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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第2話 漸進 第2章

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10 災い神の水は甘い

(上等、上等)

 彼は成果に満足して片づけを再開し、夜の献立を改めて考え、足りないものを買いに行こうと店を出たところで、またも立っている影にぎくっとさせられる羽目になる。

 これがたとえ、チェンがやはり何か血迷って仲間を連れて戻ってきたのだとしても、トルスは呆れたり、自分の見通しの甘さに嘆息したりするだけで、これほど鼓動を弾ませることはなかっただろう。

 狭い小路で、トルスが出てくるのを待ちかまえていたように、ふたつの影は立っていた。

「あー……」

 若者はそれらをちらちら交互に眺めた。

「何の、用。確か……」

 彼は思い出そうと試みる。

「サリアージ」

 黒い肌の若者は、特に肯定も否定もせず、じっとトルスを見ていた。

「あー、散歩か?」

 とトルスが言ったのは、サリアージが散歩をしているのかという意味ではない。

 陽射しの強くなっていくこの季節、酔狂にもわざわざ黒い服を選んで着ている黒髪の若者の隣には、同じく真っ黒な毛並みの、大きな犬がいた。

「もしうちの飯を食いにきてくれたなら、生憎と夜まで待ってもらわないといけないけど」

 そんなことはなさそうに思ったが、最近は思いがけない千客万来である。

 だいたい、ビウェルが〈青燕〉の飯を食いにやってくるなど、王陛下がくるより有り得ないと思っていたくらいだ。医者の助手のひとりやふたり、何だと言うのだ?

「――薬は」

 低い、とても低い声がした。トルスは何故だか、どきりとする。

 この黒服男の外見からは、そんなに声が低そうには見えなかったということもある。

 だが、そういった予測の話をするならば、彼はどうしてか――こう思っていたのだ。

(……んなこた、ないよな)

(極端に無口とか、ルキンの前では余計な口を利かなかったとかだけで)

(これまで一度も喋ったことがない奴なんじゃないか、なんてこと)

 あるはずがない。生まれつきとか何らかの事故とかで、口が利けないというのはあるだろう。だがそれはあまり医者の助手には向かないだろうと思った。助手でなく護衛だとしても、意思の疎通が容易に図れないのでは問題があるだろうからだ。

「使ったか」

「あー……ええと」

 何のことであるかは、明らかだ。ファドックは、誰かが訊いてくるかもしれないと言っていた。まだ使うほどのことにはなっていないからと答えろという話だったろうか?

「――俺ぁ、クォルサー先生にもらった薬しか、使う気はないね」

 若者は少年の言葉を無視した。別にファドックの考えに反対するとかそういうことではなく、言うなりになるのが嫌だというのでもなく、正直なところを言いたくなったのだ。

 ルキンの薬など使いたくない。

「成程」

 文句でも述べ立ててくるかと思いきや、サリアージは短く言った。

「賢いふりをする愚者。臆病を理屈で正当化する類か」

「何をう」

 どうやらこちらが文句を言う立場に立たされたらしい。トルスはむっとした。

「お偉い先生だか何だか知らねえがな。親父の生活をよく知ってるクォルサー先生の方が的確な診断を下せるに決まってんだろうが。お前の先生は、年食えば誰でもなる年寄りの病気じゃなくて、救えば大々的に話題になる子供の難病でも治してりゃいい」

 どうして思い切り挑戦的なことを言ってしまったものか、それはおそらく、彼にもその感覚が訪れ出していたからだろう。

 明確な根拠はない。

 だが、ルキンのやることは全て不自然で――。

(何つうか)

(気持ちが悪い)

 すっきりしない、とでも言うのか。

(鍋をあんまし熱さないで炒めたとか)

(塩胡椒し忘れたとか)

(そんな感じの、失敗作を食ってるみたいだ)

 料理人は料理人らしいことを考えた。

「誰でもなる」

 トルスの言葉を繰り返すと、サリアージは鼻を鳴らした。どうにも違和感を覚える。おかしな言い方だが、この男には喋ることが似合わないように思えたのだ。

「ああした病は進行するもの。お前のクォルサーは斯様(かよう)には告げなかったのか」

「しん、進行だって?」

 思いがけない言葉に、トルスはどきりとした。

 クォルサー医師は年齢だから仕方ないと言った。それだけだ。病状が進むなどという話は、してこなかった。

「下町で医師でございと威張る男の名誉を傷つけまいと、ルキンは黙っていたようだが」

 ルキン(・・・)

 サリアージはアヴ=ルキンを呼び捨てた。

「それでお前の父が取り返しのつかぬことになっては気の毒と、薬を渡し、私を遣わした」

 名を呼び捨てることと命令か何かで遣わされることは相反するようであったが、トルスには、無論であろう、そこよりも気にかかるところがあった。

「じゃ、親父のあれは……年のせいとかじゃなくて……」

 みなが口を揃えて「がた(・・)がきたんだ、仕方がない」と言うこと、平等で理不尽な〈名の知れぬ時の神〉の御業とは関わりのない――進行したり、或いは、治る(・・)病だと言うのか?

「年齢故に、かかりやすいということはある。だが、死に至る前であればどんな病も治るもの。それがルキンの考えだ」

「治る……?」

 若者の心に希望の光が差した。

 いずれは、年齢という名の時間がロディスの身体をむしばむであろう。だがそれは、このことが起きる直前まで考えていたように、今日明日の話ではないと?

「薬を飲ませるといい。調子が戻るようであれば、明日にも。効果があるようなら、ルキンも次の分を用意するだろう」

「俺は」

 正体不明の薬など要らないと、啖呵を切ろうとした。

 だがそこで、若者の舌は動きをとめる。

 本当に、このサリアージの言う通りだったら?

 一刻でも早い判断、早くロディスに薬を飲ませることが、父の病を治すのでは?

「父親を早死にさせたいのであれば、クォルサーを盲目的に信じるといい。そうでないのならば」

「薬」

 思わず、トルスは口にした。

「その、ないんだ。先生にもらったやつ。その……い、いつの間にか、なくなってて」

 言うと、サリアージは黒い目でじっとトルスを見た。まるで同調するように、犬も彼を見ている。

「成程」

 居心地の悪い沈黙が数(トーア)続いたあと、サリアージはうなずいた。

「ならば、ルキンから預かった分がある。一本だけだが」

「た、高いんだよな、たぶん」

 若者がそう言ったのは、言葉通りの懸念もある。高ければ買えない、と言う。

 だが同時に、奇妙な期待もあった。

 効く薬であれば欲しい。それはファドックにも言った通りだ。トルスの気持ちを理解して、ファドックは調べてくれると言ったのだ。

 もしも、ここで彼が怪しい薬を買えば、それは少年の好意を無にする選択である。高ければ――買えずに済む。

「いや」

 サリアージは否定をした。

「押し売りと思われるのはルキンも望まぬこと。彼は金ならば余所から得ている。お前たちのような貧乏人から搾取はしない」

「じゃ」

 ただ(・・)だと、言うのか。

 トルスは呆然として、サリアージが懐から小さな瓶を取り出すのを見守った。

 受け取るか。

 拒絶を繰り返すか。

 怪しいと、考えはじめていたのに。

災い神(ミール)の水は)

(甘い)

 チェンの話に対して繰り返しそう考えていた若者は、自分に訪れているのが幸運神(ヘルサラク)の導きなのか、悪魔(ゾッフル)の囁きなのか、判定しきれぬままだった。


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