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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第3話・最終話 始末 第3章・最終章

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10 幸運の果実

 一方、〈青燕〉亭。

 ロディスは一度だけ軽い発作を起こしかけたが、シェレッタが的確に処置をして、医者を呼ぶまでのこともなく済んだ。

 そう、シェレッタはいまや、〈青燕〉亭の「手伝い」ではなく、れっきとした従業員になっていた。

 働く彼女を見ながら、トルスは少し前のやり取りを思い出す。

(おい、トルス)

(話がある)

 ある夜、そんなふうに言って、父は息子を呼んだ。

「シェレッタがこれからも、毎日、きてくれることになった」

「って、え?」

 その言葉にトルスは目をしばたたいた。

「ほかの仕事は?」

「〈青燕〉一本に絞ることにするよ」

 女は肩をすくめた。

「あー、でも」

 青年はちらりと父親を見た。

「給金……出っかな」

「ああ、大丈夫大丈夫」

 と言ったのはシェレッタであった。

「一日分の金額を下げてもらうことにしたから」

「はあ?」

 意味が判らなくて、トルスは首をひねった。

 ほかに仕事がなくて、給金が低くてもいいからと頼み込む――と言うのならば判るが、シェレッタはそうではない。もともと大してよい給金だと言うのではないし、下がったら毎日働いたってやっていけないのではなかろうか?

「飯ならここで食えるし、あとは家賃事情も向上するんだよ」

 それがシェレッタの説明だったが、やはりトルスには判らなかった。

 家賃が下がるということは、絶対にないとも言えないが、あまり考えられない。たとえば安部屋に移るというようなことがあったとしても、あまりそれを「向上」とは言わないだろう。

「つまりだな」

 ロディスが咳払いをした。

「あの部屋には、俺とシェレッタが住むことになった。お前は出てけ」

「何ぃ!?」

 突然の言葉――同棲宣言、はたまた結婚宣言、同時に息子の追放宣言に、トルスはあんぐりと口を開けた。

「その分、お前の給金を少しばかり上げてやる。ひとり部屋くらい、借りれるだろう」

「そ、そりゃ」

 家賃補助金が出るのならば、文句はない。

 いや、出なくても――文句は、ない。

「このクソ親父。いつの間に。看病してくれたシェレッタに手ぇ出すたあ、何つう助平親父なんだ」

 息子は思いきり罵りの言葉を発したが、顔には笑みが浮かんでいた。

「済まないねえ、トルス。私は、お前が一緒でもいいと言ったんだけれど」

「いいや。甘やかすとつけあがる」

「おいっ」

「またそんなこと言って。トルス、ロディスはね、父親と一緒の部屋じゃ女の子も連れ込めないだろうと気にしてたんだよ」

「阿呆かっ。そうする必要があれば、ほかにどうとでもするわっ」

「何だと。居座る気か?」

「んなこた、言ってねえだろうが。新婚夫婦と一緒になんか暮らせるかよ、こっちから出てくぜ」

 そう宣言し返して、ようやく部屋を見つけたのは、少し前のことだ。

 世辞にも広いとか清潔だとかは言えないが、帰って寝るだけなのは同じこと。何でもいいやと若者は剛毅に考えていた。

 父親のことは、もう大丈夫だと思った。もちろん、抱えた病は心配だが、もし彼が出て行ってもシェレッタがいるなら――。

(いや別に)

(どっか行く予定は、ないけどよ)

 たとえ話だ、と若者は考えていた。

 かちゃ、と入り口の扉が開く音がした。

「あん? まだ開店前」

 もう少ししてからきてくれ、などと言おうとした若い料理人は、そこで言葉をとめる。

 こうした中途半端な時間帯に迷い込んでくるのは、腹を空かせてどこでもいいから入ろうとした一見(いちげん)の客か、逆にいいから食わせろと言ってくる常連、或いは最近、すっかり友人面をして図々しくなっているチェン辺りである。

