08 次が要る
どうしてそんなふうに思うのか、と少年は自身の感覚を疑った。
犬が喋るはずはない。いや、確かに喋ってはいない。口を利いているのはサリアージだ。
だがそのサリアージが、自身を貶めるような発言をした。
それは謙遜だの自己卑下だのという内容ではない。ユークオールが、というのは納得しかねるのだが、たとえばルキンが言ったのだと思うと、ぴたりとくるような。
「判らぬか」
サリアージが、それともユークオールが言った。
「判らぬだろうな。だが、理解はあとでよい」
手首が解放された。サリアージは命じられた犬のように横へどき、ユークオールが主人然としてファドックの正面に立つ。
「若くて勢いがいい。だが、老人のように頑なでもある。しかしルキンと同じように、私もお前の度胸を買おう。さあ、知らぬ世界への扉の前で、お前はどうする?」
しかし喋るのは無論、サリアージであった。
「どうも、こうも」
具体的に何を求められたのかは、正直、判らなかった。
だが、判ることもある。
感覚だけで判断することは、時に大きな過ちを呼ぶ。
だが、どんな正当な理屈よりも感覚の方が正しいことはある。
「答えるまでも、無い!」
ファドックはぱっと、身につけていた短剣を抜いた。笑うような声がする。
「まだ、学ばぬのか? いや、先には気づいていたようなのに、同じことを繰り返すのか」
ユークオールに剣を突き刺せなかったこと。サリアージが容易に彼から逃れたこと。どちらを指すのか。両方か。
どうであれ。
「僕の答えは、理解していただけたものと思う」
剣先はユークオールにつきつけながら、サリアージのことも警戒した。
「町憲兵に犬を捕らえてもらうのは難しそうだ。だが、お前の言うところの使者とやらなら捕縛できる」
「我が使者」との言葉。「我」がユークオールで「使者」がサリアージ。先ほどの言葉は、そういう意味合いだ。
思い返してみれば、気づくこともある。サリアージは、ユークオールが近くにいるときだけ、口を利く。いいや、サリアージは一度も口を利いていないのだ。どうやるものかは、判らない。だがその声帯を使っているのは、ユークオール。
少年は多くの学問を修めているが、文学も算術も歴史も経済も、彼の導き出した結論に説明を与えてはくれなかった。
これは「魔術」と呼ばれるものの類なのか。
それとも、普通の人間が「奇妙」「忌まわしい」と考える魔術でさえ説明のつかぬ、奇態な出来事であるものか。
出ない答えを求め続けることなく、少年はただ剣をかまえた。
同じやり方をしても進展は望めない。
ファドックはユークオールに斬りかかるではなくサリアージを脅して捕らえるでもなかった。
そのまま少年は、武器を持たぬ男に剣を向けた。
抜剣は罪。人を傷つければそれは重くなる。もちろん、殺せば、なおさらだ。
それでも彼は犬にではなく、人を対象にした。
サリアージは避けなかった。避けられなかったのか、それは――判らない。
慣れない感触が、伝わる。本当に人間の身体を斬ったのは、初めてのことだった。
黒い肌をした男は痛みに顔を歪め、右二の腕を押さえながら後退した。
「そうきたのか」
顔は苦痛にあえぐようなのに、発せられる声は完全に他人事という様子で、面白がるような色を伴った。
「だが、意図は?」
「脅しだ」
ファドックは答えた。
「ユークオール……と呼びかけるのは、どうしても馬鹿げている気がする。けれど、間違っていないと思うところもある」
「感性と理性を上手に整合する。なかなか大した子供だ。まだ頭がやわらかいというところか」
苦しげな顔が笑みらしきものを浮かべると、気味の悪い戯画のように見えた。
「いまのお前が面白いな。十年二十年経ってしまえば、同じ出来事に遭っても、お前は理性の方を重視するだろうから」
「僕の希望としては、いまでもそうしたいね」
少年は再度、サリアージに剣を向けた。
「脅迫と言った通り。ユークオール、次にはサリアージを殺す。『使者』がいなければ、お前は喋れないという訳だろう。ルキンと意志の疎通が図れなければ、面倒だろうな」
「成程。サリアージの媒介部分を人質にしたか。目のつけどころは褒めよう」
サリアージの口で、ユークオールは続けた。
「だがこれが死ねば」
裂けた服、裂けた肉から赤いものの流れ出している腕で、サリアージは自身を示した。
「次を用意するだけのこと」
「すぐに『用意』できるのか?」
「できるとも。お前が応じれば、すぐだ」
「答えは返したつもりだけれど」
「何、人間は簡単に心を翻すものだ」
サリアージがふらりと動いた。指の先から赤い滴がたれる。
「待て。斬るぞ」
こういう脅しは、それを怖れる相手に効くものだ。信じ難いながらも真実と思しきことを整理するなら、サリアージはユークオールの思うままに動いている。話をするのも、全てユークオールの意志。彼の言葉を口にするだけの、伝使。
それがいなくなれば困るだろうとユークオールへの脅迫にサリアージの安全を盾にしたが、かまわないと犬――の姿をしたもの――は言う。
何の脅しにも、ならないと。
「やるのであれば、やればいい」
のろりと、男は動く。
その様子は先ほどからと変わらない。決して早い動きではないが、圧倒的な力で思い通りのことを為している。
それは二撃目を受けても。
「これは痛みを感じる。だが動かすのは私だからな。手傷を負わせて動きをとめようという目論見であるならば、半端な真似はよすといい」
