1 絵描きの話
「空を描くのって、本当に難しいんだよなぁ」
様々な空の形が画面の上からあらわれては消え、またあらわれてはまた消えていく。そうやってスマートフォンの画面をスクロールしながら、深い息とともにそんな言葉を吐き出した。
田辺充、二十六歳、男。しがない会社員である。どこをとっても平々凡々という印象を与える彼だが、そんな彼にも少々熱を注ぐものがある。それは、絵を描くことであった。
絵を描き始めたのがいつだったかとか、どうして描き始めただとか、そういったことを田辺はあまり覚えていない。流行の漫画やアニメのファンアートを描いて、一時の気まぐれからSNSなどで投稿しているうちに、コメントがつくようになったのを少しうれしく思ってしまって、多分やめ時を見失ったのだ。田辺自身、自分にも人間にいやというほどついて回る承認欲求があったことに驚いたことだろう。
ふと、SNSのタイムラインで流れる他の絵描きのイラストをあさっていた手を止め、田辺はマイページに戻った。自分の勘がよかったのか、それとも単に偶然タイミングがよかったのか、自分の投稿にコメントがついたという通知が届いていた。
通知ボタンからその投稿のページへジャンプすると、以前確認した時よりも評価ボタンの横の数字が増えていた。自然と、田辺の口角がゆるやかに上がる。しかし、新たに書き込まれたコメントは、田辺にとってあまり良いとは言えないものであった。
≪キャラかわいいのにさ、なんか背景死んでない?≫
田辺は「またか」と思いながら、軽く息をついた。書き込み主の言うことはもっともであったからだ。背景が上手く描けないというのは、田辺自身が既に自覚している弱点であった。こういったコメントがつくのは今回が初めてというわけではなかったが、やり場のない気持ちは自分の意志とは反対にひとりでに湧き上がってくる。
背景を描くというのは、先に述べた通り、田辺にとって一つの大きな壁であった。今後も絵を描き続けていくとするならば、この壁を超えるなり壊すなりしない限り、この微妙な気持ちにさいなまれ続けることになる、ということは田辺自身が一番よく理解していた。景色を描くと、なぜだかわからないが、たびたび「死んでいるように見える」といった趣旨の言葉をかけられる。別に、景色を描くのが特別下手というわけではないのだ。ただ、キャラクターと背景という別のレイヤーをただ重ねているだけのような、ハリボテの木を後ろに飾っているだけのような、彼の絵にはそういう違和感があるのだ。田辺はキャラクターをいきいきと描くのに長けているぶん、その短所が余計に目立ってしまうのだろう。しかし、そう何度も指摘されては、田辺としてもやりきれない気持ちになる。元々俺の好きでやっているのだから、どうか口出ししないでくれ、と。
再びマイページに戻ると、また通知が届いていた。どうやら今度は、新着メッセージがあるようだ。
≪田辺さん、昨日投稿してたイラストも最高でした! 推しがかわいすぎて死にそうなんですがどうしてくれるんですか??≫
興奮気味の口調でメッセージを送ってきたのはカナテだった。カナテは田辺がSNS上で知り合った、いわゆるネッ友である。カナテは田辺がイラストを投稿し始めたばかりの頃から賞賛や励ましの言葉を惜しみなく送ってくれたユーザーであり、今では個人でメッセージをやり取りすることも増えた。ちなみに、田辺のアカウント名は「@そのへんの田辺」であるため、カナテはそのまま「田辺さん」と呼び慕っている。
≪ありがとうございます。ラムちゃん推しのカナテさんにそういっていただけると嬉しいですね。どうぞお納めください……≫
≪本当に罪な人ですね……。ところで、来月私の誕生日なんですけど、お誕生日に推しのイラスト描いてもらえたりしませんかね?≫
≪勿論です。どのキャラがいいですか?≫
≪やった‼ 田辺さんに描いてもらえるってなるとなかなか迷いますけど……じゃあカガミンでお願いします!≫
≪了解です。 誕生日はいつですか?≫
≪十一月二十六日です。 祭壇作って全力で待機してますね‼≫
