03 馬鹿げた考え
高めの丸椅子に腰かけ、両腕を長卓の上に重ね、その上に頭をもたれさせている姿は、一見したところ、疲れてうたた寝をしているようにでも見えたことだろう。
だが、トルスの褐色の瞳は、はっきりと開いていた。
その視線はじいっと、同じ卓の上に置いた透明な瓶に注がれている。
(果たして)
(どうしたもんか)
何の薬か判るまで、父に飲ませるべきではないという思いもある。
だが普通、医者や薬師から与えられる薬は、その言葉を信じて服用するものだ。それに疑いを持っていたら、薬などいっさい口にできないか、或いは常に自分で作るしかなくなるではないか。
ルキンの言動は不自然ですっきりしない。
だが、高名な医者だ。
(クォルサー先生に相談……)
(いや、それはファドックがやってるのと同じことだ)
少年がその場にいれば、複数の医師から意見を聞くのも悪くないと言っただろう。確実に信頼できる当てがあれば、ファドックも三本の瓶を異なる医者に預けたかもしれないからだ。だがトルスは、同じことをやっても意味がないだろうと思った。
「うううん」
若者は顔を上げると、頭をかきむしった。
何となく、瓶を手にして軽く振ってみる。液体はゆっくりと回り、少しとろみがついているようだと判った。
トルスはそれを左手に移し替えると、右手を栓にかけた。少し力を入れれば、ぽんと軽い音を立てて栓が外れる。
「変な臭いは……しないな」
くん、と鼻を利かせてそう呟いた。かすかに甘いような匂いがするが、悪臭という感じではない。子供の頃、熱を出したときに飲まされた薬湯は、こんなものを飲むくらいなら一生このまま苦しくてもいいと思ったくらい酷い臭いがしたものだが、これはそんなことはない。
そこでトルスは、またうなった。
(ちっと……俺が飲んでみようかな)
ふとそんなことを思いつく。
それは全くもって、馬鹿げた考えである。
万一に何か悪いものであれば、言うまでもない。
まさか致死性の高い毒物というようなこともないだろうが、仮にそのようなことがあったとしても、少し飲んですぐ死ぬようなものでない限り、この場で判明することではない。だいたい、自分が死んだら判明も何もない。
致死とまではいかず、気分の悪くなるような程度であっても、少量では何も起こらないとか、遅効性だとかいう可能性もある。
逆に、きちんとした薬であった場合。
彼の理解では「健康体が薬を飲んだからって悪いことにはならないだろう」という辺りだが、そんなことはない。痛みを抑える薬は、痛みを消す訳ではなく、鈍く感じさせる作用を持つ。トルスはまだ知らないものの、それこそ、この薬に容疑がかかっているヘルサレイオスや、強いものでは幻惑草の作用の柱だ。
鎮痛の必要がなければ、その代わりに訪れるのは、夢を見ているようなぼんやりとした感覚、理由のない高揚感。体調や体質によっては、非現実的な悪夢のなかにいる気持ちになって狂ったように大暴れすることだってある。
もっと判りやすい事例もある。便秘には下剤が効くが、毎日快便の人間が下剤を飲んだらそのまま腹を下すだけだ、というような。
と、クォルサーでもその場にいればそんな説明をしただろうが、生憎と医師はおらず、若者はひとりだけだった。
トルスは再び瓶を振り、三度うなって、また中身のにおいを嗅いだ。
「おかしな臭いは、しない」
それは何の理由にも根拠にもならないのだが、よし、と若者はうなずいた。
おそるおそる瓶の口を唇に当て、ぎゅっと瞳を閉じて、トルスは謎の液体を試しに飲んでみようと――。
「ちょっとあんた、何やってんの!」
したところで、声がかかった。
つかつかと歩み寄ってきたのは、シェレッタだった。
「あ、悪い、まだ仕込みやってな」
「そんなこと言ってるんじゃないよ。あんた、何考えてんの」
「は?」
瓶を手にしたまま、トルスはぽかんと口を開けた。
「それはね、飲むもんじゃないよ。何と間違えた訳?」
「は?」
彼は更に口を開ける。
「いや、間違えたとかってんじゃなくて」
トルスは首をひねった。
「飲むもんじゃ、ないって?」
「当たり前だろう。薬だもの」
「は?」
またも、トルスは聞き返す。
「薬なら、飲むもんじゃないか?」
「馬鹿だね、この子は。私はお医者様の薬の話をしてるんじゃないよ。薬剤とでも言うのかな? 暑いときに生ゴミなんかに混ぜて、悪い臭いを消す薬」
「……何だって?」
「けっこうな刺激臭がするはずだけど。よく飲もうと思ったね」
「あ、いや」
そこで彼は、シェレッタが何か誤解をしていると気づいた。
