11 犬のように
現れたふたつの影に、アヴ=ルキンは視線を上げた。
「どうだった」
「使っていないと。なくしたと言っていた」
サリアージと呼ばれる黒い肌の若者が低い声を発した。その隣には、黒い犬が座る。
「なくした?」
医者は胡乱そうに顔をしかめた。
「三本もなくすのか」
「どうであろうな。嘘をついているようでもあった」
「成程」
ルキンはうなずいた。
「売り払いでも、したか。ふん、貧乏人め」
蔑む口調でルキンは言い捨てた。
「もっとも、出回るならどちらでもかまわんが」
「だいぶ行き渡ってきたようだな」
「ああ。村ごと買い取ったのが功を奏した。やはり、金の使いどころであれば惜しむべきではない」
「そういうのは、何と言うのだったか。確か……投資、か?」
考えるようにしながらサリアージは言う。
「その通り」
面白くもなさそうにルキンは笑った。
「村人どもは、私を聖人か神のごとく思っていることだろう。予期せぬ病を得た果実を約束通りに買い上げた」
ただ、と男は続けた。
「ほかの果樹にまで派生したのは、計算外だったな」
「あの商人と、ほかには鳥や虫だろうな」
若者はそう言い、男もうなずいた。
「リクテアーめ。欲をかいて、指示した以外の村にも偽肥料の幻薬を売りつけたのだろう。だが悪くない。結果として隠れ蓑になる。チェレンだけではない、とな」
「しかし、死人も出たな」
「観賞用の花に使用して、何か異なる副作用が出たのだろうな。だが一件だ」
問題はない、と言い切ると男は続けた。
「虫が果樹同士に同じ症状を運ぶというのもよい話だ。蜂蜜にまで果実の幸運が宿れば、それこそ運がいい。私が何もしなくても、この街には温床が広がる」
アヴ=ルキンは唇を歪めた。
「ここはよい街だ。開放されぬ大きな市場。下準備さえ整えば、進出を目論む他都市の闇組織はいくらでもある」
大きな都市であれば多かれ少なかれ蔓延っている幻惑草の流通。このアーレイドにはそれがほとんど見られない。一年に一度くらいの頻度で、持ち込もうとする人間はいる。だが、町憲兵隊が全てそれを叩き出してしまう。
ここの町憲兵隊が、他に類を見ないほど有能であるのか?
否。
職務熱心では、あるかもしれない。だが、運がよかったに過ぎない。
目立った事例がひとつあれば、それにかかりきりになって根絶することは可能だろう。しかし、手が回らぬほどに幻惑草が出回れば?
高価なものであり、怖ろしいという印象もあって、最初から禁止薬物に手を出す人間は少ない。そのための〈ヘルサレイオス〉だ。
そういった「クスリ」に慣れ、悪徳に狎れてゆけば、もっと刺激をと望むのが人の性。一度陥ちてしまえば、あとはどれだけ町憲兵ごときが奔走しても、根絶は不可能だ。
アヴ=ルキンの考えはそこにあった。
自身で違法行為に手を染める必要はない。市場を用意してやれば、あとは勝手に金が入ってくる。
「たった一年。いや、そろそろ二年か? 簡単だったな」
「餌場を作り上げたら、金だけ受け取って、アーレイドを去るつもりか?」
「いや」
医者は首を振った。
「幾つもの組織と話は進めているが、将来的に払い続けるなどという約束を連中が果たすはずもない。楽園への入場料に多額を支払うと言っている二、三組織と交渉をすれば、それで充分、資金源になる。そうあれば、現状以上に貴族どもの興を金で買えよう」
そう言ってから、ルキンは笑みを浮かべた。
「宮廷医師。以前にもやったが、あれはよかっただろう」
同意を求めるように、男は黒い肌の若者を見た。
「大事な会議の前に政敵を寝込ませてやれば、莫大な礼金が入る。時折、王女でも王子でも病にさせて、それを治せば英雄だ。あんなに楽な商売もない」
そこに浮かぶのは、何とも冷たい笑みであった。
「準備は進んでいる。もはや、町憲兵のような蝿が何を掴んだところで、手出しもできぬ」
ただ、と医者は呟いた。