≪期待してもらえるのはうれしいですけど、ほどほどでお願いしますね≫
最後のメッセージを送信し、田辺はふっと笑い声を漏らした。カナテとは、インターネット上で親しいとは言いつつも、絵に関する話以外はほとんどしない。だが、かえってそういう踏み込まないでいてくれるところが、田辺にとって心休まる時間を生み出しているのだった。メッセージの画面をもう一度だけ見て微笑む。そうして田辺はスマートフォンの画面を消し、穏やかな気持ちで眠りについた。
翌日、通勤電車の中でふと昨晩のメッセージのやり取りを思い出した田辺は、弱点の克服について一人うなっていた。カナテは、SNS上でのやり取りだけとはいえ、ずいぶん長く付き合っているし、できる限り素敵なイラストを描いてあげたい。しかし、そのためには背景という要素は切っても切れないものだろう。どうしたものか、と頭をひねっているうちに仕事場に到着してしまった。
気持ちの切り替えというのは案外うまくいかないもので、デスクについて業務を始めても、もやもやとした気持ちは晴れなかった。大体、背景が「死んでいる」ってどういうことだろう。そもそも、建物などは無機物でできているのだから、あながち間違っていないのではないかとさえ思った。もちろん、田辺はその考えが間違っていることを感覚的には理解している。だが、具体的に何が駄目なのかと問われれば、自分が言葉に詰まるのは明らかである。そんな考えが頭の中をぐるぐる巡っていたとき、突然横からそこそこの声量で呼び掛けられた。
「田辺さん、それシュレッダーかけたらやばいやつじゃないですか?」
田辺ははっとして書類を確認する。確かに、まだ処分してはいけないものだった。こんなミスは久々で焦ったものだから、田辺は珍しく冷や汗をかいた。声の主である同期の関豊に「ありがとう」と一言発し、書類をデスクに積み上げられた束の上に置く。するとまた、関が田辺に話しかけた。
「いや、その束は処分するほうでしょ? それはこっちの山ね」
そう言って関は田辺が戻した書類を別の山の上に重ねた。田辺はやってしまったと、手を額において天井を見上げた。
「連チャンでミスなんて珍しいっすね、田辺さん。これは恋かな? それとも愛かな?」
田辺は自分のミスに呆れているというのに、関は対照的にニコニコと面白そうに笑いながら田辺の背中を叩いている。馬鹿にされているような、されていないような、微妙な表情に何かを言い返す気にもなれず、田辺は「すみません、気を付けます」とだけ口にした。
その日は、田辺の社員勤めの歴史の中で六番目くらいには最悪だった。久々のミスに対する焦りが原因か、はたまたまだ絵の弱点のことを引きずっていたのか、本人にも理由は分からないが、結局田辺はあの後も三回ミスを指摘された。しかも、そのたびに関に「恋かな? 愛かな?」とからかうような励ますような何とも言えない絶妙な調子で声をかけてこられて、田辺は精神的に大分やつれていた。
「田辺、お疲れ。なんかあったんなら言えよ」
「あ、はい。お疲れ様です」
その精神的なやつれが表情に表れていたのか、しまいには普段比較的寡黙な松本健次郎にまで気遣いの言葉を言わせたほどである。田辺は深く尊敬している上司の松本に優しく肩を叩かれたことが、いや、叩かせてしまったことが、ちょっとショックでもあった。その日の帰路は、何を目にしてもミスのことが頭に浮かんでしまい、やけに家が遠く感じられた。
それでも唯一救いがあったのは、次の日が休日だったということだ。田辺は、自宅でカナテのためのイラストを描き始めるつもりだった。今後いつ時間が取れるかわからないし、早めに始めて時間を作っておけば、よりよいイラストに仕上げられるだろうという予測からだ。
