08 悪く思われるんじゃないかと
「あの、サリーズさんは」
「ラウセアでいいですよ」
「親しまれる町憲兵」を心がける青年はにっこりと言った。
「えっ、そんなっ、いきなりっ」
「はい?」
「いえ、何でも」
ないです、と声は口のなかに消えた。
「ラ、ララララウセアさんは」
少し落ち着けたかと思ったのに、またどもる。
「普段は」
どんな格好してるんですか、などと問いかけたナティカは、どうにも状況に合わないことに――このときは――気づいて、無理矢理軌道を修正した。
「ええと、普段から、ヴァンタンと仲いいんですか」
「そうですね、仲がいいと言えるんじゃないでしょうか」
ビウェルよりはずっと、とラウセアが思ったとしても、そこまでは言わなかった。
「彼の方で僕らにいろいろ協力をしてくれるので、行き会えば自然と話すという感じでして、一緒に飲みに行ったりはしないんですが」
ラウセアは肩をすくめた。
「今日はちょっと、誘ってみようかと」
「い」
「……はい?」
「な、何でも」
ないです、とまた飲み込んだ。「いいなあ!」と出そうになったのである。
「ところで、帰るところだったんじゃないんですか? 僕が引き止めてしまっているのでは」
「大丈夫です!」
ナティカはいまひとつ答えにならないことを言った。
「いえっ、あの、ラウセアさんに引き止めてもらえるなら本望……じゃなくて、ええと、市民の義務です、義務!」
がたん、と扉の方で音がした。ラウセアは片眉を上げ、ナティカは額に手を当てた。盗み聞きをしている連中が「馬鹿、そこで引くな!」と言っている訳だ。
「それですと」
ラウセアは扉からナティカに視線を戻した。
「やっぱり、申し訳ないですね。僕はヴァンタンに、勤務時間以後の話をしにきたんですから」
「いいんです! だって、私は!」
扉の向こうの野次馬たちが、ぐっと意識を集中してきたのが何となく判る。
「……町憲兵さんを尊敬してますから」
落胆が伝わってくるようだ。
「ああ、それはとても嬉しいです」
心から青年は言った。日々努力をしている甲斐があるというものだ。
「それでもやっぱり、お嬢さんを引き止めるのはよくないですね。今日はちょっとお送りできませんし、気にしないで帰ってください」
「平気です。ここからなら、何も危ない場所を通らないですから」
少女は言い張った。こんな間近でラウセアの顔を見ていられる機会を棒に振れるものか!
「そうですか、困りましたね……」
困っている顔も可愛い、などとナティカは、自分が困らせていることを棚に上げてうっとりした。
「昨日の件なんですが」
ふとラウセアは、何かを思い出したようだった。
「トルス君に、あまり無茶はしないように言ってあげてくださいね」
「えっ、あっ、そうですね、絡まれたら応戦しないで逃げた方がいいですよね」
「ええ。刃物の使用を躊躇わない者もいますから。でも、あなたを逃がして町憲兵を呼ぶようにという指示は的確ですね」
ラウセアはうなずいて言った。
「あの付近は巡回を強化したばかりだったはずですが、なかなか、完璧にはいかないです」
「常に全部の場所を見張るなんてできないんだし、仕方ないですよ」
少し前まではたいていの仲間たちと一緒になって「もうちょっと町憲兵隊にしっかりしてもらわないと」などと言っていた少女は、しかしいまは心の底からそう告げた。
「それにほら、世間には、助けてくれる人もいますし」
「助けて?」
「ほら、あの」
ナティカはどう言おうか迷った。
「お金持ちそうなおじさま」
「はあ」
町憲兵の反応が鈍いので、ナティカは首をひねる。
「あ、そこまで聞いてないですか。私が発遣所にたどり着く前、自分が様子を見てくるって言ってくれた人がいたんです。急いで町憲兵さんたちと戻ったときは、もういなかったですけど」