「ライバンの死に疑いを持つ町憲兵がいたとは、誤算だったな。あやつにやった薬の痕跡など判らぬだろうし、奴が海に飛び込んだ理由も、判るはずはないのに」
「嗅覚の鋭い人間もいる、ということだな」
サリアージは唇を歪めて、こう続けた。
「犬のように」
「犬か」
その言葉にルキンは笑った。
「だが、あの子供は」
次にサリアージはそう言った。
「子供だと?」
「雇ったばかりの護衛のことだ、ルキン。あれにも、嘘の臭いがするぞ」
「ああ」
どうと言うこともない、というように医者は手を振る。
「キドの命令であるようなことを言っていたが、それのことか」
判っていた、とルキンは肩をすくめた。
「巧いが、子供だ。隠しきれない。いや、今日は上手に隠していた。だが昨日は、私に対する警戒心で満ち満ちていた。あれを容易に捨てたとは、思わんな」
男は笑う。
「なかなか面白い。まさか正面切って乗り込んでくるとは思わなかった」
それからルキンは首を振る。
「だが、勘がよくても所詮は子供。何も見つけられるはずはない。見つけたところで何もできない。好きに探偵ごっこをさせておくとしよう」
「この館では何も見つけないとしても」
サリアージは肩をすくめた。
「既に知っていることもある」
「薬のことを知っている、という話だな。私から直接あれを受け取った、ただひとりの人物という訳だ」
アヴ=ルキンは皮肉めいて笑った。
「だがそれが何だ?」
男は首を振った。
「町憲兵に訴えたところで、何ができる? あの薬に違法性はない。何も」
「しかしあの子供はそれを知らない。それについて探る内、何か違うものを見つけることもあるかもしれん」
「かもしれんな。しかし、かまわん。ちょうどいいだろう。お前も望んでいた」
あの夜、と医者は続けた。
「ちんぴらの下らぬ喧嘩に首を突っ込もうと言い出したのは、お前だっただろう。あの少年たちに目をつけたのではないのか」
「そうだ。そろそろ、次が要る」
それがサリアージの返答だった。
「料理屋の息子の方は、体力がある。かと言ってそれだけの愚者でもなく、お前の寄越す薬を警戒するだけの頭がある」
悪くない、と若者は言った。
「それから、伯爵の養い子。賢いだけの頭でっかちでもない。なかなかに強い精神力を持つ子供だ。興味はある」
サリアージはそう続けた。
「しかし、だからと言ってあの少年を懐に入れるのは、両刃の剣とも言えよう」
「それならば」
ルキンはぱちりと指を鳴らした。
「もしもファドックが運悪く何かを見つけてしまうようなことがあれば、彼はキドのもとへ帰ることなく――侵入してきた賊が無体を働き、頑張った少年は命を落とすかもしれないな」
医者はそう言って肩をすくめた。
「そうなれば賊はユークオール、お前が退治したことにするか」
ルキンが続ければ、犬は言葉を理解しているかのように彼を見た。
「キドは嘆くか、怒るか。あれを敵にすればいささか面倒だが、誠意を見せて謝罪する相手をいつまでも恨んでいられる気質ではないだろう。自分自身が不行き届きであったと考えることも有り得る。そうであれば」
むしろ楽だ、と呟いた。
「私が謝罪をすればするほど、いたたまれなくなるだろうな。金や贈り物などになびかない男だが、どんな形であれ、あやつとの間に衝撃的な出来事を作ることは必ず役に立つ」
「いつ、やる」
若者が淡々と低い声を出す。
「すぐか」
「急くな」
ルキンは首を振った。
「数日は様子を見る、と言っている。私がよくしてくれた、と主に報告できるように。或いは」
ゆっくりとルキンは、両手を組んだ。
「サリアージは、そろそろ十年か」
「そうなる。それ故、新しいものに興味を覚えている」
黒い肌の男はかすかにうなずいて、そう言った。
「なれば、やはり」
くっ――とアヴ=ルキンは嫌な笑い声を立てた。
「何も知らぬ子供たちを手懐けてみることは、役に立つやもしれんな」
サリアージはじっと黙り、ユークオールも無論、言葉など発さぬまま、ただ命令を待つように男を見上げていた。




