08 犬が
彼はもう一度後ろを振り向き、ユークオールが留まったままでいるのを確認すると、ぱたんと扉を閉めた。
「大丈夫。犬は入ってきません」
「お助けを……お助けを」
「大丈夫。落ち着いてください」
少年は繰り返すしかなかった。
(いったい)
(どういうことなんだ)
この男はユークオールを酷く怖れている。殺されると思っている。確かに、あの大きな犬が人間を殺そうとすれば、容易であるだろう。彼自身、もし先ほどルキンがそう命令していたら、生きていられなかったに違いない。
だが、ルキンはファドックを殺さなかった。そうする理由がなかった。
一方でこの男には、そうされる理由があるとでも?
(それに)
(ユークオール様、ときた)
そこにどんな事情があるのであっても、命じるのはアヴ=ルキンか、或いはサリアージであるだろうに。
「ここで何を? どうして、閉じ込められるようなことに?」
「おたす、お助け……」
男は震えるばかりで、ファドックの問いかけが耳に届いているものかも判らなかった。
(正気を失っている?)
(証人にはならないと安心して、僕に見せた?)
(だが)
(僕が証人になれば、意味がない)
やはり、判らなかった。
「大丈夫です」
彼は三度言った。
「僕も、ユークオールもあなたを殺しにきたんじゃない。それどころか」
男の脇にひざまずいて、少年は続けた。
「ここから出します。安心してください」
「たす……た、助けてくれるのか、俺を」
「ええ」
仮にこの男が気狂いであるとしても、こんなところではなく正しい施設に託すべきだ。或いは、仮に凶悪犯罪者であるとしても――捕らえるのは町憲兵の仕事。アヴ=ルキンではない。
「町憲兵を呼びます」
当然、ファドックはそのことを考えた。彼がそうしようと思うこと、ルキンが気づかぬはずもない。なのに何故?
(僕も一緒に閉じ込めてしまおうとでも言うのだろうか)
(いや……やはりそれだって意味がない)
見せたくなければ最初から見せなければいいのだし、もしも殺してしまおうとでも考えていたなら、その機会は既にあった。
「町憲、兵」
男はもつれた口調で、聞いたことのない言葉でも繰り返すように呟いた。
「だ、駄目だ」
「駄目ですって?」
「そう、駄目だ。町憲兵、なんて、何の役にも」
「立ちますよ。助けてくれます。心配しないで」
この男を連れていくか。いや、それは難しいだろう。自分がひとりで脱け出して、素早く町憲兵隊に出向く?
黙ってそんな真似を許してもらえるとも思えない。だが無論、見なかったことになどできない。
「ほかにも閉じ込められている人がいますね」
使用人が持っていた盆を思い出せば、ひとり分の食事という感じはしない。それに、扉――独房はまだいくつもある。
「い、いまはもうひとり。ほ、ほかのは、死んだ」
上ずった声で男は答えた。
「死んだ」
ファドックは繰り返し、眉をひそめた。
どうして、死んだのか。
想像ならばいくらでもできる。だが、いまはそのときではない。
「もうひとり、いるんですね。様子を」
見てきますと言い終えぬ内に、男がわめいた。
「み、見捨てるのか! 行かないでくれ、助けてくれ!」
「見捨てません。大丈夫」
彼はそう言ったが、男はその脚にすがりつくようにした。
「行かないでくれ、行かないでくれ」
男の声にすすり泣きのような音が混ざった。
「死にたくない、死にたくないんだ」
「大丈夫です」
繰り返すしかない。
「ほかの人の様子を見てくるだけ。あなたを見捨てたりしません。扉は開けておきますし」
「だ、駄目だ、犬が!」
「判りました。閉めますが、鍵はもちろんかけません。あなたがその足で出て行けるように」
「足」
男は少年を見上げ、泣き笑いのような顔を見せた。
「駄目だ、足なんか。歩けない」
「そんなこと。ほら、立って」
ファドックは手を出した。男は彼の脚を放したが、力なく首を振る。
「駄目なんだ。もう、這うしかできない。最初に」
そこで男は言葉を切った。
「……最初に?」
促すようにすると、男は生唾を飲み込んだ。
「き、斬られた」
その言葉に驚いて男の足を見るが、切り落とされたというような意味ではないようだった。
「も、もう歩けないと言われた。逃げ出すことはできないと。死ぬまで、ここにいるんだと。用がなくなれば、殺されると」
男はまた、震えだした。ファドックは落ち着かせるようにその肩を叩いてから、靴をはいていない男の足首を取って――理解した。
薄闇にもはっきりと判る傷跡。
(腱を……切ったのか)
罪人にだってこんなことはしない。
「ルキンですね」
念のために確認をした。総合的な技術を持つ医者だ。的確に切り、死なない程度の処置をする、そういったことも可能だろう。
その名に、男はびくりと身を震わせた。
「ち、違う。違う違う、違う」
その怯え方は、そうだと言っているのと同じだった。
「判りました、いまは訊きません」
ここで追及し、認めさせても仕方がない。それは町憲兵の役目だ。
「とにかく、必ず助けます。安心してください」
そう言うと少年は、いくらか気の毒には思ったが、今度はしがみつかれないように素早く離れた。男は絶望的な顔をする。
「助けてくれ」
「助けます」
大丈夫、と繰り返し繰り返して、ファドックは「牢」の外に出た。ユークオールが、じっと座って待っていた。
(これが)
(僕の知らない世界?)
(確かに、知らないな)
嫌悪感が全身を満たす。
いったい何のために。いや、何のためであろうと。
(このようなことが許されるはずはない)
(だが何故)
(僕に知らせる)
(いや)
(それも――あとだ)
まずは閉じ込められている「もうひとり」を確認すること。鍵を開け、いまの男の様子を考えれば困難そうだが、助けるからと安心させる。それから。
(この地下には)
(まだほかにも、あるのかもしれない)
もっと秘密が。
手足から血の気が引いた。悪夢のなかにいるような気分だ。
しかし、夢ではない。間違いなく、これは現実。
(ほかにも見せたいものがあるなら)
(見てやるとも)
少年はきゅっと唇を噛みしめ、次の部屋をのぞいた。