しかし、いざタブレットを前にしても創作意欲が起きない。いや、正確にはキャラクターを描くことにはそそられるものの、その魅力的なイラストを実現するためにはどうしても背景を描かざるを得ないという事実が田辺の前に立ちはだかった。案外、自分の描いた背景に対する批判的なコメントが心に刺さっていたのかもしれない。そういう考えに思い至ると、田辺はタブレットの電源を切り、ペンを投げ、ため息をついた。こういう時は、何をやっても大体うまくいかないということを、経験上よく理解していたのだ。だが、さて、どうしたものか。田辺は冷めたコーヒーを啜って、腕を組みながら考える。そうして、ふと気分転換に散歩でもしてみようかと思った。公園の紅葉や銀杏がちょうど見ごろかもしれない。最終的には「思い立ったが吉日」という言葉に背中を押され、中途半端に残っていたコーヒーをぐいと飲み干し、田辺はさっそく出かける準備を始めた。
外へ出てみると、九月にはまだ残されていた夏のかけらはもう微塵も感じられなくなっていた。日向は幾分かあたたかいものの、建物が多いこの辺りでは日向と日影が横断歩道のように続いている。こんな道ではあたたかさに身をゆだねている余裕はないと見た田辺は、お日様に包まれたあたたかい公園を想像しながらいそいそと歩き出した。
公園の木々は、田辺の予想通り鮮やかな色に染められていた。気温が下がり始めたせいで公園内を歩く人が減ったのか、散歩道には赤や黄色のカーペットがきれいなまま残されていた。踏み込む前に立ち止まった田辺は、「はぁ」と感嘆の声を漏らし、スマートフォンを取り出し写真を一枚撮った。そうして、こういう休日の過ごし方も悪くないなと思いながら、落ち葉を踏みしめて再び歩き始めた。
もうすぐ公園をぐるりと一周し終わるというころ、田辺はベンチに青年の姿をとらえた。原っぱの方で走り回っているのはちびっこばかりだったから、体格のいい高校生くらいの子がいるのは意外だった。一体何をしているのだろうかとふいに気になったので、田辺は後ろを通り過ぎるついでに手元をのぞいてみることにした。
ベンチの真後ろのあたりで、ちらりと青年の手元に目をやった。すると、田辺は驚いて思わず足を止めてしまった。青年はB5くらいのサイズのスケッチブックに風景画を描いていたのだ。自分の真後ろで止まった足音に気がついたのか、青年は手を止め後ろを振り返った。青年と目があった田辺は、ごまかすように笑いながら、ぺこりと頭を下げた。
「絵を、描いているんですね」
「え、あ、はい」
突然見知らぬ男性に話しかけられた青年は、戸惑ったように返事をした。会話が止まって気まずくなるのを察知して田辺が「お上手ですね」と続けて言えば、青年は笑みをこぼして「ありがとうございます」と穏やかに答えた。
「……隣、いいですか」
田辺の頭の中に「絵描き仲間」という文字がよぎり、ついそんなことをたずねてしまった。本当は一人で散歩して、しばらくしたら家に帰って、また一人で絵を描くつもりだった。けれど、後ろから青年の絵を見てしまっては、簡単に忘れられそうもなかった。彼が描く景色の空は、生きているような気がしたのだ。田辺は、いきなり話しかけたら不審者と思われているかもしれない、とさっきの言葉を後悔しつつも、青年の返答を待った。青年は目をぱちくりさせて、少しの沈黙の後、「どうぞ」とベンチの開いているほうに積もっていた落ち葉を払いどけてくれた。
飛田裕介と名乗った高校二年生の青年は、田辺とすぐに意気投合した。二人とも温和な性格であったから、初対面でも同じ学校の生徒のような気分で話ができた。
「いつもここで風景画描いてるの?」
「いえ、今日はたまたまです。紅葉と、空が広く見える場所が描きたかったので。田辺さんは普段からここら辺散歩してるんですか?」
「いや、俺もたまたまそういう気分になっただけ」
田辺がそう返すと、飛田は「じゃあ今日会えたのはラッキーなんですね」と照れ臭そうに言った。それを見た田辺は、この子はすごくモテそうだな、なんて学生みたいな気分に浸っていた。
「そういえばさ、飛田くんはなんで絵描いてるの? 趣味?」
「初めは趣味だったんですけど、今は夢になりました」
「詳しく聞いても?」
「特別ですよ」
飛田の言い回しに、田辺は素直にイケメンだなと思った。自分が女だったらイチコロだっただろうな、とも。
