01 暗い道
暗い道を走っていた。
ここはどこなのか。どこへ行こうとしているのか。
自分でもよく判らなかった。
ただ彼は、見知らぬ道を走っていた。どこか焦るような気持ちがあるのだが、何のためにそんな感覚に陥るのかが判らない。
走っていた。懸命に。必死に。
まるで、追われて逃げているかのように。
(逃げる?)
(いったい、誰から)
(それとも)
(何から?)
走りながら、彼はぎくりとした。ハッハッ、という獣の息遣いが、すぐ背後に聞こえたような。
思わず彼は振り返り、すぐ目の前に赤い双眸を見た。
「なっ」
心臓を大きく跳ね上がらせると――同時に身体も起き上がっていた。
「おはよう、ヴァンタン。と言っても、いつもよりだいぶ遅いわよ。まあ、今日は遅番だったわよね。遅刻にはならないと思うけど」
「あー……」
青年は中途半端に口を開けたまま、狭苦しい部屋のなかに妻の姿を認めた。
「おはよう、アニーナ」
鼓動はまだ早鐘を打っている。ヴァンタンは首を振ると、嫌な夢を払う呪いの仕草をした。
「そんなに寝てたか?」
「そりゃもう、ぐっすり」
アニーナという名の彼の妻は、肩をすくめた。
年下の愛妻は、まだ二十歳そこそこだ。出会ったのは、五年以上前のこと。
ヴァンタンは早い内に親を亡くし、成人前からひとりで生きることを余儀なくされていたのだが、アニーナもまた同じような状況で頑張っていた。
最初は例の如くお節介から彼女の世話を焼いた。いつしかなくてはならない存在と気づいて、一緒になろうと求婚をした。
それから三年近く経っただろうか。ふたりのどちらも子供がほしかったが、現実問題として金がなく、悩ましいところだった。
しかし一年ほど前のこと、働きぶりが認められてヴァンタンは、少しばかり昇給した。真剣に将来を考えればまだ不安ではあったが、そろそろ大丈夫ではないか――と相談をした頃、まるで見計らったかのように、アニーナのお腹に新しい生命が宿った。
そのときのヴァンタンの喜びようときたら友人たちの語り草になるほどで、これはおそらく彼が一生言われ続ける話に違いなかった。
「もう起きたら?――って言っても、うんともすんとも言わないんだもの。そろそろ、水でもかけようかと思ったわ」
手厳しく、アニーナは言った。
「昨日はそんなに飲んだ訳?」
「いや、ラウセアが相手だったから、それほどのことは」
応じながら枕元を漁り、結い紐を手にすると長めの髪をまとめた。
「また伸びてきたわね。切ろうか?」
「そうだな、本格的に暑くなる前に頼む」
アーレイドの気候は穏やかで、北方などに比べれば真夏になってもちっとも厳しくないのだが、住民にとってはそれなりに「夏」だ。湿度も上がるし、あまり心地よいという感じはしない。
「あ、でもアニーナは切るなよ。俺はそんくらいの長さが好きだ」
夫はそう言うと、愛しい妻ににっと笑った。はいはい、と妻も笑って応じる。
アニーナの髪は明るめの茶金で、いまは肩より少し長いくらいだ。手先の器用な彼女は、長い髪を自在に編んでさまざまな髪型を作る。給仕より、いいおうちのお嬢さんの髪でも結った方が儲かるのではないかとたまに思うが、残念ながら、そういう仕事には何らかの紹介などが要るものだ。
もっともヴァンタンとしては、アニーナがどこかのわがまま娘に悩まされるより、本人の心と夫の目を楽しませてくれる方がよい。金はあるに越したことはないが、そのせいで笑顔が失われるようでは、ことだ。
「おし、今日も快晴、よい一日になりますように、と」
ヴァンタンは寝台から飛び降りるとその勢いでアニーナを背後から抱きしめ、髪に口づけた。それから両手を妻の腹の辺りに回す。
「そしておはよう、まだ見ぬ我が息子よ」
「今日は『娘』の番じゃなかった?」
若い妻は笑って尋ねた。
「ん? そうだったかな? まあ、どちらにせよ、早く元気に生まれてくるように」
妻とその内に宿る命と、両方への愛情を込めて、ヴァンタンはアニーナの腹を優しく撫でた。
「けっこう目立ってきたなあ。そろそろ休むか?」