負傷している男の口から声が続く。
「お前がそうしてサリアージを使えなくしてしまうなら」
やはり人間の口から、犬――ではない何か――の声がする。
「早く、次が要るな」
ユークオールが動いた。ファドックははっとなるが、少年を獲物として飛びかかってきたのではなかった。
それは、消えた。
「な」
ファドックは目を疑った。
少年はこれまで、ちょっとした芸以上の魔術にお目にかかったことはなく、魔術師たちがどういったことを可能にするのか、ほとんど知らずにいた。「魔法でどこにでも跳んでいってしまうらしい」というような話を耳にしたことはあるが真偽は知らなかった。
だが、たとえ知っていたとしても、目の前で起きたことは信じ難かっただろう。
人間であれば「魔術師だったのか」と思うだけで済む。しかし、いくらただの犬ではない、「犬」でもない、そう思ったところで、その形状はどうしたって犬を思わせる生き物が魔法を使ったかもしれないと瞬時に考えることは彼には難しかった。
いや、ここに本物の魔術師がいたところで、同じように目を丸くしただろう。
それはあまりにも特異な出来事であった。
「――ぎゃあああ!」
悲鳴が、響き渡った。
(いまのは)
怯え、ファドックにすがりついてきた男の声であることは判った。
「た、助けて、やめろ、やめてくれ! 俺は死にたくな」
少年は走った。先の通路に駆け戻り、自分が閉ざしたときのままである扉を開けて――血の凍る思いを味わった。
耳をつんざく断末魔の悲鳴。扉を開けることなどせずに独房へ入り込んだユークオールは、ルキンの部屋でファドックにしたように男を組み伏せ、ファドックにはしなかったように、その喉を食い破っていた。
「は……離れろ!」
少年は叫んだ。声がかすれた。
「離れてどうする」
怪我をした男がゆっくりとついてきながら、言った。
「もう、死ぬ」
血の噴水が黒い犬の顔を濡らしていた。振り向いた犬は、口の回りの赤いものをぺろりとなめ取った。
倒された男の下には見る間に血溜まりができ、もはやその身体は、ぴくりとも動かなかった。
(足が……)
震える。生まれて初めて目前にした殺戮に。
恐怖なのか、怒りなのか、判らない。ただ、握り締めた短剣をぴたりと制止させていられない。
全身が震える。恐怖なのか、怒りなのか、それとも。
(必ず助けると)
(言ったのに)
怖ろしいまでの無力感。
救えると信じていた相手が、あっという間に絶命をした。
「何故……何故、こんなことを!」
「ひとつには」
背後から声がする。
「生かしておく価値など大してないということ。実験体が入り用なら、また誰でもつれてくればよい」
無感動にサリアージ、それともユークオールは言った。
「次には、お前の反応を見てみたかったということ」
「何、だと」
「お前にとって何の価値もない男に、助けてやると約束をした。その約束はどれほど強いかと」
ユークオールは男の死体から離れた。
「思った通り。つまらぬ約束にすら重きを置き、衝撃を受けたな」
お前は、とそれは続けた。
「契約に非常に縛られやすいな。よいことだ」
とてもよい、とサリアージの声でユークオールは笑った。
「さて、もうひとり、いたな。お前が約束をした相手が」
「や、やめろ!」
震える両手で剣をかまえた。剣先が定まらない。初めて剣を持ったときよりも、酷い。
(落ち着け……落ち着け!)
ファドックは必死で、自身に言い聞かせた。
(どんなときにも手段はある)
(ある。必ず)
剣は役に立たない。たとえ、繰り返された「魔法のような」何かで避けられることがなかったとしても、一撃で仕留めない限りは返り討ちに遭う。これまでのユークオールの言動を思えば殺されることはなさそうだが、そこを頼みにするのも脆弱だ。
(いや、それとも)
(そこは、隙か)
判断は瞬時になされねばならない。躊躇いは、唯一の好機を逃す。
(効かないものを後生大事に持っていても仕方がない)
ファドックは、短剣をその場に落とした。
いちかばちか。
決して賢い方法だとは思わない。
だが効果はあった。一度ならず、二度。
彼は大きく一歩を踏み出すと、思い切りユークオールのあごを蹴り上げた。全くの想定外だったか、それとも考えた通り、剣でなければ効くものか、犬はほぼまともにそれを食らった。
だがその辺りで見かけるような野良犬と違い、大きな身体を持っている。容易に蹴飛ばされるようなことはなく、よろめいただけに終わった。
少年はすかさず、二撃目を加える。両手を持っていれば足を取られたり払われたりすることもあろうが、犬の身体では難しかろう。
反撃の体勢を整えさせず、ファドックは攻撃を続けた。ユークオールの横並びになるよう場所を取ると、首筋に取り付いた。
もちろん、通常の体術とはだいぶ勝手が違う。四つんばいになっている人間ならば簡単に均衡を崩して押さえ込めるが、四つ足の生き物にとっては最も安定した姿勢だ。
それでも少年は挑戦した。ユークオールの後脚を払い、横倒しに床に叩きつける。そのまま上位を保って首を絞めようと試みた。
だが、運が悪かった、と言うのであろうか。
体重を掛けた足が、死んだ男の血溜まりに――滑った。
均衡が崩れる。ユークオールはファドックの腕から抜け出し、逆に少年を組み敷いた。
ぐるる、と物騒な唸り声がする。
今度こそはその赤い瞳に、怒りが宿っているようだった。




