06 天国への階段
(何か……武器になるもの)
この部屋にあるのは、木箱とその中身だけだ。ヴァンタンは箱に手を突っ込むと、手当たり次第に小さな瓶を投げつけた。ニーファンヤだろうとヘルサレイオスだろうと関係ない。ただ、足止めをする目的だ。
「おい、やめろよ」
中身が何であろうと、瓶が当たればそれなりに痛い。手をかざして、ティオは文句を言った。
「馬鹿らしい。そんなことしたって時間の問題だぜ。全部投げたって、お前は俺の力に敵わないんだから」
いくつかの瓶は床に落ちて割れた。液体が広がり、破片が散らばる。底の厚い丈夫な靴でも履いていない限り、それを踏めば傷を負うかもしれなかったが、よければ何ということはない。大して防御にはならなかった。
(ええい、どうすりゃいい)
(この薬瓶を全部壊してやるのは俺の目的に適うが)
(当座の目的には、あまり)
そのとき、彼は思い当たった。
思い当たってしまった、と言うのか。
隠しにある、ビウェルから奪った燐寸の存在に。
(巧くすりゃ)
(〈兎を仕留めた狐を捕まえる〉ことができるかも)
危険は承知だった。だが、躊躇わなかった。
ヴァンタンは素早く燐寸を取り出すと、慣れぬ手つきで最大限に可能な速度でそれを擦り、箱のなかに、放り込んだ。
「な、何!?」
ぼうっ、と箱が燃える。
瓶はもちろん、容易には燃えない。
だが、中身が割れないようにと大量に敷き詰められた梱包材代わりのおがくずは、実に簡単に――燃えた。
「っしゃ!」
巧く行ったと見れば、あとは躊躇わなかった。
火つけが重罪であることは知っている。だが、これが唯一可能な方法であり、なおかつ、最上の方法だった。
ヴァンタンは次の箱に、火のついた燐寸を投げ入れた。次にも。その次にも。
「やめろ!」
ティオが泡を食って叫んだときには、もう既にいくつもの箱が燃えさかり、高温に瓶の割れる音も聞こえはじめていた。
「危険だ。ティオ、下がるぞ」
「で、でも、いいのかよ、あいつ」
「扉を閉めてしまえば、結果的には同じことだ」
「そ、そうか」
ひとりでふたり分を喋った若者は、ヴァンタンをちらりと見てから、尻を蹴られた馬のごとくに駆け出した。
「俺だって別に焼け死ぬつもりはないね」
焦って逃げてくれれば自分も続ける、そういった思いはあったのだ。ヴァンタンはティオを追いかける形で走り出そうとし――ユークオールに、行く手を遮られた。
「お、おい」
ヴァンタンもまた、焦った。
「お前だって、危ないぞ。ほら、ティオは行っちまった。お前も逃げろよ。しっしっ」
追い払うような仕草をしても、犬はその場から動かない。背後でぱちぱちと木箱は燃えていき、ぱん、ぱん、と瓶が割れていく。
部屋は次第に熱を帯びた。炎は床をも舐めだし、燐寸を投げ込まなかった箱にも、手を伸ばそうとしていた。
「クソ、火を怖がる本能がないなら、そのままここにいろよ。俺は行くからな」
そう言って彼は犬の脇を通り抜けようとした。すると、犬はガアッと咆吼を上げてヴァンタンを威嚇する。反射的に、身がすくんだ。
「待てよ……いや、待つな。行け。行けったら!」
ヴァンタンは叫んだ。ユークオールは動かなかった。
背後の熱はあっという間に強くなっていく。浮かぶ汗はそのためか、それとも恐怖のものなのか、ヴァンタンには判然としなかった。
「――クソ!」
ヴァンタンは燐寸を握り締めた。
自分でつけた炎に巻かれて死ぬなんて、間抜けもいいところだ。
いや、そういう問題ではない。
どんな理由であろうと、アニーナと子供を置いて死ぬなんて!
「ええい、どけ!」
この場にいれば、焼け死ぬだけだ。たとえ犬に噛まれても、強行した方がまし。
そう思った瞬間、カートの姿が思い起こされた。
(これが)
(この犬カートを殺したのか)
(それなら、俺だって簡単に)
焼け死ぬか。
噛み殺されるか。
その二択しか、ないと言うのか?
「んなはず、あるか!」
彼は握り締めていたものに再度気づいた。残り少ない燐寸を擦って、武器のように掲げるとユークオールに突きつける。これには、犬も鼻白んだ。
「そうそう、いい子だ。熱いだろ? ってか、俺も熱いんだけどな」
背後も、燐寸を持つ指先も熱い。限界を感じると、反射的に火のついた燐寸を放った。それは、巧い具合にと言うのか、犬の背中にぽんと乗る。ガアッと犬はまた叫ぶと身をよじり、ヴァンタンは口を開けた。
犬の姿が、かき消えたのだ。
「何……」
呆然とする――暇はしかし、ない。炎も、煙も充満しだしている。ヴァンタンは、先とは違う理由でまた咳き込んだ。
見たものは信じられないが、それについての考察を進めるのも、やはりあとだ。ヴァンタンは走り出し、唯一の出口と思しき扉に向かって階段を駆け上った。
(天国への階段)
そんな言葉が思い浮かんだ。
がちゃり。
絶望的な感触があった。
ティオはここから入り、ここから出て行ったのだろう。
だが無論――鍵をかけたのだ。
当たり前だ。彼だってそうする。だからこそ、ティオのすぐあとを追うつもりだったのだ。
「クソ」
がちゃり。扉は開かない。
「おい、開けろ! 開けてくれ!」
がちゃり。がちゃり。
戸の向こうにティオがいたとしても、あの若者が彼に同情してここを開けることはないだろう。
「開けろ!」
判っていた。それでも、叫ばない訳にはいかなかった。
「開けてくれ、頼む!」
ごおお――と炎が力を増していく音がしていた。黒い煙が、追っ手のように通路を追いかけてきた。
天国への、階段。
思い浮かんだ詩的な一語は、文字通りの現実となって彼を襲おうとしていた。
追っ手が昇ってくる。
(アニーナ)
愛しい妻の姿が浮かんだ。
(俺……もう、帰れない、かも)
(――ごめん)
(アニーナ、本当に)
煙が、ヴァンタンに追いついた。
彼は大きく咳き込んだ。苦しい。息が、できない。
目が痛い。熱い。気が、遠くなる。
(幸運の果実)
不意にそんな名称を思い出した。
(占って、やりたかったな)
ぎゅっと閉じた瞼の裏に、まだ見ぬ子供の姿が、浮かんだように思った。
そのままヴァンタンは、天国への階段の最上段で、黒い煙の姿をした死神の到来を待つことしか――できなかった。




