02 変な噂
複雑なところがあるのだろう、とは判った。
その火事は、もしかしたら彼らの内に溜まった鬱憤を晴らし、影に追いやるしかなかった出来事を表沙汰にすることができるようになるかもしれない。
だが、罪は罪。大罪だ。
放火犯は厳重に処罰されるだろう。たとえ死んでいても、罪人として名をさらされ、名誉をなくす。
そうするために、ラウセアもビウェルも、犯人を捜さなければならないのだ。どういう動機によるものであれ、結果的には彼らにできなかったことを為してくれた人物であったとしても。
「身元なんて判んないといいな……なんて言ったら、まずいのかな」
思わずトルスは呟いた。
「――そうですね」
ラウセアは応じた。
「そうだよな、まずいか」
トルスは頭をかいた。しかしラウセアは首を振る。
「いえ、そうではなく」
彼はそっと呟いた。
「……判らないといいと、思います」
町憲兵らしからぬ台詞だったが、同じ気持ちでいるつもりのトルスは、もちろんラウセアを糾弾したりはしなかった。
「実際のところ」
キドは言った。
「判らないらしい」
「身元不明……ということで落ち着いているんですか」
少年は素早く理解して確認をした。伯爵はうなずく。
「町憲兵隊では、地下で見つかったふたつの死体の内、ひとつが放火犯のものであると断定をしているようだ。だが、それが何者かは判らないと。酷い状態であったのだろうな。調査も断念したようだ」
「火をつけて、煙に巻かれたのでしょうか」
「おそらく。それが何らかの恨みに端を発したものだったとしても、彼は身を挺してアーレイドを守った英雄ということになるのかもしれんが……」
「それならば、身元は判らない方がいい」
ファドックは息を吐いた。
「判れば、放火犯です」
「矛盾だな」
キドも嘆息した。
「町憲兵たちの対応は、彼らの立場であれば仕方がない。だが、隊長が圧力に屈したというのは、気になるところでもあるな」
「ですが」
控えめに、ファドックは反駁した。
「規定通りに後継に譲るというのでもなく隊長が替われば」
「確かに混乱が起こる。治安も乱れるだろう。お前の考えは間違っていない」
だが、とキドはまた言った。
「――気にかかるな」
伯爵はしかし、何らかの懸念を振り払おうとするかのように、首を振った。
「幸運の果実、か」
呟くように、キドは続けた。
「果実に罪はないが……とんだ幸運もあったものだ」
そこで彼は、じろりと養い子を見る。
「チェレン果の件からお前が無茶苦茶をしなければ、裏の判らない出来事ではあった。だが、断じて、褒めはせんぞ。二度と勝手な真似はするな」
「申し訳ありません」
少年は深く頭を下げたが、キドはうなずかず、やはり彼を睨んだ。
「おかしなところばかり、巧くなったものだ」
「はい?」
「『もうしません』とは、言わない訳だからな」
「閣下が言えと仰るのでしたら」
少年はそう答えたが、伯爵はそれに渋面を作った。
「言葉の上だけで誓わせたところで、必要だと思えばその誓いを破るのだろうが。唯々諾々と従うだけが忠誠ではないと教えたのは私だが、失敗だったかと思ってしまいそうだ」
「申し訳ありません」
ファドックはまた言った。キドは天を仰ぎ、もういいと手を振った。
「それで話は終わりな訳?」
「ええ、だいたいは」
ラウセアは答えた。
「だいたいってのは、何だよ」
「何か関係があるかは判らないのですが」
少し躊躇うようにして、ラウセアは続けた。
「見つかった遺体は三つだという噂が流れています」
「噂、だあ?」
「ええ。現実には、ふたつです。記録はそうなっている。消火隊が誤るとは思えません。町憲兵隊も、消火や周辺の騒動を片づけるのを手伝いました。実際と違っていれば、記録は直されているはずですから」
「ふうん」
トルスは肩をすくめた。
「変な噂が立ったもんだな」
「そうですね」
若い町憲兵はそうとだけ言った。
「おそらく、ルキン邸には不気味なものがある、と周囲の人々は考えていたんじゃないでしょうか。不審な遺体の数は多い方が、彼らは納得が行く」
「そんなところかもしんないな」
トルスはその推測にうなずいた。
「そか。そんなことに、なってたんか」
中心街区の方は大騒ぎだったのかもしれないが、こちらまでそんな話は伝わっていなかった。
「教えてくれて、あんがとな」
すっきりしたとは言い難いが、一種の進展はあった。いや、あるかもしれないということをラウセアはわざわざトルスに伝えにきてくれたのだ。彼はそのことに対して礼を言った。
「あんたも食ってけよ。今日は豚の焼きもん」
「そうですね、いただきます」
「おう、毎度。親父、定食ふたつ追加!」
「ふたつ?」
「俺も食うから」
若者は休憩を決め込むと、仕上がった先ほどの注文分を手にしてナティカの席に向かった。
「話、終わったの?」
「まあな」
言いながら、トルスはまず少女の前に皿を置く。
「何の話?」
「男同士の話」
トルスはそんなことを言った。ナティカは顔をしかめる。
「うわ、やらしい」
「何でだよ!」
「だって、あたしの前じゃできない話なんて」
「ええと、決して、いやらしいような話では」
「あっ、もちろん判ってます! ラウセアさんがそんな話するなんて思ってません。トルスが振ったのかなーって思って」
「振るか!」
だいたい、話があると言い出したのはラウセアである。もちろんナティカも判って言っているのだろうが。
「でね。あたしもちょっと、トルスに話があるのよ」
「何だよ」
「ここんとこ、ヴァンタン、見なかった?」
「ああん?」
突然の名前に、トルスは記憶を思い起こす。
例の事件があった日。その朝に詰め所で分かれたきりだ。そう答えれば、ナティカはそうかと呟いた。
「あいつがどうかしたのか?」
「うん、あのね。たぶんその日だと思うんだけど、ヴァンタン、店に戻ってこなかったのよね」
「ふうん」
「『ふうん』じゃないのよ」
ナティカはしかめ面をした」
「彼って、たまにふらっとどっか行っちゃうことはあったみたいだけど、その日は仕事にすごく張り切ってたんだって。ところが戻ってこないし、翌日からは無断欠勤。そんなこと、したことないのに」
「へえ?」
どうしたのだろう、とトルスは首をかしげた。
「家にも帰ってないみたいなのよね。奥さんが心配して、商会にきたもの。いったいどうしたのかなって、みんな心配して」
かたん、とラウセアが席を立った。ふたりは町憲兵を見る。
「どうかしたか?」
「あ……いえ、その」
若い町憲兵は目を泳がせた。
「すみません。僕はちょっと用事を思い出したので」
「はあ? 何だよ、飯くらい」
「すみません、代金は払いますから」
「阿呆。食ってねえのに要らねえよ。てか、食ってけよ」
「――すみません。ご一緒するのは、また今度に」
三度ラウセアは繰り返すと、それ以上何も言わずに踵を返した。ナティカは目をぱちぱちとさせ、トルスは首をひねる。
「何なんだ?」
「ちょっとトルス、彼を何か不快にさせるようなこと言ったんじゃないの?」
咎めるような口調に、彼は両手を上げた。
「しねえよ、何も」
話を聞かされたのはトルスの方で、彼の方からは何も告げていない。
どうしたのだろうか、と料理人は再び首をひねり、それから、厨房に「やっぱひとつ」と叫び直して「ふざけるな」と怒鳴り声を返されたが、それに反論するよりも――ただ何かが、胸に引っかかった。
だがそれが何であるのか、若者にはちっとも判らなかった。




