八話 『初めて死を知った日』
感情の起伏が希薄だと、他人からよく言われる。ナギはなんにも関心がないんだとよく言われる。それもこれも、この「不死」の力のせいだろう。考えても見てほしい。絶対に死なないんだ。それは本人の意思とは無関係に付きまとう、永遠の呪縛。
人は皆、相応の危機感を持って日常を過ごしている。自転車で片手運転してたら事故に遭いやすくて危ない、だからしっかりと両のハンドルを持って運転しよう、だとか。刃物を持つ時、誤って指を切らないように気をつけよう、だとか。そういうある程度の本能的な緊張と恐怖を抱いて、人間は生きている。だからこそ感覚は鋭敏になるし、集中力は増す。
……それが不死ならどうだ。ダンプカーに轢き殺されても、死ぬのは肉体だけだからすぐ生き返る。同じ理由で、刃物で動脈を掻っ切ろうが、致死性の毒を煽ろうが死なない。極端な話、三秒後に地球が消滅しようが私は御魂だけの存在となって生き続ける。
……そんな人生では、事物への関心が薄くなるのも頷けるというものだ。真剣に物事に取り組む意味がない。真面目になにかを行う意義がない。なぜならそこには生死が関与しないから。生物にとって絶対の安息というのは、すなわち死と同義なのだと、不死の私は身をもって理解している。
また不死ならざる人間は、こんなことも言う。……「とりかえしのつかない一つだけの命」だとか、そんなこと。命は尊いものだ。なぜならそれは、母がお腹を痛めて生んでくれたかけがえのない一つだけのモノであるから。代替不可能で、一度きりの人生。終わりが定められた、とりかえしのつかない道程。死んだらそれで終了。だからこそ命というものは重んじられ、尊ばれ、法律で殺人を取り締まっている。
――だから、たった一度の人生、大切に生きましょう。
そうであるならば。
「……じゃあ、死なない私の人生って、なんなんだろ」
そうであるならば、不死である自分は。いくらでもやりなおしが可能な、滅びることのないこの身は。長柄凪はどうして、生きていられるのだろう。どうして、生きているのだろう。死という終着点がないのなら、すべてが無意味だ。人は死によって人生にピリオドを打ち、これを以て生涯と呼ぶ。では私の今は、終わりのないこの身が過ごす時間の名はなんというのだろう。……
「どうせ、無理だけど」
学校の屋上から飛び降りるのが、私の日課だった。騒ぎになると面倒だから、なるべくみんなが帰宅した後の、夜の帳が落ちきった頃に飛び降りて、死ぬこともかなわずに、ただただ空疎な身を引きずって家に帰る。今日も同じだった。死ねずに帰路につき、夕餉を食し、風呂に入ったら、就寝。起床、登校。
「……」
いつまでこんな生活が続くのだろう、と考えて、自分で自分を嘲笑ってしまった。いつまで? いつまでだなんて、まるで、終わりがあるみたいな考え、嗤ってしまう。長柄凪に、終わりなどないのに。久遠まで続く時の流れに、ただ身をゆだねて、それは屍のように不器用に呼吸していればいいのだ。そうして、最後、私は、一人で……
「…………」
自分が泣いていることに気づいた。涙など流すのは、いつぶりだろう。喜楽も悲哀も薄れ、掠れ、削れてなくなってしまったと思っていたが。まだ人間みたいな機能がそなわっていたのかと厭きれるのと同時に、本気で死んでやろう、と思った。今までのように学校から家までの狭い範囲内で死のうとするんじゃ、生ぬるい。海だ。試しに海に流されよう。別にそれで死ねなくたっていい、とにかく遠くまでいって死のうとすることが大事なのだ、と思い至って、夜深に財布一つ持って外出して、電車、電車、バス、タクシー。
三時間後、私は東京湾に架かる橋の上に立っていた。
「……」
