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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第2話 漸進 第1章

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09 負けてなるか

 星の瞬き出した夜空を見上げて、若者は息を吐いた。

 定休日でもないのに、こんな時間に外にいるのが不思議な気分だった。

 目を覚ましたロディスは店を開けると言い張ったが、トルスはどうにかそれを説得した。

 脅した、と言うのかもしれない。

 客の前で倒れるようなことがあってみろ、〈青燕〉の調理人(テイリー)は病持ちだなんてことになったら、伝染るようなもんじゃなくても評判がた落ちだ、などと言ってやったのである。

 父はそれに巧く言い返せず、自分が休むことにはどうにか同意したが、そのあとで息子を困らせた。

 トルスひとりでやれ、と言うのである。

 そのことは、トルスも考えた。不可能ではないだろう。厨房に入れば、トルスはロディスと同じことをやっている。ロディスの指示なしで、ロディスと同じ味を出している。

 ただ、ひとりでやったことがないだけだ。

 不安なのは、いくら客が少ないとは言え、自分ひとりで回るだろうかということ。客を待たせて苛つかせれば、やっぱり評判は落ちる。

 もっとも、それを怖れて店を開けないなど本末転倒だ。今日だけはロディスの様子を見て、明日は挑戦してみるしかないと思っていたが、この調子だと父親は、明日の夜には絶対厨房に立つと言い張りそうだ。

(俺ひとりで充分だから休んでろと言うには)

(今夜の内に実績を作っとかないと無理か)

 開店時刻は少し過ぎたくらいだが、いまから下拵えだ。どれくらいになったら開けられるだろう。

 だが落ち着いて考え直してみれば、今朝仕入れたものを使ってしまわないと、大いなる無駄が出る。たれを作って漬け込んだり、香料を多めに使う手はあるが、新鮮なものを美味い内に使えるのにそれをしないというのは、料理人の誇りに関わった。

(できるだけのことを)

(やるか)

 トルスは心を決めると、〈青燕〉を開けに向かった。常連の顔を見たら事情を話して、数(ティム)だけ店番をしてもらい、父親の様子を見てくることもできるだろう。

 彼はいつしか小走りになって店の裏口を開け、そこで、呆然とした。

「な」

 ――開いているのである。

 扉が、ではない。

 店が。

 大混雑というほどではない数組の客と、熱された鍋に材料が入れられる聞き慣れた音。

「なな、何で」

 一(リア)、店を間違えたかというような、馬鹿な考えがトルスの内をかすめた。

「あっ、トルス」

 給仕の少女が、店の主人の息子に気づいた。

「ロディス、たいへんだったんだって? きたら開いてなくてさ、どうしたのかと思ったんだけど」

「あ、ああ、悪い」

 彼女らのことを忘れていた。毎日くる訳でもないからうっかりしていたが、確かに今日は約束の日だった。

「ファドックが話してくれたのよ。助っ人を連れて様子を見にきたって言うんだけど、今日はやっぱり開けられないんだろうな、って帰ろうとして」

「あいつが?」

 トルスは目を見開いた。

「助っ人だって?」

 さすがに少年が鍋を振るっているというのではなさそうだ。トルスが目をやれば、厨房に立っているのは三十半ばかそこらの男で、どこかの料理人なのか、調理に慣れている風情だった。

