06 赤い瞳
「〈一本角〉の船長は細く長くやろうって性格だった。危ない橋は避けてちまちまと稼ぐ。派手なことはしない」
「それにしちゃ最後は派手だったな」
いささか不謹慎ながらヴァンタンが言えば、またも違いない、と笑いが上がる。
「見てた奴の話だと、自分で飛び込んだという感じだがね。追われてたんじゃないか……という声もあるな」
「何だって?」
初耳だ。ビウェルはそんなことは言わなかった。だいたい、当の町憲兵が目撃しているのだ。追われて飛び込んだなら、気づかないはずがない。
「もっとも、その『声』が上がってるのは俺らの間だけ」
〈海の鈴〉の乗組員、という意味だろう。
「以前にもね、あったんだよ」
にやりと船員は、とっておきの話を知る人間が見せる得意気な表情を浮かべた。
「以前にも?」
「ああ。違う港でね。ライバン船長が落下騒ぎを起こしたこと」
「――へえ」
ヴァンタンは「よっしゃ」と膝を叩きたくなるのをこらえ、普通に興味がありそうな顔を作る。
「余所の港で? たとえばどこで」
その言葉は、船員が出任せを言っていると考えているように聞こえただろう。
「〈一本角〉は長らく北にいた。俺ら〈海の鈴〉は北方陸線から南西のどん詰まりまでだが、南西よりは北が多い。見かけたことはあるさ」
「成程ね」
既に知っていると言おうか、そのために彼はこの連中に話しかけているのだが、もちろんここは「いま知りました」という調子を保つ。
「北の、どこだったかな? エディスン?」
「もう少し西じゃないか。それほど大都市じゃなかった」
「ワイアードだったろ」
「それだ」
そういうことになったようだ。訊いたのはヴァンタンである訳だが、それは話の接ぎ穂というものであって、この際、どこの港でもいい。
「どんな騒ぎだって?」
「おんなじように、ライバン船長が海に落ちたのさ。もっとも船から飛び込んだんじゃない。港の堤防から」
「……そういう癖でもあったのか?」
「まさか。この前のを含めて二度だけだろうよ。何しろ、一度目だが」
船員は肩をすくめた。真面目な顔になって、じっとヴァンタンを見る。
「そのときの船長はな」
指を一本立て、船員はゆっくりと言った。周囲も静まる。
「――野良犬に追いかけられて、逃げ回ってたんだ」
どっと笑いが上がった。これはどうやら、〈海の鈴〉連中には使い古された冗談なのに違いない。降りた沈黙は、決まりごとのようなオチを楽しみにする空気と、初めてそれを聞くヴァンタンがどう反応をするのかという期待の表れだったようだ。
ヴァンタンも一緒に笑った。やられた、というような顔をして。
しかし彼は役者ではない。
その笑みは、いささか引きつったろうか。
「冗談ついでに聞かせてくれ」
笑いを抑えきれない、という様子をどうにか作りつつ、ヴァンタン。
「船長はいったい、どんな獰猛な犬に追いかけられたってんだ」
「俺、見てたぜ」
ひとりが声を出した。
「でっかい、真っ黒な犬さ。正直、ありゃびびる。追われたら俺も海へ飛び込むね」
「……へえ」
きた。
そう、思わざるを得ない。
偶然に過ぎないと言えば、それで終わりだが――。
(犬に追われて逃げたのであれば、いくら大きい犬であっても、港にいた旦那たちには見えなかったかもしれない)
(しかし、そんなのがいれば〈一本角〉の連中だって話すだろうし、町憲兵だって船には乗り込んだはず)
(港をうろついてりゃ噂になるだろうし――)
突拍子もないだろうか、と青年は思案した。
(少し、聞き込んでもいいな)
これまで、特にこの件を突き詰めようとしたことはなかった。港で聞けば、案外簡単に犬の話が聞けるかもしれない。本当にいたなら目立っただろう。目撃者も多いはずだ。
少なくとも〈海の鈴〉の連中は、港付近で黒い犬など見ていなかった。もっとも彼らはライバン船長の「落下事件」のとき自分たちの船を清掃中で「見せ物」を見逃してしまったということだから、見ていなくても不思議ではない。
だいたい犬の話は彼らにとって冗談であるから、真っ当な――比較的、ということにもなろうが――〈海の鈴〉の男たちは、特にそれを町憲兵に話したりしなかったのだろう。
