07 これしかないんだ
返ってきたのは、まずは沈黙だけだった。
深々と頭を下げられたところで、何を言われているものかさっぱり判らない、という顔をしていた。
「申し訳ありません」
町憲兵は、繰り返した。
「民間人であるヴァンタン殿に捜査協力を頼んだだけでも、咎められて然るべき。ましてや、亡くなられたと、あっては」
アニーナは顔面をただ蒼白にして、その場に立っていた。
妊婦である彼女には、あまりにも重すぎる報告だ。気を失い、倒れてしまうようなことがあっては、とラウセアはいつでも彼女を支えられるよう、気をつけた。
「金の問題でないことは承知していますが、保障はいたします」
ビウェルは言い、ラウセアはそれに怒りの言葉が飛んでくるかと思ったが、アニーナはまだ黙っていた。
「――アニーナ殿」
あまりの反応のなさに、熟練の町憲兵も少し対応に迷って、彼女の名を呼んだ。
「本当に、申し訳が」
「何の、冗談なの」
そこでようやく、彼女は言葉を発した。
「ふざけたことを言わないで。ヴァンタンはどこ。一日も連絡がないなんてことすら、なかった。それがもう、何日?」
アニーナは首を振った。
「あの人は、どこにいるの」
「……ですから」
亡くなられましたと、ビウェルは再度、ヴァンタンの髪と結い紐を差し出した。アニーナは手を出さなかった。
「ふざけないで」
硬い声で、ヴァンタンの妻は繰り返した。
「そんなはず、ない! 帰ってくるに決まってる! 私と……この子たちを置いて、ヴァンタンが、どこにも……行くはずが」
そう、行くはずがない。
帰ってこないはずがない。
――生きているのなら。
アニーナの足は、震えた。
「申し訳、ありません」
謝ったところで何にもならないことは判っている。だが、そう繰り返すしかなかった。ビウェルは、何度でも、という思いで頭を下げる。ラウセアも心から、それに倣った。
「帰って」
アニーナは言った。
「そんな馬鹿げた話をする人の、顔なんか見ていたくない。帰って。すぐさま。二度と、私の前に顔を見せないで。この家にも近寄らないで」
「これを」
ビウェルはまた、手にしていたものを差し出す。アニーナは首を振った。
「ヴァンタンじゃない。ヴァンタンのものじゃない。受け取る必要なんかないわ」
もちろん――妻には判っていただろう。間違いなく夫の髪であることも。出かけていった朝に、彼女自身が結わえた紐であることも。
「帰ってくるわ。絶対に。私の……私と、私たちの子供のところへ」
そこでアニーナは、膝を折って顔を覆った。ラウセアは思わず、手を差し伸べた。
「触らないで!」
潤んだ瞳で、女は叫んだ。
「出て行って。いますぐ! もう、二度とこないで!」
中途半端な姿勢で、ラウセアは固まった。ビウェルはその肩を叩くともう一度深く頭を下げ、アニーナが頑として受け取らない遺髪を布にくるみ直した。
「これは、隊でお預かりをしておきます。気持ちが落ち着かれたら――」
「必要ないわ」
アニーナは首を振った。こらえ続けていた涙が、その動作で零れた。
「何かの気紛れで、切ったんだとしたって、髪なんか、またすぐ伸びるもの」
どうしても、彼女は夫の死を認めなかった。いや、認めれば、崩れてしまうような気持ちだったのかもしれない。
この悲報に、アニーナは倒れる訳にはいかなかった。
腹のなかにいる、残された命のために。
「帰って」
静かに、アニーナは繰り返した。ふたりの町憲兵は、しつこいとさえ言えるほどに頭を下げ、それから、彼女の希望に従った。
閉ざされた扉の向こうから、彼女の嗚咽が、聞こえた。
――それから南区を離れるまで、彼らはずっと無言でいた。
重い。あまりにも。
ラウセアは身体が鉛になったような思いだった。
これまでにも不慮の事故や事件に巻き込まれて死んだ街びとがいたとき、遺族にそれを告げたことはある。
やはり、重かった。
泣き崩れる親も、責め立てる夫もいた。
けれど、逝った人間がよく知る顔であり、なおかつ彼らの事件に巻き込まれた――巻き込んだ、という事実はあまりに重すぎて、ラウセアは足を動かすのがやっとだった。
「なあ……ラウセア」
呟くようにビウェルが声を発したのは、詰め所ももう近くなった頃だった。
「お前」
彼の方を見ずに、年嵩の相棒は続けた。
「辞めようなんて考えるなよ」
「……考えませんよ」
ラウセアは応じた。
「確かに、一時は思ったこともあります。そういう責任の取り方もあるかと。でも」
そうじゃない、と彼は首を振った。
「僕は……僕らはこの職務を全うしなくては」
「判ってるなら、いい」
ビウェルはやはりラウセアを見ないままで、そう返した。
このところ、さすがのビウェル・トルーディにもいつもの覇気がなかった。ヴァンタンの死に消沈していたと言うのとは少し違う。その憤りの行き先が、見当たらなかったからだ。
あの日からヘルサレイオスは、ぱたりとその姿を見せなくなった。
在庫分を破壊された、という理由が大きいだろう。だがあの地下にあった程度では、せいぜい一旬分がいいところだ。
どこか異なる場所で作られているはずであり、すぐにまた現れるのかもしれないと彼らは警戒を怠らなかったが、ともあれ現状では、まるで幻であったかのようにその薬の気配は下町から消えてしまった。
もちろん、あんなものがないならそれでいい。
だがどこかでは作られ続けている可能性がある。
それを追う手段がないというのは、気持ちの悪い話だった。
もっとも、実験的に少量を作製する以上のことを禁止する方向には、話が進みはじめている。時間はかかるかもしれないが、アーレイドにはチェレン果から作られるヘルサレイオスが蔓延することなどなくなるだろう。
しかしそれでは、アヴ=ルキンを罰することはできない。
それは、ヴァンタンの仇が取れないということと同じだ。
町憲兵としては、そういった仇討ちのような真似を考えるべきではないと判っているのだが、心情の方はそうはいかない。
ラウセアは、口数の少なくなったビウェルが自身と同じ思いを抱いているのだろうと考えた。
「ビウェル」
「何だ」
「あなたこそ、辞めるとか考えないでくださいね」
「阿呆」
年嵩の町憲兵は一蹴した。
「――俺には、これしかないんだ」
返ってきたその答えは、彼が一度は考えたことを示唆した。
ラウセアは少しだけ驚いて、だがそれを見せないようにしながら、そうですねと応じた。阿呆、と相棒は繰り返した。