「もともと趣味で絵描いてて、美術の授業で描いてたのが市の展覧会みたいなので賞を取ったんです。それをきっかけに絵描くのがもっと好きになって、今は美大に進学したいなって考えてます」
「すごいね、かっこいいじゃん。部活も美術部なの?」
飛田は「いや、テニス部でした」と少し眉尻を下げながら答えた。田辺は、絵を描く才能があるのに美術部所属ではなかったのか、と驚いたのと同時に、確かに文化部にしてはガタイがいいもんなぁ、とどこか納得もしていた。しかし、田辺はふと飛田の言葉に含まれる違和感に気づいた。
「あれ、『でした』ってことはやめちゃったかんじ?」
「あー、はい。そうですね」
田辺が「いつ頃?」と聞くと、「八月ですね」と言葉が返ってきた。大体の運動部の大きな大会は八月にあるから、と田辺は飛田の判断に再び納得して「なるほど」と声を漏らした。ちらりと飛田を見やれば、彼は少しうつむき気味になっていた。
「こんなおじさんでよければ、話くらい聞くよ」
田辺は柄でもなく相談役を買って出た。偶然が重なって出会うことができた絵描き仲間をこのまま手放してしまうのは、なんとも惜しいように思われたのだ。自虐する田辺をフォローするように「おじさんなんて、そんな」と何度か首を横に振った後、飛田は少しずつ経緯を語った。
「高校入学してから仲良くなった奴がいて、そいつと一緒にテニス部入ってペアで試合してたんです。うちの学校のテニス部は別に強いわけじゃないけど、それでも俺らは地方予選勝ち抜いたこともあったし、まあまあ強かった、と俺は思ってます。だけど、去年の終わりくらいから少しずつ絵にひかれていって、美大に進学したいから美術の予備校に通ってちゃんと絵と向き合おうって決めて、今年の八月の大会を最後に引退、というか退部しました。俺が自分で決めたことだから後悔はないけど、あいつ一人を置き去りにしたみたいな申し訳なさというか、罪悪感というか、心残りみたいなのは、ちょっとあるかもしれなくて。それで、なんとなく今もやっとした気分なんです」
飛田の話を聞いた田辺は、開口一番に「すごいねぇ」と発した。飛田は、予想外の反応だ、という表情をしている。
「俺は、やりたいことのために何か決めるとか今までずっとなかったからさ、そういう決断ができるのってすごいなって思って。絵は昔から描いてたけど、高校の時は帰宅部だったし、大学でサークルに入ることもなかったし。SNSで投稿し始めたのも、なんとなく周りの流れに便乗してみたいなところあったからなぁ。だから、自分でやりたいことに対して行動を起こせるところがすごく立派だなって感心した。確かにその相棒くんに関しては思うところはあるかもしれないけど、絵のことについてはもっと自信もっていいと思うよ」
田辺の意見を聞いて、飛田はくしゃりと顔をゆがめて笑った。
「それにさ、男は打たれてなんぼって言うじゃん? きっとその子も今頃パワーアップしてると思うよ」
「なんかその考え方昭和っぽいですね」
「これでも一応平成生まれだよ」
そうやって冗談を言い合っているうちに、先ほどまでのしみったれた重い空気は秋晴れが攫っていったようだ。
「うん、確かに、あいつのことだから、俺がいなくなったところで勝手にパワーアップしてそう。俺、あいつにおいて行かれないように頑張ります」
そう言い切った飛田を見て、田辺は「青春っていいなあ」と胸に広がる温かい気持ちをかみしめながら微笑んだ。
「田辺さんは、何かないんですか」
話は一転、今度は飛田が田辺にそう尋ねた。田辺は顎に手を当ててふむ、と一度考えた後、「じゃあ空の描き方を教えてほしいな」と言い放った。飛田は、何を言っているんだこいつ、と馬鹿にしているわけではなさそうで、純粋に目を丸くして「空……?」とつぶやきながらきょとんとしている。
「俺さ、SNSでイラスト投稿してるんだけど、よく『背景が死んでる』って言われちゃうんだよね。だから、なんか生きてるなって感じの背景の描き方教えてほしくて」
