04 怪しいね
宣言通りにロディスは現場復帰し、まだまだお前にゃ任せられんと主料理人の座を息子から奪い返した。
ジルセンも約束通り手伝いにきてくれたが、父子が厨房に立っているのを見ると、客人の位置に回った。シェレッタを通してトルスに、もしロディスが調子をおかしくするようだったらすぐに自分が代わるからと伝言がやってきた。飯を食ったあともずっと待機していてくれるつもりらしい。
どこだかの「閣下」の副料理長は、面白いからそれでいいんだと繰り返し、報酬不要であることを主張した。
何とも有難い話である。ジルセンは、ここの父子に何の義理もないのに。
いつか返せるといい、とトルスは思った。ジルセンに、金とは違う形で。或いはシェレッタの言ったように、いつか誰かに、同じ形で。
「よう、頑張ってるな」
ひと心地がついた頃、ひょいと顔を覗かせた姿があった。
「あんた、ええと」
トルスは思い出そうとわずかに間を置いた。
「確か、ヴァンタン」
「その通り」
エルファラス商会の配達人は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「今日は、ナティカは?」
ヴァンタンはそれを尋ねてきた。
「きてねえと思う。たぶん」
ずっと厨房にいたから確実なことは言えないが、きたら彼にひと声くらいかけていくだろうと思った。
「何だよ。あんた、やっぱりナティカのこと追っかけてんのか」
「違う違う」
ヴァンタンは慌てたように手を振った。
「俺は彼女の恋路を応援する立場だよ」
「ん? 町憲兵のこと知ってんのか?」
「一応ね」
「んじゃ、もしかして、サリーズ氏に恋人はいないとかナティカに教えたのは」
「そう」
俺、とヴァンタンは挙手をした。
「まあ、それならナティカを変な目で見てるんじゃないということは納得してやってもいいが」
じろじろとトルスは相手を見た。
「それなら、今日は何の用だよ」
「いや、ちょっとね」
ヴァンタンは肩をすくめた。トルスは続きを待ったが、ヴァンタンの説明はそれで終わりのようだった。
「答えになってねえぞ」
「大したことじゃないんだよ」
「なら言えよ」
もっともなことを告げれば、そうだなとヴァンタンは笑った。
「この前、俺が店で会議がどうのと話したのを覚えてるか?」
「ああ……何となく」
店で会議が開かれてナティカが早く帰されたのどうの、という話をしたように思う。そう言えば、ヴァンタンはそうだとうなずいた。
「いったいどういう内容だったのか聞こうと思ってたんだが、俺らのような下っ端連中のなかで呼ばれたふたりは、この二日、揃って欠勤してる」
「はあ」
「自宅にも帰ってないようなんだな。どうにも奇妙な話だと思わないか?」
「さあな」
よく判らなくて、トルスは正直に答えた。
「さぼりを決め込んだだけなんじゃねえの?」
「かもな。ただ、その会議の夜、ナティカがその片割れを見かけてたらしいんだ。何か変わったことがなかったか、訊いてみたいと思って」
「ふうん」
奇妙な話とヴァンタンは言うが、トルスの方では、そんなことを気にするなんて奇妙な奴だと思った。
「ん? 待てよ」
しかしそこで、彼は気づいた。
「その夜……ってえと、あれだな」
ファドックと再会し、チェンたちとやり合った夜。確かあのとき、ナティカは同僚の姿を見てどうとか――。
「……ルキンといた、って奴のことかな」
「何?」
ヴァンタンは、トルスの小さな呟きを聞き取った。
「ルキン? アヴ=ルキンのことか?」
「何だ、有名人なんだな、あいつ」
「そりゃもう、一部の人間からはとてつもなく熱い視線を受けてるところだ」
気軽なふうを装って、ヴァンタンは言った。
「しかし……カートがルキンと?」
そのあとで、青年は両腕を組んだ。
「どういうことだ。何か関係があるのか……」
「関係って何だよ」
「いや」
何でもない、とヴァンタンは手を振った。
「話を聞かせてもらった礼にまた小遣いでもやりたいところだが、生憎と余裕がなくてね。今度また食いにくるから、それで許してくれ」
「別に要らねえよ、小遣いなんざ。もちろん、客としてくんなら歓迎すっけど」
トルスはそう応じた。助かる、とヴァンタンは笑ったが、突然、顔からその笑みを消した。
「おい、トルス」
急に青年の声が低くなって、若者は目をしばたたく。
「何だよ」
「お前」
ぱっとその手が伸びたかと思うと、彼の視界の端にあったものをひっ掴んだ。調理の忙しさに紛れて、存在を忘れかけていたもの。
「こんなものに手を出すのは、やめろ!」
「……はあ?」
トルスは思い切り、顔をしかめた。
「あんた、何言ってんの」
「何って、おま」
ヴァンタンは少し口を開けたが、意識してそれを閉ざすと、厳しい顔を見せた。
「何度か、見たぞ。取り上げたこともある。ヘルサレイオスだな」
「はあ?」
聞いたことのない言葉に、トルスはまた言った。
「誰だよ、それ」
「人の名前じゃない。……じゃ、知らないのか」
「知らねえよ、んなもん。それは……」
それは「何」なのか?