「まだまだ平気よ。カラフィの母さんなんて働く合間に産んじゃったって」
「ありゃ、七人目とか八人目とかだろ」
「まあ、そうだけど。でも別に普通に動けるんだし、大丈夫。もう少ししたら、家でできる仕事を見つけた方がいいかもしれないけれど」
アニーナが考えるようにすると、ヴァンタンは妻に張り付いたままで手を打った。
「あれ、どうだ。以前に編んだやつ。思ったより高く売れたんだろ」
「ああ、籠? 材料代から考えればなかなかの儲けと言えるかもしれないけど、必要な時間や手間を考えたら、それほど効率的とは言えないわね」
「そうか。俺ゃ、三日かかってもあんなもんできそうにないけどなあ」
「あなたはじっとしてるなんて、無理だもの」
街を一日中飛び回っている配達人である。そこに座って竹籠を編めなどと命じられたら半刻も保たずに降参するだろうと、それが妻の見解であった。
「もう出る時刻か?」
「まだ余裕あるわ。少し散歩でもする? ついでに何か食べましょ」
「ああ、いいな。腹ぁ減ってるわ」
ヴァンタンは賛成した。
「何食いたい、アニーナ。やっぱまだ、味の濃いもん気持ち悪いか」
「ううん、ここんとこ大丈夫ね。食欲も戻ってきたし、何でもこい、かな」
「よし、そいじゃ新しく見つけた店に行こう。あの付近は屋台が多いから、たぶん昼も何か出してる」
そうしてヴァンタンはアニーナを連れて〈青燕〉亭に向かうことにした。
「昨日はな」
夫はさんさんと降り注ぐ陽射しに目を細め、妻の肩を抱いた。
「店に戻る途中、ラウセアにばったり会ってなあ」
何でも若い町憲兵はヴァンタンに会いにきたが、配達から戻っていないと言われてしばらく待ち、しかし戻らぬ様子に「ヴァンタンは帰宅の札をひっくり返し忘れた」との推測に従って、ナティカを再度送り、詰め所に戻ったということだった。
ところが、ビウェルは夜に繁華街を自主警邏するという約束を詰めることなくさっさと逃げていて、相棒がどこで町憲兵の評判を落とすつもりかとラウセアが港方面をうろついたところ、ヴァンタンを見つけたとかいう話だった。
「たまには一杯どうかと誘われてな、断り切れずに飲んできたんだ」
いくらか、嘘だ。
ラウセアと行き会ったことは本当だが、のんびり酒を飲んできた訳ではない。彼は〈海の鈴〉の船員らから聞いた話をビウェルの相棒に告げたのだ。ヴァンタンもラウセアも、軽い酒の一滴さえ口にしなかった。
港へ犬の件を確認に行くことも考えたが、夜の港を歩いている人間と昼間に立ち働いている人間は違うものだ。彼らは話をするだけに留めた。
(――まあ、だいたい)
「話に聞くようなでかい奴ならお前さんたちが見てるよな」
あらかたの話をしたあとで、ヴァンタンは苦笑するとラウセアにそんなことを言った。そうですねとラウセアは返した。
「旦那は、船長が自分で落ちたようにしか見えなかったと言ってたが。あんたの見解はどうだ?」
ふと思いついて彼はそれを尋ねた。ビウェルを疑うというのではないが、見え方など人によって違うものだ。ましてやあの旦那は、断定の達人である。
「追われていたかと言うと……正直、そんなふうには感じませんでした」
思い出すようにしながらラウセアは答えた。
「ただ、僕らが見たのは、船長がもう欄干を乗り越えようとしているところでしたから、その前のことは何とも言えませんけれど」
それでも、とラウセアは呟いた。
「甲板に犬なんかがいたら、〈一本角〉の船員が気づかないはずもないです」
「だよなあ」
もっともなのである。
ヴァンタンとて、本当にルキンの犬が甲板で船長を追いかけ、船長はそれから逃げて海に落ち、騒ぎに気を取られて誰も――ビウェルやラウセアでさえ――犬を見なかった、などと思っている訳ではない。
「犬。黒い犬ねえ」
先ほどの赤い瞳のようなものを思い出した。
犬猫の目ならば闇で光に反射することがあるが、あんなに赤く光るのは見たことがない。何かの見間違いだったのだろうかと思い、同時に確かに見たとも、思った。




