04 「その日」の昼
いったい、何があったのか。
「その日」の昼のこと。
逡巡のあとでヴァンタンは、商人リクテアーの話に乗ることを決めた。
アヴ=ルキンに紹介をしてもらえるという、その話に。
(何でもいい、尻尾まで掴めなくても、毛の一、二本を拾い上げて)
(怒鳴られようと、旦那に報告だ)
彼はもちろん、そのつもりでいた。ルキンに雇われるふりをして、その裏をのぞき込んでやろうと。
それがどれだけ危ない橋か、知ることなく。
リクテアーに導かれ、ヴァンタンがその裏口をくぐったのは、地下で「話し合い」が持たれていた頃だった。
「ルキン様は?……お取り込み中か。では、少し待つとしよう」
商人は慣れた様子で、客用の部屋に陣取った。この辺りで、ヴァンタンはこの男を疑ってもよかった。ルキンにちょっと何かを売るだけではない、こうした部屋を自由に利用できるほどの関係であると。
だが彼は気づかなかった。むしろ、こうした慣れた風情を見て、男の話に信憑性が出たと思っていた。
(秘密の地下室でも北の廃墟でも、どんとこい)
茶など出され、こんな上等なものは飲んだことがないな、などとそれをすすって待った。
ほどなく使用人が商人を呼び、席を外した男は少しして戻ってきた。
「先生がお会いになるそうだ」
面接という訳かな、とヴァンタンはおかしく思いながらも真面目な顔でうなずいた。
彼が初めて顔を合わせたアヴ=ルキンという男は、噂から想像していた通りの男だった。
威圧感はあるが、ビウェルの持つそれとは違う。町憲兵は必要とあらば権威を振りかざすが、町憲兵という「地位」に力があることを知っている。決して「自分が偉いのだ」とは思っていないし、ヴァンタンに説教はしても、見下すことはしない。
しかしこの男は、明らかに上から彼を見ていた。まるで動物か、それとも物体でも見ているかのように。
品位はある。だが、生まれ持ったものではなく、奥にあるものを隠すための「質のいいマント」みたいなものだ。
笑むように形作られた唇には、信頼も親愛も存在しない。ただ、獲物が網にかかったと言うような。
「成程」
じっとヴァンタンを観察したあと、医者は呟いた。
「わざわざここに連れる理由はあったのか、リクテアー?」
「近かったんですよ」
商人は肩をすくめた。
「ちょうどいいんじゃないですか。ついでにもうひとつ、処理させてしまえばいい」
「成程」
ルキンはまた言った。
「自ら動くこと少なくして、同じ報酬を得るか。商人だな」
「ばれましたか」
何の話をしているものか、ヴァンタンにはよく判らなかった。口を挟んでいいものか迷い、様子を見ていた彼は、ふと視界に霞がかかるのを感じた。
(何だ?)
(昨夜は別に、酒を飲んだ訳でも遅かった訳でも)
無意識の内に目の辺りをこすった。
「もっとも、お前は正しい時を掴むだけの機運を持っているようだ。最初の試験にちょうどいい」
(さっきからいったい)
(何の話を)
そろそろ疑問を投げかけようか、とヴァンタンはルキンを見据えた。だが――。
世界が回った。いや、もちろんと言うのか、回ったのは彼の目だ。
「な」
(何だこれは?)
「効いてきたようですな」
リクテアーが、ヴァンタンにではなく、ルキンに言った。
「ルキン様を怪しんでいるようなのに、出されたものに簡単に手をつける。愚かと言うのか、まあ、貧乏人は仕方ないですかな」
「何を……」
力が脱ける。気づけばヴァンタンは、その場に膝をついていた。
(出されたもの)
(まさか――さっきの茶に何か)
考えもしなかった。当然だ。彼はいろいろな事件の裏を見ることはあったが、彼自身が巻き込まれたことはない。彼が事件にかかわるのは善良な人々を救うためで、彼の近くにいるのは善良な人々ばかりだった。
一服盛られるなど、思いもよらない。
ましてや、ヴァンタンはルキンに何も疑われてなどいないはずだった。少なくとも彼はそう考えていた。商人の善意による紹介、いや善意とは言えないとしても、おそらくこれは何かしら後ろ暗い仕事の面接、そういったものだと。
「サリアージ殿には不具合があるようですし、私には力ずくで捕らえるなんて向きませんし、助かりましたがな」
したり顔で言う商人の声だけが、彼の耳に届いた。
そのときにはもうヴァンタンは床に突っ伏し、必死の抵抗の甲斐もなく意識が遠ざかるのを感じていた。
それからどれくらい経ったものか、当人には判らなかった。
気づけば四方数ラクトの何もない部屋にいた。
いや、「何もない」は間違いだ。
ヴァンタンが同室にさせられた相方は、異臭を放ち出した遺体だった。
まず青年はぎょっとし、それから反射的な嫌悪感を覚え、次には驚愕に目を見開いた。
「おい、こりゃ……カートじゃねえか?」
ユークオールに殺されたのは、間違いない、エルファラス商会から姿を消した売り子の青年だった。
「何で、こんな」
震える指で追悼の仕草をした。
「ティオ」
もしやと思って部屋を見回すが、遺体以外には何もない。配達人の新人が隠れているようなことはなさそうだった。
「……おいおい」
彼は呟いた。
(何なんだ? あの先生は、うちの店に恨みでも?)