それから閉じられていた彼のスケッチブックを指さして、「その空、すごくいい感じだと思ったから」と付け加えた。飛田は自分のスケッチブックに描かれている様々な景色をパラパラと見返しながら、田辺の問いに応えるべく口を開いた。
「そうですね……。何が生きてて何が死んでるとか、俺言われたことないのでちょっとわかんないですけど、しいて言うなら、自分の気持ちとリンクさせて描く、とかですかね」
田辺は「ほほう」と声を漏らし、目で続きを促した。
「ただ写実的に描くってだけなら違うかもしれないですけど、あえて感情的に、主観的に描いてみたら、絵の印象って結構変わるんじゃないですかね。例えば、同じ秋の空を描くにしても、『暑くなく寒くなくサイコー!』とか『自分は振られたのに空が気持ちいいくらい澄み渡ってるのなんかむかつく』とか『明日からはあの人と会えないから寂しいな』とか、感想はいろいろあるじゃないですか」
そこで田辺が「それは飛田くんの経験談?」と茶化すと、笑いながら「ご想像にお任せします」とごまかされてしまった。
「まあ、感情的になれば線の描き方とか、色の選び方とか、何かしら変化があるんじゃないかな、ってところでどうでしょう」
「うん、うん、なるほどね。一理ある。てか普通に納得しちゃった。ありがとう」
「いえいえ、こんなのでアドバイスになったかどうかわからないですけど」
「ちょっと行き詰ってたから助かったよ、本当に。ありがとね」
その日、田辺と飛田はしばらく他愛もない話で盛り上がった後、連絡先を交換して、夕日が沈む前には別れた。「彼とまた会える日が楽しみだ」と早くも次に会う機会に期待しながら、日の光が当たらなくなっても色鮮やかな落ち葉を踏みしめ、田辺は満ち足りた気持ちで帰路を辿った。
それから、田辺のイラストの背景は、ずいぶんと変わった。飛田のアドバイスを参考に、その日の田辺自身の感情をのせてペンを動かしたことで、背景が生きたものに変わりつつあった。そして、実際に田辺もそのことを周りの反応の変化から実感していた。
≪今日も推しの供給ありがとうございます。ところで、田辺さん、何か変わりました? 推しが素敵すぎるのはいつものことですけど、背景がなんかすごくいい感じになった気がします!≫
気がつくのが早かったのは、田辺のSNSを頻繁にチェックしていたカナテだった。自分がちゃんと成長していたこと、それに気づいてくれる人がいることの幸福感で、田辺は久々に胸がいっぱいになった。
それからも、カナテはたびたび田辺の変化に反応をくれた。他にも、評価の数が増えたり、批判的なコメントが減ったり、フォロワーが増えたりと、少しずつ周りの反応が変化していくのがよく分かった。主観的にも客観的にも、十分すぎる収穫だった。
そうして成長をかみしめながら自分のSNSをチェックしていたある日、今までやり取りをしたことがないアカウントからメッセージが届いていることに気がついた。通知に従ってメッセージ画面を開きそれを読んだとき、田辺は思わず持っていたマグカップを落としかけた。
≪突然のメッセージ、すみません。いつも田辺さんの素敵なイラストを拝見させていただいております。そこで、イラストの依頼をさせていただけないかと思うのですが、いかがでしょうか。ご連絡お待ちしております≫
慌ててマグカップを持ち直し落ち着くと、今度は喜びと充実感がぐっと胸の内にあふれ出した。依頼をしたいと思えるまでに、俺のイラストは良くなったのか。その興奮は抑えきれず、サッカーでゴールを決めた選手みたいにガッツポーズまでしてしまった。
依頼のメッセージが来た日から数日後、田辺のSNSのアカウントのプロフィールにはイラストの依頼を受け付けているといった趣旨の文が一行追加された。その一行は田辺にとって大きな一歩であったと同時に、自分自身に対する激励でもあった。
そんな私生活での充実感が影響したのか、会社での成績も徐々に伸び始めた。自分のミスはなくなり、他人のフォローやサポートをするくらいには心の余裕ができていた。
「田辺さん、最近調子上がってきてますよねぇ。ええ、これはやっぱり恋かな? それとも愛かな?」
