08 どっかで見た顔だな
――というような町憲兵たちの一幕はトルスのところには当然届かず、若い料理人は額に汗して働いていた。
客足が途絶えたときに何となくビウェルたちの卓を目にはしたが、食事の手がとまっているようだったので少し腹が立った。熱い内に食うのがいちばん美味いのに、というところである。
そのあとで気づけば町憲兵たちは消えていて、彼は少し拍子抜けした。てっきり、ビウェルが何か難癖をつけてくると思っていたのに。
(ま、文句を言いにこないってことは)
(美味かったんだろう)
当然だ、とトルスは思った。
ひとりで昼の屋台を切り盛りするのは重労働だったが、それは予測していたことだ。ロディスのことは昨夜に引き続いてシェレッタが様子を見にきてくれているから、途中で抜けなければならないこともない。支度から調理から接客から、集中すればどうにかなるものだ。
もっとも、これが毎日続けば、いかな若い彼でも少しきついだろう。
具の種類を減らしたり、下拵えを省略したり、そうすれば楽になるだろう。だが質を落とすことは避けたい。ならば量を減らして、品切れご免、と時間を短めに切り上げるしかない。
それも歓迎はできないが、右と左の両方には進めないものだ。
「やあトルス、お疲れさん」
「シェレッタ」
家の方からやってきた女の姿に、トルスは片手を上げた。
「親父は?」
「すっかり元気だよ。今夜は厨房に立つと言い張るだろうね」
「まあ、今朝も顔色は普通だったけど」
白い顔を思い出すと、つい「休んでろ」と怒鳴りつけたくなってしまう。風邪などでもあれば当人の判断に任せるのだが、これはそうではない。
「あんまり心配しすぎても仕方ないよ。長いこと使ってる身体だ、弱るのは自然なことさ」
それが五十前ほどの女の解釈だった。年を取れば誰でもそうなると。
トルスだって理屈では判っている。ただ、身近で起きるまで実感がなかっただけだ。
当然のことで、理に適っていることなのだが、どこか理不尽な気がする。
自分もいずれ年を取るなどと考えることのない若者の常として、彼もまた釈然としないものを感じていた。
「休んでても治らないよ。と言うより、治る治らないじゃない。発作なんかはまた起きるかもしれないけれど、食事なんかに気をつければ、いままで通りにやれるもんだ」
それはクォルサーも言っていたことでもあった。無理をしなければ、そうそう発作は起こらない。少し休んで溜まっている疲労を解消したら、少しペースを落とすことは必要だが、普段の暮らしをしてかまわない、と。
「本人の好きにさせてやるのが、何より健康の素だと思うね」
「そ、か」
トルスは頭をかいた。三日間ぐらいは強制的に――縛りつけてでも――休ませようかと思っていたが、それよりは好きなようにさせて、調子が悪いようならばトルスが補う、という形の方がいいのかもしれない。
第一、現実的な話をすれば、本当に縛りつけない限り、今夜ロディスは店に立つだろう。
「私は、今夜もこようね。あんたが厨房でロディスをずっと見られるように」
「え、でも」
〈青燕〉亭の息子は気まずい顔をした。
「金……出せねえから」
「馬鹿だねこの子は!」
女は豪快に笑った。
「こういうときは、お金なんていいんだよ。素直に『よろしく』とお言い」
その言葉にトルスはにやっと笑った。こういう人情は、非常に嬉しいものだ。
「おう、あんがとな。よろしく頼むぜ」
彼は片手を上げて、そこでとまる。女は何だろうかと一瞬首をひねったが、若者の意図を理解すると、また笑ってぱちんと手を合わせた。
ジルセンがきてくれることにはなっているが、何とも酔狂にただできてくれると言うのだから、予定通りきてもらおう。シェレッタに対しては給金を気にしたトルスだが、ジルセンにはあまり気にならなかった。
差別をするつもりはないが、明らかにその仕事で糧を得ている彼女と、「面白いからただでいい」と言う相手とでは、懐の余裕が違う訳である。平等ではないかもしれないが、公平な反応だ。
ともあれ、様子を見ながらやっていこう。
自分が中心になることを考えるか。いや、ロディスは容易にそれを認めないだろうが、何かこれまでと違うやり方を考えた方がいいことだけは納得させなくては。
そんなことを考えながら屋台の片づけを終える。
普段ならばちょいとひと休み、ふらっと街を歩いてきたりするが、今日はひとりで下拵えだ。休憩は飯を食うくらいにして、早めに支度をし――。
そこで若者ははっと気づいた。
勝手口の前に誰か立っている。
一瞬ぎくりとして、そんな自分に腹が立ち、何事もないような顔で歩みを進めた。
「そこ、邪魔だ。どけ」
何も挑戦的に言うつもりはなかったが、自分の耳に響いた声はそう聞こえた。
「おい、話がある」
意外な言葉にトルスは目をしばたたいた。
話? 路地裏で繰り返し刃物をちらつかせたちんぴらが、暴力沙汰でなく話と言ったのか?
