03 どさくさに紛れて
正直、突然の騒ぎには呆気に取られた。
チェンの「仕事」は確かに後ろ暗いところなどなさそうだった。中心街区に住む一家の若夫婦が余所の街に居を移すとかで、その引っ越し荷物を港へ運ぶ手伝いというだけだ。予定していたよりも荷物が増えて、運び手も急遽増やしたのだとかその程度の話で、別に怪しいところはない。
そのため、トルスは安堵を覚えていたのだ。
だがそれは油断、と言うのか。
突然の出来事は、人が警戒しているときには決して訪れず、思いもしていないときにばかり、強襲してくる。
がちゃん、と裏道に響き渡った音が、何かの割れた音であることはすぐに判った。一瞬、チェンが粗忽にも箱を落としたのかと思ったが、そんなに近い場所で聞こえたのではなかった。
「何だ、いまの?」
夜の路地裏なら酔っ払いの喧嘩かとでも思うが、昼日中の、中心街区だ。チェンも驚いたと見え、きょろきょろと周囲を見回している。
だがそれほど探すまでもなく、どの屋敷で騒ぎが起きたのかは、すぐに知れた。
と言うのも、男が大声で喚いているのが続いて聞こえてきたからだ。
「よくも! 返せ、俺の妻を返せ!」
思わずトルスはチェンと顔を見合わせた。
不倫の果てに女が夫を捨て、夫が浮気相手のところに逆襲にでもきたのか――と思ったのである。
「見に行こうぜ」
同じようなことを考えたか、にやりと不良は言った。
「野次馬根性だな」
「興味、ないのかよ」
「ちょっとは、ある」
トルスはつい同意して、チェンが嬉々として進むのについていった。それはわずかに数軒先で起きていた出来事であり、彼らは容易に、野次馬となることができた。
「やめ、やめてください!」
「うるさい、使用人になんか用はない。あいつを出せ、ルキンだ!」
「――ルキン?」
トルスは思わず、口を開ける。
「そいじゃここ、あの先生んちか?」
「ああ、そう言やこの辺だって聞いたこと、あるぜ」
答えるとチェンはますますにやにや笑いを大きくした。
「やるもんだなあ、ルキンさん。女、寝取ったのか」
「いや、待てよ」
返しながらトルスは顔をしかめた。
「そういう感じじゃ……ないぞ」
裏門から押し入ったと見える男の形相は、柵の外からのぞいている彼らからは見えない。だが、遠目からも判るほどその身なりは薄汚く――この男の妻がたとえどんな美女であれ、あの立派な格好の医者が目をつけそうな気はしなかった。
「ルキンが! ルキンが、決まり通りに妻を診ていたら、あいつは死なずに済んだ! 金のある相手を優先して俺のフィレーネを後回しにしたせいで!」
成程。だいたい事情は、飲み込めた。
「逆恨みかあ」
何だ、とチェンは興味をなくしたようだった。
「ルキンさんも気の毒だな。順番がどうだったかは知らんけどよ、別にえらい先生が診たからって死なないってもんでもないだろうに」
「まあ……そうかもな」
トルスは曖昧に返した。
逆恨み。そうなのだろうか。いや、事情は判らない。ただ、金を積んでくる相手だけを患者――客とし、貧乏人は無視というような所行は、アヴ=ルキンという男にぴったり合うようでもあった。
(本当に)
(診たのかな)
ファドックの言葉。
(犯罪に関わってる可能性がある)
ヴァンタンの言葉。
(これは俺の仕事だ)
いつになく真剣に響いた、ビウェルの――。
「町憲兵さん、あそこです!」
そんな声にはっとして振り返れば、どうやら騒ぎに「善良なる市民」が町憲兵を呼んだのだと判った。やってきたえんじ色の制服は、幸いにしてと言うのか残念なことにと言うのか、知った顔ではない。
「やべ、行こうぜ、トルス」
「何もやばくないだろ」
彼はもっともな答えを返した。
「お前は、町憲兵に見られたくないなら行けよ。ほら、ついでだ」
トルスは抱えていた箱を無理矢理チェンの持つ箱の上に載せた。
「これもやる」
「お、おい、何すんだよ」
急に嵩と重さを二倍にされて、不良は悲鳴を上げた。
「見たことを町憲兵さんに話す。こりゃ、市民の務めだね。俺は残るよ」
「この野郎、善人面しやがって」
「阿呆。俺はお前と違って善人に決まってるだろ」
言うとトルスは、ここです町憲兵さん――と手を上げた。チェンは舌打ちして、さっきの前金は返せよと言い捨てると、よたよたとその場をあとにした。
少し気の毒だが、いや、大して気の毒でもない。チェンの方から気前よくトルスに払ってきたことを考えると、向こうは絶対、話よりも多い金額を手にしているはずなのだ。そしてトルスに金を返させるのならば、チェンはそれだけの仕事をするべきだ。
もしそれでも文句を言ってくるようなら、違約金くらいは払ってもいい。昼飯を一回分ただにしてやるとか、その程度だが。
トルスはそれ以上、あまりこれ以上は友情を育みたくない友人を見送ることはせず、小走りに寄ってくる町憲兵を待ちながら、柵の向こうを伺った。男はほかにも現れた若い使用人と押し問答をし、いくらか暴力沙汰になりかけているところである。
(気の毒に)
と、彼は思った。
(本当にルキンのせいだったとしても、これじゃあのおっさんのが、悪者)
「何だ、どうした」
「ほら、あれ」
たどり着いた町憲兵にトルスは現場を指し示し、どさくさに紛れて裏門を開ける。
「おい、こら、何をしてる。やめろ」
事情はどうあれ、使用人に掴みかかっていまにも殴らんばかりにしている男が問題であることは説明しなくても明らかだ。ふたり組の町憲兵はずかずかとルキン邸の裏門を越え――これまたどさくさに紛れて、トルスも、越えた。
邸内からは幾人も使用人が出てきて、突発事態に心配そうな顔をしている。町憲兵の姿にも男は怯むことなく、妻はここの医者に殺されたんだ、と物騒な主張をはじめた。
人々の注目はそこに集まっている。
(これは)
(好機かな)
不意にそんなことが思い浮かぶ。
ルキンの館に入り込んでどうこう、という具体的な目的はトルスにはない。
だが、ファドック。ヴァンタン。ビウェル。
どんな罪状であれ、彼らがみな、アヴ=ルキンを黒だと考えていることは判っている。
トルスには、そう思う理由がない。薬を無料で渡してきたりすることに対して「何て素晴らしい人なんだ」と思うほどお人好しでもなく、正直なところを言えば「おかしな医者だ」とは思うが、それだけだ。
ただ、すっきりしないことばかり。判らないことだらけだ。
その答えは、この館のなかにあるのではないのか。
いったい「答え」がどんな形をしているものか、それは彼には判らない。ファドックのように何らかの証拠書類とも、ビウェルのように死んだ船長とのつながりとも、情報のない彼に考えられるはずがなかった。
ただ、思った。何かが、あるかもしれないと。
若者は、暴れ出した男と取り押さえようとする町憲兵の捕り物に、悲鳴だか歓声だかよく判らない声を上げる使用人たちの脇をすり抜けて――そのまま裏口をくぐり抜けた。