 だがこの訪問者は、それらのどれでもなかった。

「悪い。いましか、時間が取れなくて」

「んー……ま、仕方ねえ」

 彼は焦げ茶色の髪をかいた。

「開店にはちいと早いが、飯食ってくつもりできたなら、許す。これは『金を落としていけ』という意味だ」

「仕方ない」

 ファドックの方もそう応じて、肩をすくめた。

「何だよ、突然。正直、もうこないもんと思ってたのに」

 あれから少年の姿を見なかった。中途半端になったままの出来事は、このひと月の間に、ある種の決着を迎えて――ファドックとの縁は完全になくなったものと考えていたのだ。

「ようやく手に入ったから」

 ファドックは厨房近くにいるトルスのところまで歩み寄ると、手にしていた紙袋を差し出した。

「少し、持ってきたんだ」

「ん? 何」

 受け取ったトルスはがさごそとそれを開け、中身を取り出して、顔をしかめる。

「お前なあ、わざわざ、嫌な思い出を」

「その誤解を改善したいと思ったんだよ」

 少年の手土産は、赤子の拳大ほどをした赤い果実――チェレン果だった。

「どうやら、安値で高い効果を謳った新しい肥料が果樹の病の原因だったらしい。出どころは調査中だが、木々が枯れてしまったと言うのでもないし、来年には問題なく実を結ぶだろうというのが大方の見解だ」

 それは楽観的すぎるという意見もあり、確かに予断は許されない。今季に害を受けた農村については、救済策が採られる予定だ。チェレン果を大量に買った富豪がアヴ=ルキンであったことも判ったが、これもまた何ら違法性はなく、問題にはされていない。

 ファドックはおおよそそういったことを語ったが、トルスに通じたのは最後の部分だけだった。

「とにかくよ」

 若い料理人は首を振った。

「嫌な印象だけがあるぜ、このチェレンには」

「果実に問題がある訳じゃない。種だって、うっかり食べたところで消化吸収はされないし」

「何をされないって?」

 聞き慣れない言葉にトルスが首をかしげれば、ファドックは両手を広げた。

「つまり、そのまま出ていくだけだ、と言うことだよ」

「……飯屋でそういうこと、言うな」

「言わせたのはそっちじゃないか」

 ほかに客もいないんだからかまわないだろう、などと少年は言い放った。

「果実自体には何の問題もない。話したように〈幸運の果実〉と言われるようなものなんだ」

「〈幸運の果実〉」

 トルスは繰り返して、息を吐いた。

「少なくとも俺はこれで呑気に占いなんかする気になれねえな」

「種を傷つけないことで幸運とする、というのは」

 少年は躊躇いがちに言った。

「まるで、ヘルサレイオスのようなものが作られないように、と願っているとは取れないかな」

「ああん?」

 トルスは片眉を上げた。

「そりゃ、こじつけだ」

「だな」

 あっさりとファドックは応じ、トルスは苦笑した。

「もう少し、ねばれよ」

「あまり説得力はないと自分でも思ったんだ。ただ、果実が悪いんじゃないと言いたくて」

「判ったよ」

 料理人は赤い果実を宙に放り投げて、ぱしりと掴み直した。

「だけどよ、何でそんな変な(まじな)いができたんだろうな」

「まあ、できた理由は判らないけれど、一部で流行る理由は判る」

「何」

()を傷つけない――きれいに切られたチェレン果は、子供を無事に授かることの象徴なんだ。転じて、無事に生まれ、幸せに育つことの」

「は」

 トルスは笑った。

「種、ね」

 そこで彼はふと、真顔になった。

「授かるだけじゃなくて、生まれる方も?」

「そう言われてる」

「占うのは、当人じゃなくてもいいのか。つまり、父親とか母親とか」

「ほとんど遊びみたいなものだ。かまわないんじゃないのか」

「そ、か」

 言うなりトルスは、包丁を取り出した。紙袋を下に敷き、卓の上に果実を置くと、勢いよく果実を二等分する。

「――あー、正直、無理だと思った」

 チェレン果の中央には、二十から三十の種があるのだ。それをひとつも傷つけないなど、まず無理だろうと。

 だが。

「お見事」

 ファドックは手を叩いた。

 トルスが二等分した赤い果実の、その白い果肉に散らばる黒い種は、ひとつも割れていなかった。

「ジルセンは、成功させるまで三十個近く無駄にしたよ。おかげで大量の果汁を飲まされて、正直、この果実は当分見たくなかったんだけど」

「へえ」

 トルスは少し笑った。

「うん? お前のご主人様んとこも、ガキが生まれるとか?」

 それでチェレン果を探していたのか、とふと思った。だがファドックは首を振る。

「いや、そうじゃないんだ。それに、願っているのは『授かる』方で……」

「はあん? どっかの夫婦もんにガキができないって気にしてんのか? 余計な節介じゃねえ?」

「そうかもな」

 ファドックは苦笑し、そう言うに留めた。

「でも近々、発表があるかもしれないよ」

「はあ?」

「何でもない」

 少年は手を振った。

「で、そっちは?」

「何が」

「いま、願ったのは誰の分?」

「ああ……ちょっとな」

 トルスは肩をすくめた。

「知ってる奴の子供が、無事に生まれりゃいいなって」

 ヴァンタンの話は、ビウェルたちが作り上げた形で、トルスに伝わっていた。即ち、町憲兵隊の手伝いで怪しい人物を街の外まで追ったが、見失って戻る途中に魔物に襲われた――と言うような。