「この前の、ことだけどよ」
チェンと呼ばれていただろうか、あの夜に刃物を振り回していた同年代の不良少年は、どこかむすっとした顔で言った。
「あのあと、どうなった」
「どうって何が」
何も対応してやる必要はないと思うが、無視を決め込むほどでもない。そんなふうに思ったトルスは問いを返す。
「だからよ。ルキンさんだ。俺らのこと、何て言ってた」
「はあ?」
まるで馬鹿にするような声が出てしまったが、そういう意図でもない。
「何てって、何だよ」
「それを訊いてんだよ」
ちんぴらのくせに――と言うのは偏見かもしれないが――もっともな言葉を返してくる。
「何て、ったって」
トルスは考えた。
「お前ら、あの先生にかかったことがあんだろ。喧嘩の怪我とかで」
ルキンの言っていたことを思い出しながらそう言う。チェンは眉をひそめた。喧嘩で怪我をしたなど言いたくない、という様子にも取れたが、それよりはむしろ――。
(本当に)
(彼らを診たのかな)
それだ、とぴんときた。
アヴ=ルキンは不良どもの治療など、していない。
「違うのか? じゃあ誤解かな」
何気ないふりで勘違いを装った。
「ま、あの先生が言ってたのは、喧嘩なんかするなと言ったのに聞かなくて困ったもんだ、ってなとこだったな」
特に嘘をつくことはせずにそのまま語ると、チェンは舌打ちした。
「運が悪かった。ルキンさんがあんなところを通るなんて」
「おいおい」
チェンらと医者の関係はともかく、そういう問題でもあるまい。
「何でここが判ったんだ」
〈青燕〉亭の息子は問うた。ファドックと最初に会ったときの騒動ではトルスをここの息子と見分けた奴がいたが、二度目のときは気づかれなかったようなのに。
「どっかで見た顔だな、とあとで思ったんだ」
何と言うこともないように、チェンは肩をすくめた。
「俺ぁ、何度かお前の作った昼飯を買ってるよ」
「そりゃどうも。毎度」
気のないようにトルスは応じた。思いがけず顔が売れているということか。別に嬉しくはない。
「ま、火付けにきたってんじゃなけりゃ上等。屋台はもう畳んじまったけど、普通に客としてやってくる分には歓迎だよ。妙な因縁、つけんなよ」
じゃな、とばかりにトルスは戸口をくぐろうとした。
「おい」
だがチェンはまたそれに声をかける。
「何だよ」
「まだあるだろう」
「何が」
毎度のご利用、誠に有難うございます――とでも言え、と?
「ルキンさんの話だよ」
チェンの言葉はそれだった。しつこい。とトルスは思った。
「別に、さっき全部言ったさ」
いったい何を聞きたいと思っているのか、若い料理人にはさっぱりだった。