「そっちこそ、何かと間違えてるぜ。これは、きつい臭いなんかしないし」
ほら、と瓶を差し出すと、シェレッタは胡乱そうな顔をして慎重に嗅いだが――おや、と言うように瞬きをした。
「な?」
「臭わないね」
女は瓶の中身をじっと見る。
「おや。色も違うみたいだ。どうやら私の勘違い。瓶の形は同じだけど、これはニーファンヤじゃないね」
「隠れんぼ?」
「そういう、商品の名前なのさ」
「聞いたことないけど」
「金持ち用だもの。私らなら、それを買うくらいだったら、まめに焼き場に持ってくと思うね」
「へえ」
さもありなん、という気がしたが、次の瞬間には気になることが浮かぶ。
「何でシェレッタがそんなもんのこと、知ってんの」
「この前、クーディン親父の薬屋に入ってきたのさ。もっとも、それは間違いでね。そんなことに金を払える連中を客にしてる、中心街区の店への納品だったのさ。あんなものをうちで頼むはずはないんだから、当然なんだけど」
親切にも運んでやったよ、とシェレッタは言った。
「ん?」
トルスはそこで、首をまたひねる。
「うちって?」
「ああ、〈青燕〉には旬に二日だけだろ。私はクーディンの薬屋で三日ばかり働いてるんだ」
ついでに、とシェレッタは肩をすくめた。
「港の方の酒場で二日勤めて、あと三日は旅籠のお掃除おばさんをやってるんだよ」
「えっ、まじ!?」
知らなかった。
「四軒かけ持ち? それも、休みなしかよ!」
「掃除は二日のこともあるから、そのときは休みだね」
「いや、でも、何でそんなに働いてんだ? 旦那は?」
シェレッタの手には、指輪がはまっている。それは単なる装飾品であり、必ずしも既婚を表すものではなかったが、常に同じものを身につけているというのはそのしるしであると考えられた。
主には左手にはめるが、それは利き手につけていると不具合もあるからというだけの理由で、左利きの者であれば右にはめていることもある。
第三指か第四指に見られることが多いが、これまた決まりはなく、第二指や第五指を使う者もいる。神殿で式を挙げると、左手の第四指にはめるよう指導されると聞いたこともある。
ともあれ、シェレッタの左手の第三指には、いつも同じ指輪がはまっていた。
「んー? そろそろ三年かね。ラ・ムール河に行ってるよ」
それは冥界を流れるとされる大河の名前だった。トルスは驚き、追悼の仕草をする。シェレッタは返礼した。
「息子と娘はいるけど、成人してからふらっと出てってそれっきり。この街にいるのかいないのかすら、判らない。まあ、何も子供に食べさせてもらおうと思って育てた訳じゃないし、好きにやっていいと思うけどね」
ひらひらと女は手を振った。
「とにかく自分の分は稼がなきゃならないし、幸いにして健康体だ。身体を動かすことは嫌いじゃなし、日々充実してけっこうな生活だよ」
「ちょい、待った」
トルスは片手を上げた。
「じゃ、どっか休んでまでうちにきてくれるってことか?」
「まあね。でも、どこも話の判る仕事場だ。まあ、私がいなくても問題ないということでもあるけれどね」
「問題は、あるだろ」
〈青燕〉暫定料理長は苦笑めいたものを浮かべる。
「やっぱ、給金出すよ」
「いいって言ってるだろ」
シェレッタは顔をしかめた。
「飯だけは食わせておくれ。そうさせてもらえれば飢え死にすることもなし。それに、ほかの店と違って、ここには誰かしら手が必要だ」
「有難うな。まじ、助かる」
青年は心から礼を言った。
「こういうときはお互い様なんだよ。いつか誰かが困ってたら、あんたも助けてやるといい」
ぽんぽん、とシェレッタはトルスの肩を叩いた。
「ところで、臭い消しの薬剤じゃなければ、それは何なの」
「あー、いやその」
何でもない、とトルスは言った。そんな台詞でシェレッタが納得するはずもなかったけれど、説明のしようがない。何でもないと言い張り続けた。
「私はあんたを信用してるけど、トルス」
じとんと女は若者を見る。
「おかしなクスリには、手を出すんじゃないよ」
これは「薬剤」の意味ではない。もちろん、トルスにも伝わった。
「当たり前だろ。俺はそんなもんで、大事な味覚を壊しちまうつもりはないね」
料理人としてそう言い切れば、シェレッタは安心したようだった。
「さ、そろそろ仕込みをはじめとくか」
「手伝うよ」
「おう、よろしく」
トルスは素直にそう言って、腕まくりをした。
ちらりと卓上の瓶を見て――どうしたものかと思ったが、やはり答えは出なかった。