トルスも知らなかった。
「ええと、ヘル、何?」
「ヘルサレイオス。享楽的な連中に出回りだしてる、キメられるクスリってやつだ」
「嘘だろ」
「嘘ならいいと思うね」
ヴァンタンは息を吐いた。
「下町の貧乏なガキですらそんなものが簡単に手に入れられるなんざ。どこにもいいところのない話だ」
「あー、まあ、そうかもしれねえけど」
トルスは唇を歪めた。
「俺が言うのはさ。これは、そんなもんじゃないはず――」
はず?
トルスは思わず、言葉をとめてしまった。
これが「何」なのか。彼は知らないのだ。
サリアージは父の病を治す薬と言い、シェレッタは臭い消しの薬剤と言い――これは間違いであるようだが――、ヴァンタンはやばいクスリであると言う。
若者の頭は混乱しそうだった。
「勘違いじゃねえの」
まず、そう言ってみる。
「瓶の形が似てるだけとかさ」
シェレッタの誤解はそのためだったようだ。それを思い出してトルスが言えば、ヴァンタンは慎重に瓶とその中身を眺めた。
「同じに見えるね」
「臭いは? それ、別に悪臭とかしねえぞ」
「ヘルサレイオスの臭いは知らないがな、酷い臭いでもするんなら、そうそう出回らないだろうとは思う」
「まあ、そうかもな」
トルスは認めた。シェレッタの言うような刺激臭に耐えてまで飲むのは、忍耐が要りそうだ。快楽を求める馬鹿な連中には、そういうものはなさそうな気がする。
「どういうものか知らないで持ってるのか? どこで手に入れたんだ」
「……親父の薬だって、医者の助手が持ってきた」
「医者?」
まさか、とヴァンタンは顔をしかめる。
「――アヴ=ルキン?」
「当たり」
「まじか!」
ヴァンタンは大声を出し、一瞬、店内の注目を集めた。
「何だよ、そんなに変なことか」
「変? いや、変じゃない。そりゃいい。最高だ」
「何が」
「助手ってのは確かか?」
「正確には助手かどうか知らねえけどよ、少なくともあの先生と一緒にいた男だってことは間違いないね」
「そうか、よし。当人であれば言うことなしだが、それでも充分――」
「ああ、ファドックは当人から受け取ったぜ」
「誰だって?」
「あー、まあ、友だち」
たぶん友人ということでいいんだろう、とトルスは思った。
どういう流れだと問うヴァンタンにざっと話をすると、青年は目を輝かせた。
「そっちのが最高だな。そいつはどこに住んでるんだ」
「ファドック? 知らねえ」
「知らないのか。それじゃ、連絡は取れるか」
「取れねえ」
昨夜、閉店前に〈青燕〉に戻ってきたファドックは、そのままジルセンと帰ったが、どこへ帰ったものかは相変わらず判らない。
「あ、でもあいつなら取れる。ジルセン!」
声を張り上げれば、助っ人料理人は立ち上がってやってくる。
「どうした。代わるか」
「いや、こいつがファドックと話したいって言うから」
「何でまた」
ジルセンはもっともな質問をした。ヴァンタンは少し考えてから、答える。
「犯罪に関わってる可能性がある」
「おい」
料理人は顔をしかめた。
「冗談はほどほどにしときな。あいつが何かまずいことやらかすなんざ、天地がひっくり返っても有り得ないね」
「そうじゃない、彼が何かしたとは言ってる訳じゃない」
誤解だとヴァンタンは手を振る。
「とある犯罪の……厳密なことを言えば違法行為とは言えないから、犯罪すれすれの、とでも言うべきなのかもしらんが」
首を振って青年は続けた。
「とにかく、やばい話の証人になってもらえそうなんだ」
「証人、ねえ」
ジルセンは胡乱そうにヴァンタンを見た。
「そんなふうに言うお前は、何なんだよ。町憲兵にゃ見えないが」
「町憲兵の旦那方の手伝いをしてる……なんてのは、怪しいかな?」
「怪しいね」
きっぱりとジルセンは即答した。彼の立場としては、もっともな回答と言えよう。
「それじゃ連絡は、取ってもらえないのか」
眉をひそめてヴァンタンが尋ねれば、しかしジルセンは首を振った。
「話はしてもいい。決めるのはあいつだからな」
料理人はそう答え、ヴァンタンはほっと息を吐く。
「まあ、それじゃ疑われないように、言っとく。明日の、できれば朝いちばん、それが無理ならとにかくなるべく早く、町憲兵隊の詰め所に行ってほしいんだ。トルーディって旦那がいるから、そいつに――」
「何だ、ビウェルかよ」
思わずトルスは吐き捨てるように言った。
「あいつに関わったら、無実の人間だって犯罪者にされかねないけどな」
「何」
「おいおい、トルス。そりゃ旦那を誤解して」
「そんな酷い町憲兵なら、あいつと話させる訳にはいかない」
「まあまあ」
と仲裁するように言ったのは、ビウェルを貶めたトルスであった。よってジルセンは目をしばたたく。ヴァンタンも同様だ。
「俺が、同席するよ。ビウェルの好きにはさせないから」
連絡よろしく、とファドックの友人は言った。