「はは、違うよ」
以前のように関に茶化されても、まったく動じずにいられるわけではないものの、ばしんと自分の背中を叩く手を堂々と受け止められるくらいには、田辺には自信がついていた。
「ねね、田辺さんもう上がりでしょ? それなら一緒に飯行きません? せっかく僕ら同期なんだから、もうちょっとプライベートでも仲良くしましょうよぉ」
そういって関は田辺と肩を組んで絡んできた。関は確かにちょっとうるさいしうざいけど、悪いやつではないと田辺は知っている。今なら楽しく飲める気がするし、たまには誘いに乗ってみようかな、なんて考えていたところに、別の低い声が待ったをかけた。
「関、今日田辺借りてもいいか」
「ええー、松本さんに言われたら断れないの知ってますよねぇ? いいですけど」
「まあ、今度なんかおごってやるよ」
松本がそう言うと、関は「約束ですよ」と言い残して鼻歌を歌いながら自分のデスクの方へ戻っていった。田辺はなぜ突然自分が松本と食事に行くことになったのか全く理解できなかったが、松本に「行くぞ」と言われてしまっては、後ろについていかないわけにはいかなかった。
「なあ、田辺。お前、最近なんかあったんだろ」
生ビールが注がれたジョッキをごとりとテーブルに置くと、松本は田辺にそう言葉をかけた。田辺の松本に対する尊敬は、かえって緊張を促していた。「何か……とは?」と聞き返してみれば、松本は頭をかきながら話を続けた。
「あー、例えば、副業とか投資とか、金になるもん」
そう指摘されて、田辺はぎくりとした。ここのところ田辺の絵描きとしての成長は目覚ましく、イラストの依頼が増え、これは副業として成り立っているのではないかと思い始めていたからだ。思い直してみれば、確かに田辺はただの会社員だ。それなのに副業まがいのことをしているだなんて、尊敬している上司に言われてしまえば、言葉を詰まらせるほかなかった。うつむき黙り込んだ田辺の様子を見て、松本は深く息を吐きだした。
「なあ田辺、知ってるか? 人の調子が傾く時ってのは、十中八九愛か金かの二択だ。だから、関が言ってることもあながち間違っちゃいない」
「まあ、その二択で外してるんだがな」と鼻で笑う松本に、田辺はどんな表情で顔を上げればいいかわからなかった。ただ、このまま黙っているのは得策ではないと考え、田辺は絵で収入を得ている事情を松本に正直に話した。話を聞いた松本は「ふうん」としか言わなかった。田辺は、尊敬している上司に幻滅されたのだと思った。田辺の職業が会社員である限り、自分は会社に貢献すべきであるのは明白なのに、それを放棄して俺は。そんな思考回路で自分を責め、唇をぐっとかみしめたとき、松本は何でもないような口調で「ああ、別に責めてるわけじゃねぇから」と言った。田辺はその言葉を耳にして、ポカンという表情で顔を上げた。
「規定にも副業禁止とかないだろ、別に。お前は真面目で優秀な部下だから、最近の調子の起伏の原因が気になっただけだ。要するに、これは俺の、単純な興味だ」
「……このまま、続けていてもいいんでしょうか」
「続けるか続けないかはお前次第だろ。俺の知ったこっちゃない。本業に支障が出るってんなら、そりゃあ困るが、そうじゃないなら俺は気にしない」
松本は田辺のことを否定するわけでもなく、馬鹿にするわけでもなく、ただ淡々とそう述べた。しかし、それが松本の優しさだとわかってしまったから、田辺の涙腺は少しずつ緩み始めた。
「ああ、いっそそっちに道を絞るってのもありだな。お前は基本的に自己管理がしっかりしてるから、うまくやっていけるだろうさ」
松本は、関とは違って子供をなだめるように優しく田辺の背中を叩いた。
「まあ、お前の人生なんだから、好きなようにやれよ。悔いのないようにな」
俺は何を勝手に一人になった気でいたのだろう。田辺はそう思った。松本は田辺から目をそらしながらも、背中を叩くことはやめなかった。しばらくして発せられた田辺の「はい」という返事は、音がひどく濁っていて汚かった。久々の、男泣きだった。