九話 『生殺与奪の権を他人に握らせてみた』
落ちる。……いやだ。やだ。やだよ。
あんまりだ。こんな人生。冷たい夜の海に沈んで、生き返ったところをトキに殺されるんだ。そんなのってない。あんまりだ。
やめて。やめて。いや、いや。
私は。私は……
「……死にたくない」
落ちる寸前に、無意識のうちに、呟いていた。そうして、誰かに助けを求めるように、必死に必死に、手をのばす。
「……」
それすらも無駄だと、悟って。最後にすべてを諦め、目を閉じて、私は、暗い昏い、海の底へと――
「言ったな」
…………。
……。
「死にたくないって、言ったな、ナギ」
…………?
……おかしい。いくら待っても、体が落ちていく感覚が訪れない。もしや、すでに死んでしまった後か? などと……相変わらずネガティブな思考をまわす、私を。
「ナギ」
「……ぇ?」
私を呼ぶ声が聞こえた。
「まだ目は開けるなよ。三、二、一……」
……突然のカウントダウンと共に、
「……っ⁉」
グイッ……と、私の腕が……身体が、何か強い力で引きつけられた。なにが起きた? 何が起きてる? ……なにも、見えない。
「もう目、開けていいぞ」
ああ、そうか。自分で目を閉じていたんだと、理解して。未だ震える体で、恐る恐る、目を開ける……
「……トキ?」
私はトキの腕の中で震えていた。辺りを見回しても、そこは確かに橋であることに変わりはない。
「あ、そうだ……あの剣が……!」
「もう戻した。安心しろ」
「……え?」
またしても私には、トキの言っていることが理解できなかった。それでもこの状況から分かる事が、一つある。
私は、私よりも幾らか背丈のあるトキを見上げるようにして、
「……助けてくれたの?」
「……今回に関しては、俺がやりすぎたんだよ。むしろ謝らせてくれ。……すまない。これで礼を寄越せなんていったら、とんだマッチポンプだ」
「……?」
どうやら、橋から落ちそうになった私をトキが助けてくれた、っていうのは間違いなさそうだけど。でも、そのほかのことが何も……
「……トキ、私を殺すんじゃ……」
言った後で、ああ、そうか、と得心がいった。むやみに死にたがる分家跡取りの私のために、本家跡取りのトキが、一肌脱いでくれたのか、と。殺す演技をして、私の本心を訊きだそうとしたのだ、と。そうしてホッと安心したのもつかの間、
「ああ。その言葉に嘘はない。言っただろ、俺は嘘はつかない。……俺は、お前を殺しにきた」
その言葉に、また反射的にビクッ、と全身が震えてしまう。すっかり死の恐怖というものが体に染みついてしまったようで、私を助けてくれた恩人の言葉にすら、怯えてしまう。
「……それって、どういう……」
「そのままの意味だ。あの剣で、ナギを殺すんだよ」
……いよいよ訳が分からない。トキは何がしたいんだ? 私を殺そうとして、でも助けて、かと思ったらやっぱり殺そうとして……
「あの、トキ……」
「だからナギは、俺が死ぬ時に、俺に殺されろ」
……トキのいう事は、分からないことばかりだ。今回も、何を言っているのかさっぱり。えっと、だから……
「ナギは一人では死ねないだろ?」
「……う、うん……」
やっぱりそうなのか、と人知れず愕然とする。今まで、どうにかすれば自殺も成功するんじゃないかと思っていたけど、ダメか。
「だから、誰かに殺してもらうしかない」
「……それは、そうだね」
「で、俺がナギを殺すって言ってるんだ」
……うーん……えっと?
「だから、俺が老けるか事故かで死ぬ時、その直前に必ずナギのところに行って殺してやる、って言ってるんだ。今日は、それでもいいかって確認をしに来たんだよ」
……私は一人では死ねないから。トキが死ぬ時に、私も一緒に……
「え、あ……え? あの、トキ、それってもしかして……」
「……ああ、悪い。字面通りの意味で、プロポーズとかじゃないぞ。……第一、初めて会ったような奴にするわけないだろ」
「…………」
ツッコまれたけど、つまりはそういうことだ。
トキの死ぬ時が、私の死ぬ時。それまで、私は……生きていい。
……トキの死というゴール、終わりがあるから。その時までを大切に、大切に、生きていけばいい。
つまりはそういうことを、トキは、言ってくれてるの?
「――で、いいのか? ナギ。正直これ、父さんからナギの不死の話を聞いて思いついたはいいんだけど、結構強引だよな。ナギが嫌だっていうんなら、俺は……」
「そんなことないよ‼」
つい食い気味に言っちゃう。でも、それぐらい嬉しいこと。
だって……だって、私にとっての生きる意味ができたんだから。不死の私が、トキの前ではただの人間でいられるんだから。ただただ空疎で空虚なだけだった時間に、生涯って名前をつけてくれたんだからね。こんなに……幸せなことはない。むしろ本当にこんなことがあっていいのか、不安なくらいだ。これが全部夢で、ふとしたきっかけで目が覚めて、全部泡沫となって消えてしまうんじゃないかと思うほど。そんな不安感を、トキは私に抱かせてくれた。本当に……嫌なこと、だよ。
「じゃあ、いいんだな」
最後の確認をとるトキに、私は躊躇いなく答えた。この時の私の声の震えは、自分でも忘れられないでいる。
「うん……死ぬ時は一緒だよ、トキ」