03 どうにかなるさ
重い足取りで店に戻ると、客席の方で人影が立ち上がった。
トルスはびくっとし、それがファドックであることに気づいて息を吐く。
「ああ……悪い。いてくれたんだな」
「こんなことは何でもない」
少年は手を振った。
「お父上は」
ロディスは決して「お父上」という柄ではないが、いまはトルスも軽口を返す気になれなかった。
「先生の薬が効いた。いまは眠ってる。いろいろと、今後気をつけるべきことを教わったが」
トルスは、また息を吐いた。
「覚悟は、決めとかなけりゃならねえのかもな」
一度の発作で逝ってしまうこともあるのだと聞いた。ロディスは運がよかったと。
だが、その僥倖が二度、三度と続くとは限らない。抱えてしまった病の精霊を消し去ることはできない。ただ、気をつけて生活を送ればそうそうに再発することはないだろう、とクォルサーは真剣に言ってくれた。
できるだけのことはする、と親身になってくれた医師に礼を言って見送ると、トルスはしばらく、休む父親の傍らでじっとしていたのだった。
どうにも気分が重い。
「なあ、ファドック。お前、親は?」
何となく、問うた。少年は困った顔をする。はたと、若者は思い出した。
「父親は亡いって言ってたっけか」
麺麭職人の息子だと名乗ったとき、父も店ももうないと、少年はそう言っていた。
「母親は?」
「――父さんと一緒に逝った」
詳細を省いて、ファドックはそう答えた。そうか、とトルスは哀悼の仕草をし、ファドックは返礼をした。
「うちはなあ、母さんは、ほかの男と逃げちまったんだ」
トルスは肩をすくめた。
「ま、別に恨んでないし、むしろどっかで幸せにやってるならそれでいいと思うこともあるけど。……いてくれたらな、なんて思っちまった」
情けないな、とトルスは呟く。ファドックは首を振った。
「ひとりで不安になるのは、当然だ。だが、誰か頼りになる親戚なんかはいないのか」
ぽん、と思い浮かんだのはビウェル・トルーディの顔だったが、親戚であっても頼りにはならない、とトルスは一蹴した。向こうのロディスに対する評価は、リエーネを不幸にした男、である。病に倒れたと知れば、喝采でもするのではないか。
「〈血の繋がりより日々の繋がり〉。近くのおばちゃんにでも、何か手伝ってもらうさ」
彼はそんなことを言った。
「僕に手伝えることがあれば、言ってくれ」
「有難うよ」
感謝の仕草をする。少年はほとんど通りすがりのようなもので、トルスの父親のことなど関係ないと帰っていても文句は言えなかったのに、こうして留守居までしてくれた。有難い、と本当に思う。
「ああ、そう言や」
はたと若者は気づいた。
「お前、俺に何か話でもあったんじゃないのか」
ファドックの動向を思い出すと、飯時はトルスが忙しいようだと気づいて、落ち着いた頃にわざわざ戻ってきたということになる。落ち着くどころか、違う騒ぎの真っ最中だった訳だが。
「いや、いまはよそう。また改めるよ」
「気にすんな。言えって」
気軽な口調を取り戻してトルスは言うと、ふたつの木の杯を取り上げて水を汲み、ファドックのいる卓まで歩を進めた。
「あー、酒かなんか、飲るか?」
運んできてから気づいたが、少年はこれでいいと答えた。
「それで、何だ? お前のことだから、また果物の」
言いかけて、思い出す。
「ああ、そうだ。言うことがあったんだっけ」
「それだよ」
ファドックはうなずいた。
「昨夜、何か言おうとしていただろう」
「そうそう」
ビウェルの――と言うか、公正に言って、ラウセアの登場でもって話が変わってしまったのだ。変えたのはトルス自身だったが。
ともあれ、そこで〈青燕〉亭の息子は、この客席で聞いた話を少年に伝えた。
チェレン果を主産業としている小さな村で病が出たらしいこと。果樹の病がまさか人間に伝染るとも思えないが、その村では病による死者が出ているらしいこと。
ヴァンタンには「言うな」と言われていたが、あれは情報屋などに売るなということで、ファドックに話しても約束を破ることにはならないだろう、とトルスは考えた。
「ふん……」
ファドックは考えるように、口もとに手を当てた。
「果樹の病だというのなら判らなくもないが、ひとつも見ないのはやっぱり不自然だ。どこもかしこも全滅、なんてことはあるのかな」
「さあな。あるんじゃねえ?」
「それに、死人、か」
少年は顔をしかめた。
「果樹の件とは関係ないといいんだが」
「俺もそう思うよ」
果樹から人に伝染るなら、人から人にももちろん伝染るだろう。それも死ぬような病。そんなものに流行られてはたまらない。
「何と言う村かは聞いたか」
「えっと」
トルスは記憶を探る。
「ザン……何とか。ええと、ああ、そうだ、ザンシル」
確かそんな名前だった、と若者は思い返すようにうなずいた。
「有難う、トルス」
「うん? 何か参考になったか」
「まあ、そんなところだ」
少年は曖昧に答えた。彼自身の参考というのではないが、こんな話があれば王城も動くかもしれない、とは考えていた。
「何だかはっきりしねえ返答だな」
トルスは指摘したが、ファドックがただ笑みを浮かべただけなので――何となく腹が立った。
少年が隠しごとをしているのは明らか。言えないなら言えないでかまわない。追及はしない。
だが、トルスは「隠そうとしてるこたあ判ってんだぞ」と言ったのである。すまなさそうにするとか、困るとか、焦るとか、判りやすくもごまかそうとするとか、そういった態度が現れて然るべきではないか?
(とことん、ガキらしくねえ)
一度こいつを泣き喚かせてみたいものだ、などと彼は少し思った。
「営業は、どうするんだ?」
ファドックは尋ねてきた。んー、とトルスは頭をかく。
「半刻ごとくらいには親父の様子見たいし。店は空けらんないし……休業かな」
そうは言うものの、〈青燕〉には大して貯えがない。前日の儲けでその日の材料を仕入れているようなものだ。いや、そこまで極端ではないが――そう幾日も休むことはできない。
「助っ人、探すかあ」
昼間は自分ひとりでどうにかするとして、夜はいつもの手伝い人に毎日開店から閉店までいてもらって給仕を任せ、厨房にもうひとり。
「あー、駄目だ。給金出せねえ」
トルスは呪いの言葉を吐いた。給仕ふたりをたまに雇うくらいでぎりぎりなのである。無理だ。
「ひとりでやるっきゃねえな。まあ、どうにかなんだろ」
まさかファドックに手伝ってくれとも言えない。昨夜、少年が「トルスは剣など使えない」と考えたであろうように、ファドックが鍋など振ったことがないのには賭けてもいいし、だいたい、無償で手伝ってくれと言えないのは給仕たちと同じことだ。
「ま、どうにかなるさ」
気軽を装って、料理人の息子は繰り返した。
「トルス、もし」
「待った」
「もし僕で助けになるなら手伝おうか」。そう続きそうに感じて、彼はそれを制した。
「気にしてくれんなら、また飯食いにきてくれ。これはつまり『金を落としていってくれ』ということだ」
「判った」
ファドックは短く答えた。