 彼は驚き、「一般人に危ない真似はさせない」と言ったじゃないかとビウェルを糾弾したが、あの町憲兵が何も反論せず、トルスの罵言にじっと黙っていたので居心地が悪くなった。

 アニーナのことは知らないままでいた。居場所を聞き出して弔問に訪れるほどには、その夫と親しい仲にはならなかったと思ったからだ。

 だがそれでも、子供の誕生を楽しみにしていた父親予定の笑顔は忘れられず、彼はチェレン果に幸運を祈った。

「お前の、勝ち」

 トルスはきれいに割れた断面を眺めて、そう言った。

「この(まじな)いは、悪くねえ」

 運よく成功したから言えることでもあるが、これは彼の運ではなく、まだ生まれていない子供の運であろうという気がした。

 きっと元気に育つ。

 根拠なくそう思うと、トルスは少しだけ、気持ちが軽くなった。

「勝負を挑んだつもりじゃないけれど」

 ファドックは言った。

「とにかく、悪かったのは果実じゃなく、人間だったという点を忘れないでほしかっただけだよ」

「忘れねえよ」

 トルスは返した。

「その人間が、どっかに消えちまってもな」

 組んでいた貴族が離れた――と判断したあとのアヴ=ルキンの行動は早かった。

 館の修繕計画を中断し、病院を辞任して、何も残さず、アーレイドを去ったのだと言う。

 表向きの理由としては、余所の病院に招かれたということだった。だが裏では、妻の死をルキンのせいだと言い立てた男の言い分が事実と判明して問題になったのだ、と言われていた。

 そして当の医者は、どこへ行ったのかも、判らないと。

 逃げられた――という思いがある。ルキンは、館の裏で暴れた、自分に都合が悪かったはずの男の言い分でさえ、利用してしまったのだと。

 だがそれは町憲兵たち、殊に、真実を知るわずかな者たちの方が、強く感じたことだっただろう。

 ルキンとヘルサレイオスの影がもはやアーレイドには残っていないとしても、この街の金と、いくつかの、それともいくつもの命を奪って、知らぬ顔で逃亡をしたのだ。

 犯罪の記録はない。余所の街町に注進することもできない。またすぐに、違う場所で似たようなことをはじめるのではないか。だがそれでも、追う術はない。

(居座られるよりはましだ)

(でも)

 すっきりとは、しなかった。

 けれど、もはやどうしようもないことではある。

 どんなに理不尽であっても。

「まあ、とにかく、食ってけよ」

 料理人は言った。

「食えねえもんとか、ねえな?」

「ないつもりだ」

「よし、それじゃこのトルス様が直々に腕を振るってやる。首洗って待っとけ」

「言葉の使い方が間違っているんじゃないか」

 少年は指摘した。トルスはそれを無視して、厨房へと戻った。

(まあたぶん、これが最後になるんだろう)

 若者はそう思った。

(あいつもそんなつもりで、わざわざ土産を持ってきたんじゃないかな)

 騒ぎに紛れて分かれたきりだったから、これを機会に挨拶をとでも思ったんじゃなかろうか。そんな気がした。

 これを機会にファドックが〈青燕〉に通うようになる、とは何故だか思わなかった。住む世界が違う、と思うところもあったが、そのためだけではない。

 少なくともファドックは下町の雑然とした雰囲気を好いている様子がある。どんなご立派な家で暮らしているのだとしても見下すようなことはなく、むしろ羨望のようなものを感じさせることさえ。

 なのに、少年はここへ通ってこないだろうと思う。それは不思議な予感(フェルシー)だった。

 魔力などないトルスに訪れたその感覚は当たりであったものの、所詮、当然、魔術師などでない彼が当てたのはそれだけだった。

 つまり、「これが最後」の方はものの見事に外れるのだが、無論彼らは、そのようなことは知らない。

 このときの彼らは、いつかまた会おうとも、もう会うことはないだろうとも、そんな言葉をわざわざ交わすことなく、ただ分かれただけだった。

 トルスは、その少し後に発表された第一王子妃の懐妊というめでたい出来事を特にファドックの台詞と結びつけることはなかったし、ファドック自身、生まれる王女と彼との間に作られる絆など知る由もなかった。


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