03 身元不明
夜の街並みを歩きながら、ラウセアは胸苦しい思いを抱えていた。
いったい――何があったのか。
それは彼には判らない。推測することしかできない。
死者は、何も語らないから。
ラウセアが火事の件を耳にしたのは、詰め所でビウェルに押しつけられた報告書の整理に四苦八苦していたときだった。
そのビウェルは例によってひとりで出歩いていたところ、火事の現場に遭遇し、消火隊の手伝いやら野次馬の排除やらに躍起になってきたのだとか。
(生憎、と言ってやるが)
彼の相棒は、そんな言い方をした。
「ルキンの野郎は不在だった。住み込みの使用人も全員、無事。ただ」
「ただ?」
「火元と思しき地下には、犬に殺された男のほかに、煙に巻かれたらしい、身元不明の死体がひとつ」
以上、とビウェルは片手を上げた。
「身元不明って」
ラウセアは顔をしかめた。
「それで済ませるんですか? 状況から考えれば、その人物が放火犯である可能性が高いでしょう。きちんと調査をして――」
「やめろ」
素早く、年上の町憲兵は制した。
「どうにか身元不明だということにしたんだ」
「……した?」
ラウセアは目をしばたたいた。
「ああ」
苦い顔で、ビウェルはうなずいた。
「アイヴァはその辺りの小細工が詐欺師並みに一流だからな。あいつに任せた」
「小細工って、どういうことです。ビウェルあなた、いったい何を言っ」
彼が聞き返す間に、ビウェルは何かを包んだ布を投げて寄越した。
「お前はこいつを放火犯にしたいか?……まあ、放火犯だがな」
「ですから、何を言ってるんですか」
意味が判らないというようにラウセアは首を傾げ、受け取った布をゆっくりと開いて、顔を白くした。
「ビウェル……これ」
「死体から切り取った。せめてあいつの女房にそれくらい、な」
茶色い髪のひと房。簡素な結い紐には、ラウセアも見覚えがあった。
「それ、じゃ……」
「俺から奪った燐寸も一緒に落ちてた。あの馬鹿が。クソ面白くもないこと、やりやがって」
「――ヴァンタンが」
どうやってか、ルキン邸の地下に入り込んだのか。そして、あの瓶の群れを見つけたのか。
彼らに通報するのではなく、焼き払うことを選んだと、そういうことなのか?
「前後のことは判らん。……死人は何も説明せんからな」
「死……そんな」
ラウセアは、自分の声がかすれるのを聞いた。
「そんな! どうして、そんなことに!」
「判らんと言ってるだろう! 判ってるのは、あの馬鹿が究極の馬鹿をやった、それだけのことだ!」
ばん、とビウェルは卓を叩いた。ラウセアは蒼白な表情のままで、遺髪を握り締める。
「奥さんには……何て言ったら」
「可能な限り、本当のことを言うつもりだ」
ビウェルは肩をすくめた。
「あの史上最大の大馬鹿は、俺たちの仕事に要らんくちばしを突っ込んで、無駄死にをしたと」
「何てこと言うんですか! そんな言い方が」
「本当だろうが!」
男は怒鳴った。
「判ってるのか、ラウセア。俺たちの責任だぞ! 俺たちが……俺があいつを雇って、一挙手一投足、命じてやるべきだったんだ! 何か判ったら全て知らせ、何か動く前に絶対に相談をする、そういう鎖をつけていれば、こんなことにはならなかった!」
こんなふうにビウェルが声を荒げるのは珍しかった。ラウセアを叱責したり、犯罪人を恫喝することはあっても、こうして自責の念を吐露することは。
「俺の、せいだ」
「――ビウェル」
「遺体は処理をした」
低い声で、年嵩の町憲兵は続けた。
「ほかに死人の出た火事でもあればそれに巻き込まれたということにするが、そんな事件もない。いくつか、話をでっち上げなきゃならん。あいつの女房には、街道で……魔物にでも襲われたということにして」
「そんな嘘を……つくんですか」
知らず、咎めるような口調になった。
「遺体と対面も、させないで?」
「ほかに方法があるか!?」
ビウェルは叫んだ。
「死因は煙だが、火傷のあとは隠せない。いま、火事で死んだなんてことになりゃ、ルキン邸のそれしかない。となると、そいつがやったと誰もが思う。実際にやったとしか、考えられんがな」
彼はまた、卓を叩いた。それは先ほどよりも、弱かった。
「使用人がひとり、エルファラス商会の配達人が裏口の辺りにいて、話をしたと言ってる。サイリスもヴァンタンと話してる。あいつがルキン邸の近くをうろついてたことはばれてるんだ」
ビウェルはきゅっと唇を結んだ。
「火事と奴を関連付けさせちゃならん。断じて」
過失であってさえ、火事には厳重な処罰が課される。ましてや、放火であれば大罪だ。
それがヴァンタンであると判断を下されれば、彼の名は放火犯として、さらされる。
「放火犯の女房。放火犯のガキ。そういった中傷は、ずっとつきまとうんだぞ」
「……それは」
「町憲兵としちゃ、事件の捏造なんざやるべきじゃない。だが」
男は強く、拳を握り締めた。
「この件だけは」
そこでビウェルは言葉を切った。ラウセアはそれ以上、何も言えなかった。
どうしてそんなことに、なったのか。
この話はトルスには伝えられなかった。もちろん、ナティカにも。
いずれ、ヴァンタンが死んだ、という話はしなくてはならないだろう。だが火事とは関わりのない、ほかの事件に巻き込まれたという形で。
彼の妻であるアニーナは、まだこのことを知らない。
ナティカの言った通り、エルファラス商会を訪れた彼女は、そのあとで詰め所にも足を運んだ。しかし、成人男性が何日か帰っていないからと言って、町憲兵隊が大々的に捜査をすることもない。大きなお腹を抱えて、とてつもなく不安であるだろうに、ラウセアはそれに大丈夫ですよと声をかけることができなかった。
きっと帰ってきます――などとは。
ビウェルは、彼の言うところの「捏造」が整ったら、自分が話しに行くと言った。ラウセアには、こなくていいと。
だが同行するつもりだ。
ビウェルだけの責任ではない。ラウセアにも、また。
(――重い)
身体が。心が。
(いったい)
(どうして、こんなことに)
誰も、答えを教えてはくれなかった。
春の星座が美しく、夜空に瞬いていた。




