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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第3話・最終話 始末 第1章

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09 気持ち悪ぃ奴だ

 あまり巧くはない。

 それは判っているが、「最上の方法」などと言えるものが存在するのかも判らなかった。

 少なくとも「その場で立ちすくむ」は最低の方法であり、「先手必勝」も――上等とは言えない。

 トルスが選んだのは、あからさまに怪しいことを承知で、踵を返して走り逃げることだった。

 もしもとても運がよければ、サリアージはちょっと驚くだけで、追いかけようとは考えないかもしれない。使用人を呼ぶとか、あとで町憲兵に話すとかはするとしても、この場でトルスを捕らえようとはしないかもしれない。あくまでも、運がよければだが。

 背後に足音が追ってくるか、そうでなくても「誰だ」だの「待て」だのと言った怒声が投げかけられるか、トルスは身を固くしながら走った。

 だがしかし、足音も声も、若者を追ってこなかった。

(んあ?)

 思い切り次の角を曲がって数歩を踏み出してから、トルスは足をとめた。

(……ものすごく運がよかった、てことか?)

 サリアージは叫びもしなければ、追ってきてもいないようだった。

 だが、運がよかったと胸をなで下ろすことはできない。

(んな馬鹿な)

 まず、若者はそう思った。

 自分で言うのもどうかとは思うが、自分は明らかに不審者である。それを目に留めておきながら、無視するだろうか?

(しないだろ、普通)

 助かるのだが、釈然としない。

 叫ばれれば〈尻を蹴られた(ケルク)のごとく〉逃げる。追いかけられ追いつかれれば殴り合いも辞さないと言おうか、おとなしく捕まる気がなければそうせざるを得ないと言おうか、そうしようという覚悟が決められる。

 だが、無反応とは、これいかに。

(ええと、それじゃ)

 トルスは考えた。

(あの野郎がこっちにきたってのは、焦った俺の恥ずかしい勘違いで)

(あいつは、反対側に行ったってことか?)

 サリアージはトルスがいることに気づかなかった、と考えるのが自然だ。

 しばらくしてから若者は、おそるおそる、自分が駆け曲がってきた角に戻ると、向こうをのぞき込んだ。黒い肌をしたあの男の姿は、ない。

「えーと」

 走る去る際にけっこうな足音を立てたと思うが、それでも気にかけられなかったということか? それはそれで非常にけっこうなことなのだが、やはりどこか、釈然としなかった。

(ええと)

 彼は考える。

(そんじゃ、俺はこの幸運だか何だか判らない事情に対してどうすればいいかと言うと)

(……やっぱ、ファドックを追う、だろうな)

 サリアージが鍵をかけていた様子はなかった。先ほどの通路に戻れば、扉の向こうに彼も入り込めるはずだ。

 だいぶ、迷った。どうすべきか。

(やっぱ)

(地下……かなあ)

 決めかねながらも、一歩を踏み出しかける。

 と――。

「うひゃあ!」

 トルスは素っ頓狂な悲鳴を上げた。文字通りに飛び上がって、振り返る。

 背後から彼の肩に手を置いたのは、サリアージだった。

「なっ、何だよ! おどかすな!」

 ではこの男は、通路の向こう側から回ってきたのか。だがそれにしても、ずいぶんとゆっくりしていたではないか?

 ともあれトルスは、反射的に戦闘態勢を取った。

「何だよ。やる気か?」

 向こうの態勢には特に攻撃的なものは見て取れず、彼の台詞はいささか空回りのようであったが、不審な侵入者を捕まえようという意図がないはずもない。

(こいつ、見かけに寄らず力があんだよな)

 彼の父親を軽々と抱え上げたことを思い出した。

(ちんぴらと殴り合うみたいには、いかねえかも)

 サリアージの腰には剣などないが、小さい刃物を隠し持っている可能性は十二分にある。そんなものを出されれば、きつい。

(でも、やるっきゃねえ)

 ここで「入り込んですみませんでした、ほんの出来心です」と謝ることも可能なのだが、その選択肢は彼の内に浮かばなかった。

 自分は悪くない――とは言わないが、後ろ暗さを天秤にかけたらトルスの侵入など羽根一枚くらいのもので、向こうは大型船の錨くらいに決まっている。軽くたって罪は罪だが、まだまし(・・)というものだ。

「おい。何だよ」

 サリアージがうんともすんとも言わないので、トルスは何だか不気味になった。

「何かねえのか。何しにきたとか、捕まえてやるとか」

 やはりサリアージは何も言わず、ただトルスの前に立ちはだかっていた。

「おい」

 トルスは戸惑ってしまう。こちとら反論や反撃の準備は済んでいるのに、無反応とは――これいかに。

「そっちからこねえんなら、こっちから行くぞ」

 と言っても、トルスはサリアージに殴りかかりはしなかった。

「例の薬だけどな。何だかやばいもんみたいじゃねえか。俺ぁ要らねえぞ」

 まず、そう言った。

「それから、さっきの扉。ありゃ何だよ。いたいけな少年に、何させようってんだ」

 ファドックがいたいけとは思わないのだが、これは言葉のあやというものだ。

「あいつぁ、ちょっとばかり脅されたっててめえらの言うことなんざほいほい聞かないだろうけどな、何だか様子がおかしかった。この下には」

 ばん、と足を踏みならした。

「何があるんだ?」

 サリアージは何も答えなかった。その代わり、黒い腕をすっと伸ばした。

「お、ようやくやる気になったかよっ」

 トルスは一歩を引き、改めてかまえを取った。しかしサリアージは、あまり「やる気になった」という感じでもない。彼を取り押さえようと言うより、まるで棚の上に置いてある置物をただ取ろうとするかのように、無造作に腕を伸ばしてきただけだ。

(何だ、こいつ)

(気味悪ぃ)

 〈青燕〉亭の裏で語っていたときと、雰囲気が違う。トルスはサリアージの腕を避け、ひと息に相手の懐まで潜り込んだ。

 先手必勝。改めて、それを選んだのである。

(ここまでやったら無断侵入を通り越して)

(もしかしたら、強盗扱いか?)

