「うちに所属して、歌いませんか」

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