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幸運の果実  作者: 一枝 唯
第1話 発端 第3章

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07 君が呼んでくるんだ

 力仕事をしていると、余計なことを考えずに済む。

 トルスは滅多に覚えぬ奇妙な感覚をひとまず忘れ去り、決められた場所に卓や椅子を並べる作業を黙々とこなした。

 こういった共有の仕事は道徳に頼っているところがあって、当番や係などは決まっていない。巧いことさぼろうと思ったら、一切手を煩わせずに利用することができることになる。

 だがそういう狡いことをやればちゃんと知れるもので、あまりにあくどければ屋台街を追い出される。自然、彼らはこれを仕事の一環と考えていた。

 見知った顔と何ということもない雑談を少し交わしたあとで、トルスはのんびりと〈青燕〉亭に戻った。

「おい、親父。夜用の仕込みだけどよ」

 勝手口の戸をばたんと開けて、トルスは父親を呼んだ。

「ラックの爺さんが、(コット)を大量に入れすぎたって言うから少し分けてもらっ――親父!?」

 心臓が、どくっと大きく音を立てた。

「おい、親父、どうしたんだよ!」

 今日明日という話ではないと、そう考えたばかりだった。

 まるで若者の呑気な思考を〈名なき運命の女神〉が叱責しようと考えたかのように――トルスは、ロディスが苦しそうに胸を押さえてうずくまっている姿を目にする。

「だい……大丈夫だ、ちょっと……」

 疲れただけだとか、転んだだけだとか、ロディスがそんなことを言おうとしているのは判った。同時に、そんなはずのないことも。

 いつも健康的な父親の顔色は、怖いくらいに白くなっている。トルスの顔面からも、すうっと血の気が引いた。

「どう……そうだ、とにかく横になれ!」

 トルスは父親のもとに駆け寄ると、しゃがみ込んで手を添え、そのまま床に寝かせた。ロディスの息は、尋常ではなく荒い。

「いま、何かかけるもの持って……あ、水、水とか、要るか。ああ、ええと……どうすりゃ」

 どうすればいいのか。

 トルスの頭のなかは、真っ白になっていた。

「そうだ、医者!」

 はっと思いついて立ち上がったが、足が動かせない。このロディスをひとりにしておくなんて。

「――トルス?」

 戸口から、声がした。

「どうした? 何か騒いで……」

「ファドック!」

 中途半端に開いた扉から遠慮がちにのぞき込むようにしている黒髪の少年の姿に、若者は叫び声を上げた。

「頼む! 医者、呼んできてくれ。親父が」

「馬鹿……野郎。そんなもん、呼ぶな。すぐに……治る」

「どっちが馬鹿だ! いいから黙れ、黙ってろ。そうだ、水!」

 瞬時に状況を見て取ったファドックは、ぱっと〈青燕〉亭のなかに入ってきた。

「落ち着け、トルス」

 少年は低い声で言うと、トルスの肩を強く掴んだ。思わず、若者はびくりとする。

「僕はこの辺りのことは判らない。医者は、君が呼んでくるんだ」

「でも……親父が」

「大丈夫。僕が見ている」

 もちろん、その言葉には何の意味もない。口にしたファドック自身、それを理解していた。だが実際、ファドックが誰かに診療所の場所を尋ねながら走るより、トルスが行った方が早い。

「行け!」

 ぱん、と少年が手を叩いた。年下の少年に命令されることに反発など覚える暇も余裕もない。トルスはぱっと踵を返し、アーレイドの街並みに走り出た。

(そうか。ナティカは無理か)

 つい先ほど交わしたばかりの会話が蘇る。

(あの子がお前の嫁になってくれたら)

(安心できると思ってるんだが)

 父には何か、病気の自覚があったのだろうか。

 トルスには唐突に聞こえたが、ロディスは何か――思うところがあって。

(親父も)

(年取ったのかな)

 つい先ほど、ふっと考えたこと。

(――ええい!)

(考えるな!)

 トルスは走った。

 まだ真昼と言ってもおかしくない時間帯、全力で走って人並みを縫う彼にぶつかった者が、口汚く罵る。

 だがそんな言葉は耳に入らない。トルスはいちばん近い診療所にたどり着くと、戸を叩きもしないでそれを開けた。

先生(セラス)! すぐにきてくれ、親父が倒れた!」

「何だって」

 三十代後半ほどの医師が、室内の半分より奥にある掛け布の向こうから顔を出した。クォルサー医師はこの辺りの馴染みで、トルスも何度か診てもらったことがある。信頼できる人だ。

「どんな具合だ」

「こう……胸に手を当てて、苦しそうに息を」

 トルスは、まるで自分が苦しんでいるような表情を浮かべてしまう。

 状景を思い出せば――本当に、自分の胸も痛くなるようだった。

「判った。すぐに行こう」

 クォルサーはうなずいた。

「済まないが、話の続きはまたあとで」

 医師は掛け布の向こうの誰かにそう言った。

「いや、私も赴こう」

 声が返した。

「心の臓の痛みであれば、私にも何か協力できることがあるかもしれない」

 その声には聞き覚えがある――ような気がした。

 だがトルスは、誰であろうかと記憶をほじくり返す必要はなかった。

 ふわりと掛け布がよけられた。

 よく見覚えのあるクォルサー医師が、往診用の鞄を手にしている。

 布を開けたのは彼ではない。全体的に白っぽい色をした部屋のなかでどきりとさせる、それは黒髪黒目、黒い服を着た若者。

 そして、若者が確認するように振り返った視線の先にいたのは――下町の診療所にはついぞ似合わぬ、上等のマントを羽織った男だった。


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