本気で疑った訳ではないが、ついそんな台詞が思い浮かんだ。カートやティオを拐かし、次にはヴァンタンをと思ったのであるが、それはおそらく偶然だ。
ずきずきと頭が痛む。いったい何を飲まされたのだか。
今後二度と、敵地と判っている場所で出されたものを気軽に口に入れるのはやめようなどと思った。もしも死ぬような毒物でも入っていたら、ここで目を覚ますことすらなかったのだ。
(だがいったい、何のため)
(ってか)
「何でわざわざ、俺を」
そんなふうに呟いて、気づいた。何でも何もない。彼は、ルキンの周囲をうろちょろしすぎたのだ。リクテアーは、チェレン果と死人の話を洩らしながら、ヴァンタンの様子をうかがっていたのだろう。本当に「父親の商売」が気になっていたのか、裏があるものかと。
そんなことには思いもよらず、〈海の鈴〉号の船員に近づくと〈海獣の一本角〉船長の死因の話などした。ルキン邸の近くで医者の噂を探り、入り込む手段を掴んだ。
町憲兵のように法に基づくでもない、厄介な情報屋の類とでも思われたのか。
(あー、まさか、お医者様が「都合の悪い人間は消してしまえ」だのと)
(考えたり)
(するはずが)
ない、という答えを死体の隣で導き出すのも難しい。カートが何をやらかしたのだか知らないが、こうして死んだ若者が放置されている現実を前に、どんな想像力豊かな人間なら何かしらの好意的な事情を考えられると言うのか?
「まあ待て。落ち着け、俺」
そんな呟きが出ること自体、落ち着いていない証のようなものだ。
深呼吸をしてみれば、嫌な臭いが肺に満ちる結果となった。思わず咳き込む。
(くそ、冗談じゃない)
(これと同じ目に遭わされたりなんか)
嫌な汗が浮かぶ。
この留置場か何かのような場所は何なのか。ヴァンタンは立ち上がり、無駄を承知で、唯一ある扉の取っ手を回した。
「……ありゃ?」
意外なことに、それはあっさりと回った。きい、と扉は開いたのだ。
(閉じ込めたんじゃ、ないのか?)
周囲を見回し、何枚もの扉がある廊下を眺める。誰もいない。気配もない。ヴァンタンはうーむと両腕を組んだ。
状況がさっぱり判らない。いったいここがどこなのか、どうしてカートの死体と一緒に放り込まれていたものか、彼には全く判断の材料がなかった。
もしもトルス、ファドック、ビウェルらそれぞれが持つ話を統合することができれば、彼らは異なる形で動くことができたかもしれない。
だがそうはならなかった。
ヴァンタンは途方に暮れる思いで誰もいない通路をうろつき、地上への階段を見つけたが、その引き上げ戸には錠が下りていた。
(ここが唯一の出口だとすると、やっぱ閉じ込めたってことか?)
(……訳が判らん)
ルキンやリクテアーが彼を邪魔者と見たのだろうか、とは考えたものの、こんな中途半端な対応に何の意味がある? 殺すならば、彼が無警戒に飲んだ茶に致死性の毒でも入れておけば早いだろうに。
もちろん、生きていることに文句などないのだが、ヴァンタンはどうにもぴんとこなかった。
(まあ、とりあえず、ここはどこなんだ)
同じルキン邸であるのかどうかも、彼には確信の持てないことだ。ほんの半日前までは、彼ら側が手にしていた情報はほとんど同じであったのに、最後のこの時点では、彼の知ることが少なすぎた。
そう、ヴァンタンは、知らぬままだった。
ここが紛う方なきアヴ=ルキン邸の地下であることも。
町憲兵隊に圧力がかかったことも。