 留置場、それとも強制労働所のことが頭をかすめたが、ここまできたらもう拳の勢いがとまらない。上手く逃げられますように、と祈りながらトルスは、思い切りサリアージの腹に右手をめり込ませた。

 否、そのつもりだった。

 彼の全力の一撃は、しかしサリアージの左手に阻まれていた。

 男は表情を見せぬまま、トルスの右手首を掴んでいた。

「な、は、放せっ」

 そう言って素直に放してくれるはずもないだろうが、こういうことは反射的に口から出てしまうものだ。もちろんサリアージはその手首を解放せず、ちっとも力など入れていない風情で、トルスの動きをとめてしまった。振り払おうとしても、ぴくりともしない。

(何だ、こいつ)

 若者の全身を戦慄が走る。

(普通じゃねえ)

 大人がちょっと意地悪をして幼子の手を押さえつけてしまうがごとく、サリアージはトルスの抵抗をものともしなかった。

「くそっ」

 彼は口汚く罵って、左手でサリアージのあごを狙った。だが次には男の右手が、やはり簡単にそれを封じた。

(何なんだよ!?)

 有り得ない。いくら訓練などしていなくたって、トルスの腕力はなかなかのものなのだ。全力を出し合って拮抗するというのならまだしも、どうして向こうは全く涼しい顔をしている?

 だが、有り得なかろうと、現実に起きていることだ。有り得ないとわめいたって何にもならない。

 トルスは掴まれた腕をそのままに、次の手段を講じた。右足を思い切り、相手の股間めがけて蹴り上げようとしたのだ。

 だがそれまた、為されなかった。サリアージはやはり無造作に両手を上げ、トルスがその半分の重さもないかのように、持ち上げてしまったからだ。

「ななな」

 トルスは焦った。

「何なんだお前は! 化けもんか!」

 ここでそうだと言われようと違うと言われようと、何の解決にもならない。

「やめろ。放せ。痛えだろ!」

 そう言って放してもらえるはずもないと、先と同じことを考えたトルスは、意外なことをされる。

 サリアージは彼を放した。

 但し、その場に解放したのではない。少しだけ腕を曲げると、まるで玉を放るように、投げた。

 どすんと音がして、トルスは息が詰まる思いを味わう。どうにか頭はかばったものの、背中を酷く打ちつけた。

 解放された両手首も真っ赤になっている。じんじんと痛んで、指先の感覚が鈍い。

「くそっ、痛えじゃねえか!」

 とりあえず、何の意味もない抗議をする。しかしそれでも、若者を数ラクト近くも放り投げた男は、何も言わないままだった。

(何がしたいんだ、こんちくしょう)

(怪力なのは判ったよ、力比べじゃ敵いそうにねえ)

(でもよ、何かあるだろ、普通)

(何をしてるとか、出て行けだとか、捕まえてやるとか、殺してやるでも何でもいいからよ!)

 どうして、何も言わないのか。この沈黙は、サリアージの不気味さをいや増していた。

(くそ、どうしろってんだよ)

 顔を見られた。逃げるのはまずい。いや、どうしたって、まずい。無断侵入をし、なおかつ先に殴りかかったのは、トルスなのだ。

 ゆっくりと、サリアージが近寄ってくる。

 とても不気味だ。

 まるで、幽霊のよう。

(悔しいけど、敵わねえ)

 素早く立ち上がり、若者は歯がみした。

(それなら、逃げるっきゃねえけど)

 どこに逃げるのか。町憲兵隊か。しかし、現状ではトルスの方が犯罪者だ。もしもサリアージとルキンが彼を町憲兵に訴え出ようと考えれば、彼の素性は知られている。

(あれだ)

(唯一可能な言い訳がある)

 若者は考えた。

(友人がおかしなことに巻き込まれていると思って無茶をした)

(それだ)

 だからと言って許されるとは思えないが、強盗目的と思われるよりはいい。彼は目まぐるしく、考えを進めた。

(実際、あいつがおかしな事情に入り込んでることは間違いない)

(逃げるより先に、それの)

(証明っと)

 ばっと踵を返した。目指すは、先の地下扉だ。

 少なくともファドックには、ルキンの企みを暴く目論見があるはず。

(どういう流れなのかはともかく、あいつはいま、困ってるだろう)

(助けてやろうってんじゃねえぞ。俺のこれは)

 トルスは走った。

(あの野郎が泣き喚くところを見てみたい、と思ってるからだ)

 それに、と彼は考える。

(協力してやってルキンが捕まるようなことになりゃ、俺も助かる訳だし)

(そうさ。心配してる訳じゃねえ)

 駆け戻れば、件の通路にはすぐたどり着いた。

 ぱっと後ろを振り返る。

 いったい何を思うのか、サリアージは追いかけてきていない。いや、先ほど程度の速度で、のんびりゆったりと歩いてきているのか?

(そりゃ、そうしてくれるんなら助かるけど)

(――気持ち悪ぃ奴だ)

 彼は厄除けの印を切って、それから問題の扉に手をかけた。


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