墨をぶちまけたみたいな闇の漂う海を覗いて……私は、欄干に片手をかける。自分がなんら動揺しないことを確認すると、もう片方の手も置いて。風になびく髪を押さえることもせず。
……そうして夜の海へと、飛び込もうとした時。
「そんなことしたって、死ねないぞ」
――まさか。自殺を志願していたことがバレたか、と後ろを振り向く。
……そこに佇んでいたのは、分家である長柄家の、本家筋――中史家当主の嫡子、中史時だった。年に一度の会合の際、何度か目にはしていたが、直接の面識はないはずだ。なぜ中史時が今、ここに――
「なに? 止めるつもりなら、無駄だよ」
「……自殺をとめることほど無責任な行為はない。自ら死を選んだ人間の人生を強引に存続させた奴には、一生涯そいつの面倒をみる責任が課せられるからな」
当然だと言いたげに、吐き捨てるように言う。
「よく分かってるじゃん。じゃあ何の用?」
「お前を殺しにきた」
その言葉の意味が、よく分からなかった。殺す? ……私を、不死の私を殺す? 意味不明だ。ほぼ初対面だと言ってもいいような相手を殺すつもりでここまで追ってきたのなら、中史時は私以上の狂人だろう。
「なにかおかしいか?」
しかし中史時は続ける。冷徹かと思えばそうではなく、熱血かといわれれば勿論そんなことはない、彼独特の話口調で言葉を紡ぐ。
「俺なら、不死のお前を殺すことができる」
全身、鳥肌が立った。背中をなにか冷たいものが通って、私の心臓はいつになく強烈に脈動しだした。
「その言葉、本当? 嘘だったら」
嘘だったらひどいぞ。私は今にも口から心臓が飛び出そうな心持ちで確認する。
「俺は嘘はつかない」
そう言った中史時――トキが左手を虚空に伸ばすと、そこには月の光で象られた利剣が顕現する。剣を握ったトキが、その切っ先を私の喉元に向けてこうのたまう。
「本能で分かるだろ? 俺の魔力はお前のそれより幾らも強い。この剣でついた傷は、お前のどんな治癒魔法や蘇生魔法でも治療は不可能だ。つまりこれでお前の御魂ごと切りつけた時、お前には確実な死が訪れる」
私は生唾を呑み込んで、眼前に向けられた剣を凝視していた。
……分かる。私は、トキには絶対に勝てない。どんなにあがいて、もがいて、暴れようとトキには勝てない。そうしてこの剣が、私を殺してくれる。……やっと、ようやく、ようやっと、私に死が、終わりが訪れる! トキを狂人などと呼ぶ者があったら私が許さない。これは救済だ、寧ろ愛である! トキは私にとってのメシア、キリストだ。死ぬことができる! 目の前に! 目前に! 現前するこの光の剣が! 私に死をもたらしてくれる!
それはなんて、なんて、なんてなんてなんて……
素晴らしい――
「……い、いや……っ」
――感情の起伏が希薄だと、よく言われる。何にも関心がないのだと、よく言われる。
だから、何でもないのだと思っていた。今まで、生まれたときから不死であったから。私は死なないのだと、それはアプリオリ的に認識していたものだったから。
だからきっと、死とはなんでもないものなのだと思っていた。
そんな私が、
「……や、やめて……お願い……っ!」
生まれて初めて前にした死に、恐怖していた。
剣の切っ先の光が怖い。平然と私に死を与えようとするトキが怖い。怖い、怖い、怖い怖い怖い――死が、なによりも怖い。
私は恐怖に震える片手で、その剣をどかそうとする。
「触るなよ。指の先がなくなってもしらないぞ」
この一言で、私はついにおかしくなった。呼気は乱れ、視界はぼやける。ただ目の前に突き付けられたこの「死」から逃れたい一心で、後ろへ、後ろへのけ反り――
「――ぁっ――」
あまりに、重心を後ろを傾けすぎてしまった。体を支えていたもう片方の手が欄干を滑り、私の身体は宙に放りだされた。下は海。黒く暗い海。それすらも今は、恐怖だ。
不死の私は、死を確信する――