09 私、てっきり
それから――ひと月。
中心街区で起きた火事のことなど、日々の忙しさに紛れてしまう。その事件が人々の話題に上ることはほとんどなくなっていた。
時間は流れ、記憶は薄れていく。当然のこと。
どんな意味であっても、それを印象の強い出来事として心に残しているのは、関わった者だけだ。
「……元気、ない」
ぽそりと聞こえた言葉に、ラウセア・サリーズははたとなった。
「ごめんね、忙しいのに」
「えっ? あ、違うよ、こっちこそごめん、少しぼうっと」
「だから、疲れてるんでしょ」
ナティカは心配そうにラウセアを見た。
「わざわざ予約してくれて嬉しいけどさ。私だけ楽しんでも嬉しくない」
「まさか。楽しいよ。ただ、いいのかなって」
「何か悪いことある? お休みなんでしょ? あ、それともほんとは重大事件、抱えてる? ほんとは、とても休んでいられないとか」
「いいや、大筋では、アーレイドはこのところ、ずっと平和」
制服を着ていない若い町憲兵は、穏やかな笑みを見せた。
「うん、正直なところ、ちょっと事件のことを考えてた。ごめん」
「うーん、何て言うかさ」
ナティカは両手を組んで肘を卓につき、そこにあごを乗せて向かいの相手を眺めた。
「私といるときは私を見てよと思わないと言えば嘘なんだけど。でも、ラウセアの好きにしてもらいたいとも思うよ。気になることがあるなら、私との約束を後回しにしても怒らないから。あ、でも待ちぼうけは嫌だから連絡は入れてね」
「ナティカ」
彼は少し困惑して、少女を見た。
「いいのかい、そんなで」
「だって、私が好きになったのは、街のことばっかり考えてるラウセアだもん。私のことを思ってくれたら嬉しいけどさ、それでラウセアがらしくなくなっちゃったら、私には矛盾が訪れると思う訳」
複雑ね、と彼女は肩をすくめた。
「仕事上の決まりで『話せない』ってこともあるだろうけど。たとえば『こんな酷い話を聞かせる訳にはいかない』なんてのは、なしね。抱えないで」
「――有難う」
話せないことばかりだ。守秘義務はもちろんあるし、やはり、聞かせられないと思うことも多い。
たとえば、半月前ほどに起きた、北方の、捨てられた古い館での事件。街の外の話で、町憲兵隊の任務と直接には関わらない。
だが、崩落を起こした館の地下にあった十五体の死体は、アーレイドの住民だった。町憲兵隊に追われたことのあるような若いちんぴら連中ばかりで、ここ一年は顔を見なかったと言う。
いったいその地下に潜伏して何をしていたのか、何か壮大な計画を企むような悪党ではなかったとの話で、全容は謎に包まれたままだった。
仮に反逆でも目論んでいたところで、首謀者たちが死んだのだから追及の必要はない、崩落はただの事故だということで、その件はうやむやに終わろうとしていた。
しかしそこには、気にかかる事実もあった。
地下からは、腐った大量のチェレン果が見つかったのだ。
ラウセアはすぐにヘルサレイオスのことを思い出し、息巻いた。だと言うのに、ビウェルは驚くほど冷淡な反応を見せた。調査の続行すら、主張しなかった。どうしたのかと問うても、うるさいと返るだけ。
あの事件の間、ビウェルはラウセアに全てを話してくれていた。なのにいまではどうしてか、彼が新人の頃のように、言わないことの方が多くなっているように感じる。
年上の相棒は何かを掴んでいる。だがそれをラウセアに言わない。もしかしたら隊長にも。
ラウセアはそう考えたが、聞きだすことは不可能だと判っていた。ビウェルが、彼に教えてもいい、或いは手助けしてほしいと――口にすることは有り得ないだろうが、心の奥ではそう思って話をしてくる日を待つしかない。
これは、ナティカには言えない話だ。
ビウェルは、必要なときがくればきっと彼に告げてくると、ラウセアは相棒を信じていた。そのときまで、疑念は彼だけの胸に秘める。何も約束してなどいないが、そうすることが信頼だと考えていた。
相棒の態度を除いても、事件のことはあまり言えない。
秘密だと言うのではないが、裏の見えない、不気味な話だ。
現状、謎を謎のままで放置せざるを得ない、町憲兵隊がそんな頼れない組織であるとはとても告白できない。
これは見栄などではない。
彼らを――彼を信じてくれる少女を不安にさせたくはない。
いつの日か、真相を暴くことができれば、そのときは全てを話そう。
だが、いまは言えない。そう思っていた。
それでもラウセアは礼を言った。表面上のものではなく、そう言ってくれる少女の気持ちが嬉しかったから。
「でも、びっくりしちゃった」
ナティカは雰囲気を変えるようにおどけて両手を上げた。
「〈黒革籠手〉亭なんて、賞与が出たときに思いきって一度きただけよ。何かよっぽどの理由がないとこれないと思ってた」
「予約が必須だからね。でも、高級でどうしようもないと言うほどじゃないし」
ラウセアも話題の変更に乗った。
「きちんと話すには、こういう場所がいいかなと思って」
「何を?」
「僕とおつき合いしてくださいと」
言うとラウセアは、葡萄酒の杯を掲げた。ナティカは目をぱちぱちとさせて、少し顔を赤くした。
「私、てっきり」
「てっきり?」
「もう、つき合っているものと」
「うん、まあ、僕もそう思ってはいたんだけど」
ラウセアは応じた。
「きちんと言わないと伝わらないこともある、とトルスにたきつけられたものだから」
「……トルスめ」
「いいお兄さん、だね」
ひと月前ほどのあの日、彼女とふたりで〈青燕〉を訪れたのは特に「逢い引き」ではなかった。だがトルスはあのときラウセアが「また今度」と言ったことを忘れず、約束は果たせよと迫った。
それがきっかけとなって、彼らは時間があるごとに――主に、時間を作らねばならないのはラウセアであったが――食事をしたり、一緒に出かけたりするようになっていた。
そのことは、重くなった青年の心を軽くしてくれた。
「厳しいときに君に慰められた、そのことに甘えて、何となく一緒にいるという感じにしたくなかったんだ。言うべきことは、きちんと告げたい。いつ――」
ふとラウセアは言葉を切って、首を振ってやってくる給仕に目をやった。
「料理がくるようだね。こういう雰囲気は慣れてないから、僕が何か間違ったら教えてくれ」
「私も大して、慣れてないわよう」
「でもいつも、接客や味に点がからいじゃないか?」
「トルスの影響みたいなもんね」
「そうか」
ラウセアは笑った。
「それじゃ、僕らにできる範囲で頑張ろう」
「うん、そんなとこで」
ふたりは曖昧な決定事項にうなずき合った。
――いつ、何も言うことができなくなってしまうものか、判らないから。
ラウセアはその言葉を飲み込み、大方のところ――本当のことではない話――を聞いているナティカも、追及しなかった。
彼らはただ、互いに何も言うことなく献杯をして、それから目の前に置かれた瀟洒なひと皿についての話をはじめた。