「聞いた話では、トルス君たちが不良を自力で追い払ったということでしたよ」
「あ、そうですか」
ナティカは言いながら、何だか自分が出鱈目を言っているみたいに聞こえるな、と思った。
(ちゃんと話さなかったのね)
(トルスめ。私が嘘つきみたいじゃないの)
少女は内心で、兄貴分に苦情を言う。
「あなたが見たのはどんな人だったんですか? もし何か見ていたようなら話を聞いた方がいいかもしれない」
ラウセアは念のためにと尋ねた。
夜道で刃物を振り回す連中などというのは残念ながら珍しくない。トルスらは不良たちの名を知っており、前にも彼らを脅してきたのと同じ顔で、町憲兵に話をしたことへの腹いせだったようだと話したらしい。
だが、意図的に追われて狙われたのか、たまたま行き会ったものか、それは判らない。もしも逆恨みで狙われているようなことがあれば、現場周辺よりトルスら周辺を気遣う必要がある訳だ。
ビウェルは放っておけと言うだろうが、ラウセアとしては、ほかに目撃者がいたのなら様子を聞いてみたいと思った。
「ええと、お金持ちそうで」
ナティカは繰り返してから、思い出せる限りで男の様子とトルスの話を思い返した。
「私が見たときは同僚と一緒で、それで目が合ったんですけども」
少女は簡潔に説明した。
「そう言えばトルス、変なこと言ってたなあ。黒い犬はいなかったのかって」
町憲兵隊で、もう帰ってかまわないと言われるまでの間、友人がそんなことを問うてきたのを思い出す。
「――黒い、犬?」
町憲兵は顔をしかめた。
「確かですか」
「ええと、わ、私は見てなくて」
ナティカは情けない気持ちになった。どうして自分は、ラウセアが聞きたいと思うことを知らないのだろう?
「トルスが」
「そうでしたか。彼はそんな話をしなかったみたいですが」
「う、嘘なんか言ってないです!」
何だか泣きたい気持ちだ。トルスの大馬鹿、と少女はいささか理不尽な文句をまた内心で叫んだ。
「いえ、あなたが嘘をついているとは言ってません」
慌てたように町憲兵は手を振った。
「ただ、もしもそれがルキンなら――」
「ルキン? お医者様の、アヴ=ルキン?」
トルスはその名前を少女に伝えなかった。それにもかかわらず、彼女は聞き覚えがあった。
「知っているんですか?」
「いえ、直接は知らないですけど」
知っていれば見たときに、そうであるともそうでないとも、判ったはずだ。
「ただ、聞いたことはあります」
「有名なんですね」
「いえ」
ナティカはまた言った。
「有名って言うか、豪邸の主ですよね、確か。母の友人が、前の持ち主のとこで働いてたとかで、すごい家だって、聞いたことが……」
あります、とナティカの声は少し小さくなった。
(さっきから、伝聞とかばっかり)
(絶対、口から出任せ女だって思われてる!)
実際には「誰かから聞いた」と言うより「自分が自分が」と主張する方が信憑性に欠けるものだが、恋する乙女というのは理性的な思考だの冷静な判断だの客観的な視点だのに欠けるものだ。
〈恋の女神は目隠し上手〉とも言うように、自分に都合のよいことばかり考えてしまうこともあるが、いまのナティカは逆に、ラウセアに悪く思われるんじゃないかと心配しきりだった。
「そうですか、前の……」
だが少なくともラウセアは「出鱈目ばかり言わないでください」とは言わなかった。もちろんこの青年がそんな気質ではない、ということもあるのだが、ルキンのことは現状、彼とビウェルにとって最優先事項だ。
「もう少し、話を聞かせてもらえますか」
「は、はい、もちろん!」
蔑まれてない、と少女は安堵した。
「ヴァンタンが戻ってくるまでの間でかまいませんから」
「い、いえ、私はいくらでも」
ヴァンタンなんか当分戻ってこなくていい、と少女は思った。