「うん、帰るって言ったんだけど、あたしたちが引き止めたの。お見舞いにも行きたかったけどさ、こっち(・・・)のがお見舞いになるんじゃないかと思って」

 少女は店全体を指し示すようにした。

 いつもの空気。

 少し開店は遅れたかもしれないし、味付けはいくらか違うかもしれないが、客を不快にさせることなく、回っている店。

「――余計な手出しかなとも思ったんだけど」

 振り返れば、そこに黒髪の少年が立っていた。

「ここまできたからにはやろう、ってジルセンが乗り気で」

 それはどうやら、厨房に立っている料理人のことのようだった。

「……誰なんだよ」

うち(・・)の副料理長」

「は」

 つまりは同じご主人様に仕えている人間という訳か。

「この野郎。勝手な真似、しやがって」

 トルスは言ったが、怒っているのでは、なかった。

 顔には笑みが浮かんでいる。

「くそう! 俺もやるぜ! おい、おっさん!」

「誰がおっさんだ!」

 ジルセンというらしい料理人は若者に怒鳴り返した。

「トルスだったな。出た皿は九つ、注文は四つ、下拵え済みはあとふたつしか間に合ってない。どういう順番で何が要るか、お前が指示しろ」

「お、俺が指示?」

 トルスは瞬きをした。

「おうよ。お前が監督だ。頼むぜ、〈青燕〉料理長」

 それは何とも、くすぐったい呼びかけだった。

「おし。俺は少し準備を追加する。ジルセン、その間の調理は頼んだぜ、すぐに行くから。それと、ファドック」

 彼は少年を見て、にやっとした。

「皿洗い」

「了解」

 笑ってファドックは手を上げた。

 いつもの厨房で、いつもと違う人物と、いつもとは少し違うことをしているのは、何だか五感のはっきりした夢の世界のようだった。

 ジルセンはよくやってくれていたが、いかんせん、彼の出すものは〈青燕〉の味ではない。下拵えを終えると主にトルスが鍋を振るった。年嵩の給仕女であるシェレッタがロディスの様子を見に行ってくれ、ジルセンは黙って皿洗いに代わり、ファドックは――。

(あれ)

(どこ行った、あいつ)

 気づけば、少年の姿は厨房から見えなくなっていた。

 料理人を連れてきながら、面倒臭くなってとんずら(・・・・)したとは考えづらい。もしや接客でもやってるんだろうかと客席に目を向けたが、生意気な少年の姿はなかった。

 いちばん忙しい時間帯は、結局、ジルセンが肩代わりをしてくれたようなものだ。客足が落ち着けば皿洗い要員は特に必要ではないが、少年がどこへ消えたかとトルスはあちこちきょろきょろした。

「すぐ戻るとさ」

 それに気づいてジルセンが言った。

「いやね、今日は驚いたよ」

 くっくっと料理人は笑う。

「滅多に頼みごとなんかしてこないファドックが、思いもよらない話を持ってきた。あいつは俺を副料理長なんて言ったが、それは冗談半分の呼び名でな。料理長と俺と、あとひとりしかいないんだが」

 ジルセンは笑った。

「あのガキ、生意気にも報酬は自分が出すとか言ってなあ。頭はたいて、馬鹿野郎、こんな面白いことはただ(・・)だと言ってやった」

 その調子を聞いていると、どうやら当人の主張する通り、ファドックは決して「お坊っちゃん」――「ご主人様」の息子、という意味の――ではないようだとトルスにも判った。

「あいつに同年代の友人は皆無だった。閣下もいいことだと思われるだろうな」

「……閣下?」

 聞き慣れない呼称に、トルスは瞬時、鍋を振る手をとめた。

「何だ。聞いてないのか」

 ジルセンは片眉を上げた。

「だがまあ、だいたいのところは判ってるんだろ」

「どの辺りが『だいたい』なのかは、全体を知ってる人間じゃないと判らないと思うね」

 調理のことも忘れないようにしながら、料理人は返した。

「そりゃ言える」

 ジルセンは笑った。

「……いったい」

 好機だ。そう思った。ファドックは何やら隠すが、ジルセンは語ってくれそうな感じである。

 いったいどこの「閣下」なのか。

 「世話になっている」とはどういう事情で。

 一使用人という感じは間違いのような気がしてきたが、少なくとも「閣下」の息子ではないようだと判る。なら具体的に「閣下」の「何」なのか。

「なあ、ジルセン」

「ああん?」

「あいつ」

 トルスは少し黙った。

「……どこ行ったんだろ」

 若者が口にしたのは、その疑問だけだった。

「何でも、診療所とか言ってたぞ」

「診療所?」

「別に皿割って破片で切った訳じゃないようだから、ふたつの意味で安心していいが」

 ファドックを心配する必要も、()を心配する必要もない、と言うとジルセンは洗い物を一段落させた。

「昼の内にどっかの医者に質問をして、上手くすればそろそろ答えがもらえるんだとか」

 何のことやら、と男は肩をすくめたが、もちろんトルスには判った。

「……あの野郎」

 自分がちょっとおたおた(・・・・)している間に、あの少年はいくつの仕事を済ませた? 負けてなるか、というような思いがトルスの内に浮かぶ。

 戻ると言ったのなら、戻ってくるだろう。

 それまでに彼のやるべきは、〈青燕〉の日常業務を滞りなく終えること。

「トルス、注文入るよっ」

「おうっ、何でもこい!」

 料理人は手を叩いて、彼の()に専念した。


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