10 いい薬がある
先頭を切って〈青燕〉亭に駆け込んできたのは、当然、そのひとり息子だった。
「親父! ファドック、親父は!」
「気を失った。呼吸はしているが、急に細くなった。脈は速く、ときどき、飛ぶ」
少年はトルスと、同時に医師に向かって現況を説明した。クォルサー医師はうなずく。
「判った。あとは任せなさい」
ファドックはすっと立ち上がり、クォルサーに従った。トルスはふらふらと医師についていきかけたが、ファドックがそれをとめる。
「お医者様に任せるのがいい」
「判ってる。ただ……」
「何かしたいなら、手でも握っていてやれ」
鞄から注射器を取り出しながら、クォルサーは言った。今度はロディスの息子がうなずく。
「ふん、五十半ば……六十近いというところか? 年齢だな、どうしようもない」
駆けつけてきたトルスとクォルサーのあとから、ゆっくりやってきた姿が声を出す。ファドックははっとなってそれを見た。
「おや、これは。どこかで見覚えがあると思ったら、昨日の坊やたちだったな。君を見たら思い出したよ」
アヴ=ルキンはそう言うと、ファドックを見て笑みを浮かべた。少年は唇を結んだまま、応対しなかった。
「昨夜にも思ったが、どこかで会わなかったかな、少年?」
「いえ」
硬い声でファドックは否定した。
「そうだったかな? 君によく似た少年を……北区の館で見かけたことがあるような」
「別人でしょう」
きっぱりと否定を繰り返し、それからファドックは長身の男に対峙した。
「ですが、僕の方ではあなたを知っていますよ。ルキン先生」
「これはこれは。私はそんなに有名かな」
意識を失った病人がすぐ近くにいると言うのに、医者は楽しそうに笑った。
「どうしてこのようなところに?」
「たまたま、クォルサー先生のところを訪れていた。私と君たちは、縁が深そうだね」
「とんでもない」
恐縮している意味合いに取れる台詞だが、無論と言おうか、ファドックにしてみれば「冗談ではない」であった。
「これで、少し様子を見るしかないだろう」
注射を終えたクォルサーが呟いた。
「床は冷える。トルス、寝台はどっちに」
「み、店にはない。自宅は、すぐ近くだけど」
「そうか。担架も持ってくるべきだったな」
「ご不要」
ルキンが指をぱちりと弾いた。
「サリアージ」
すうっと、影が入ってきた。いや、それはもちろん影ではなく、実体だ。黒い髪に黒い肌、全身に黒い服を身につけた若者がルキンの横に従う。
「あの少年の」
と、ルキンはトルスを指した。
「指示する場所に、患者を運びなさい」
「いや、ちょっと無理でしょう、ルキン先生」
クォルサーが戸惑った。
「ロディスはそちらの彼より、ずっと体格がいい」
「サリアージは見た目より、ずっと力がある」
ルキンはそう返した。
「君。トルスと言ったか。案内を」
「あ、ああ」
トルスは父親の手を握ったままで返事をしたものの、サリアージと呼ばれた若者は、見た感じ、明らかにトルスよりも力がなさそうだ。彼だって、ロディスを抱きかかえるのはきついと思うのに。
しかしサリアージは、少しも躊躇うことなく、ロディスの傍らにひざまずいた。トルスの手を放させ、床と男の身体の間に手を差し入れると、まるで小さな子供を抱くように軽々と持ち上げてしまう。トルスはぽかんと口を開けた。
何も言わず、サリアージはトルスをじっと見た。料理人の息子ははたとなって、こっちだと案内をする。
「こりゃ驚いた」
クォルサーが呟く。
「ともあれ、私も行こう。君は……」
「トルスの友人です」
ファドックはそう答えた。
「そうか。それならトルスが戻ってくるまで店番をしてやっててくれ。もちろん何か料理をしろと言うんじゃなく、火事場泥棒からの見張りだけで充分だ」
「判りました」
何も聞き返すことなく、少年は了承した。
ちょっと見ていれば、〈青燕〉亭が父子ともども留守であることはすぐに判る。もしも不埒なことを考える者がいて、盗みにでも入られれば、父子は踏んだり蹴ったりである。
「ルキン先生は」
医者は医者を見た。
「先ほどの話は後日、改めて。サリアージには、帰るように言ってやっていただければ」
「そうしよう」
クォルサーはうなずくと、〈青燕〉亭をあとにした。ルキンも続くかと思いきや、質のいいマントを羽織った医者は、下町の医者を見送ってその場に留まった。ファドックは顔をしかめる。
「何か」
「いや、お友だちがいなければ認めるかと思ったのでね」
ルキンはじっとファドックを見た。
「ルーフェス・キド閣下の養い子だな」
「……何を言っているのか判りませんね、先生」
少年は顔をしかめて首を振った。ルキンは笑う。
「なかなか悪くない演技だ。賢い子だと聞いていたが、ひとつ自覚がないようだから教えよう」
ゆっくりと、ルキンはファドックを見た。
「君は、強い印象を残す」
覚えている、とルキンは言った。ファドックは黙った。
「ずいぶんと緊張しているようだが、どうかしたのか? もしや、下町で遊んでいることを閣下に知られたくないのか。それなら安心するといい、告げ口などはしないから」
ファドックは黙っていた。
「どうかしたのか?」
ルキンは繰り返す。
「友人の父親が心配? それなら」
すう、と男が動いた。少年はぴくりとする。
「いい薬がある」
医者はファドックのすぐ脇にまで寄ってくると、持っていた鞄を厨房の作業台の上に置き、開くと何かを取りだした。
それは、子供の拳大ほどの、小さく細長い瓶だった。底が丸いのが特徴的だ。
「この薬は痛みをなくしてくれる。クォルサーは持っていない。それなりの金額がするものだが、必要ならば都合をつけようと話をしにきたのだ」
しかし、とルキンは続けた。
「君に免じて、ふたつ三つ置いていこう。さっきの少年に……」
「けっこうです」
そこでファドックは声を出した。
「借りを作るつもりはありません」
「ほう」
ルキンは片眉を上げた。
「ここのご主人が苦しんでいてもかまわない、という訳か」
「『痛みをなくす』と言われた」
ファドックはじっとルキンを見た。
「『治す』訳では、ない」
「それは、無論」
医者は肩をすくめた。
「先ほども言ったように、年齢だ。年月を重ねることで身体にがたがくる。どうしようもない」
淡々とルキンは、先ほどと同じことを言った。
「クォルサーの使った薬も、胸の痛みを一時的に鎮静させるだけのものだろう。ああいった、年齢からくる病は治らないのだ、少年」
それは事実であるかもしれない。
しかし少なくとも、治そうという努力や――気遣いには欠けた。
王陛下が同じ病に倒れても、この男は同じことを言うのだろうか?
同じことが言えるならそれはそれで大したものだし、街の王になら不敬で下町の料理人にならかまわないというものでもない。
しかし少なくとも。
ランスハルなら、こうは言わないだろう。
事実を言ったとしても、手を尽くすだろう。
王陛下にであれ、使用人にであれ。
ファドックも宮廷医師ランスハルに診てもらったことがあった。キドがファドックを拾ったとき、血塗れだった子供をランスハルに預けたからだ。
もっともファドックはほとんど傷を負っておらず、浴びた血の多くは、賊から息子を守った両親のものだった。
それでも、心に深い傷を負った子供にランスハルは親切にしてくれた。彼もまた、ファドックの恩人だ。
こんな男がランスハルに換わって宮廷医師の座に就くなど、許せるものか。