〈一本角〉の連中が言わないのは、「堤防から落ちた」と「船から飛び込んだ」では印象が異なるからだろうか。それとも、〈海の鈴〉側にはそれは〈一本角〉の数少ない笑い話だが、当の〈一本角〉にはいろいろ話題があってそんな話は薄れてしまっている、というのもありそうな感じだ。
それからヴァンタンはもう少し〈海の鈴〉号の船員と話をしたが、それ以上に興味を引く話題はなかった。医者とのつき合いも判らなければ、〈海獣の一本角〉の積み荷についても判らずじまい。
まいったな、というのが、店を出て、すっかり夜になったアーレイドの街を歩きはじめたヴァンタンの感想だった。
(黒い犬)
ビウェルに知らせた話のなかで、最も重要なおかつ曖昧な部分がそれだ。
アヴ=ルキンの犬に似ている。
これは、何の証拠にもならない。
(同じだと判れば、関係してることは確定なんだが)
(似ているだけで違う犬だと言われれば、それまでだ)
飼い主であればいざ知らず、普通、犬猫をざっと見分けるのは大きさや、あとは毛の色くらいにしかよれないだろう。
大きくて黒い犬。
この程度のことは、当てはまっても曖昧だ。
曖昧な共通点が重なったことは、物事を確かにするだろうか。
ビウェルであれば黒と見るかもしれない。正直、ヴァンタンも怪しいと思う。だが問題は、曖昧であった点がはっきりしたとしても、明確な罪には問えないことだ。
過去にルキンの犬が船長を落とした。今回もそうであったとしても、過失だ。危険な犬であるということで犬の殺傷処分くらいは命じられるかもしれないし、飼い主の管理不行き届きということにはなるだろうが、やはり警告どまり。
医者に薬を運んできた人間の傍らに犬がいたというのも、それがルキン当人でない以上、何かの間違いだとか、そのとき犬は逃げ出していたんだとか言い張られればそれまで。いや、やはり禁止されている薬ではない以上、ルキンが売人の影にいるとしても、町憲兵隊ができるのは警告だけ。
(俺にできるのは)
(ガキどもの説教くらいだよなあ)
何だか情けない。
(できることなら、製造元を突き止めて、二度と作れないようにしてやりたいもんだが)
(ルキンだろうと誰だろうと、俺がそいつの財産を傷つければ犯罪なんだよなあ)
理不尽なようにも思うが、たとえ相手が犯罪者でも、盗んでいいとか破壊行為をしていいとかいうことにはならない。乱暴を働くことが許される――と言うのは語弊があるが――のは、町憲兵をはじめとする、王の許可を持った人間だけだ。
よって、やはりヴァンタンがやるべきは、掴めることを掴んでビウェルたちに投げることだ。
そういう考えは以前から彼の内にあったものだが、近頃はますます際だった。自分が先走って、犯罪人になってしまったら? 妻アニーナはもとより、生まれてくる子供に顔向けできないではないか。
(一応、旦那に報告だけはしておくか)
黒い犬。
しかしヴァンタンも噂に聞いただけで、本当にルキンが犬を飼っているのかどうかも、確認した訳ではない。
(あー、そうだな)
彼は頭をかいた。
(何か見落としてないかな)
少し誰かと話をしようか。ビウェルかラウセアにでも話して、少し頭を整理した方がいいかもしれない。
(念のため、店に一旦、戻るかな)
おそらくもう閉まっているが――当番は、ヴァンタンが戻らないからといつまでも待っていることはせず、在、不在を示す札をひっくり返し忘れたのだと思うだろう――万一にも開いていれば明日の予定を確認できる。
くるりと踵を返したヴァンタンは、そこでぎくりとした。
街灯を背にした彼から見ると、そこは小昏い、闇だった。
距離ははっきりとしない。だが、そう遠くはない。遠くても、ざっと五ラクト。
だが判りにくい。
まるで彼のあとを尾けていたかのような、不気味に赤い双眸。それは青年の、腿から腰ほどの高さにあるようだった。
(――大きな)
(黒い犬)
すうっと、背筋が凍るように感じた。
ハッハッ、と獣の息遣いが聞こえたように思ったが、気のせいであったかも、しれない。
次の瞬間に赤い瞳は、何かの残像か蜃気楼であったかのごとく、暗い夜に溶けていってしまった――からだ。
(本当に)
(何かが……いたのか?)
確信はできなかった。
ただ、彼の鼓動が速くなっていた。
ヴァンタンはそのまま、伝説の〈カザンディムの悲劇〉を目の当たりにした人のように、長いことその場から動くことができなかった。




