01 キド伯爵
結局のところ、町憲兵隊で「待っていろ」と言われたのは何かの手違いで、それぞれ連絡先を知らせた彼らはもう帰ってかまわなかった。
トルスは、人の迷惑を考えない町憲兵隊の仕事ぶりにひとしきり苦情を言ったが、ナティカはすっかり夢見心地でラウセア青年に送られていった。
少女が町憲兵に惚れ込んでいるのは傍目から見ても明らかであったが、当のラウセアはどう思うのか、事件に巻き込まれて不安になっている女性を無事に送り届けるのは仕事の一環である、とでも考えている風情だった。
残された当事者ふたりは、何となく当てられた感じになって、あまり中身のない挨拶をすると分かれた。
そうしてしばらくひとりで歩いてから――ふと、ファドック・ソレスは思った。
(トルスは何か……)
(言おうとしていた、ようだったな)
既知の町憲兵ふたり組が現れる寸前、料理屋の息子はチェレン果について何か話そうとしていたのだ。ビウェルの顔にトルスはそれを忘れ、ラウセアを見てはナティカの応援に移ってしまったから、そのあと、続きは出なかった。
(引き返そうか)
そうとも考えたが、もう夜も遅い。あまり遅くなると、トルスにもだが、キド伯爵に迷惑がかかる。
黒髪の少年はその案を諦め、明日に時間が取れれば明日、取れなければ次の休日にでも噂の〈青燕〉亭を探してみようと考えた。
「おう、ファドックか。珍しいな、夜に出歩くなんざ」
伯爵の館に戻れば、使用人用の裏口を守る門番が少年に声をかけた。
「生意気に、女でもできたか?」
「そんなんじゃないよ」
苦笑してファドックは手を振った。
「ちょっと友人に会ってきた」
トルスとの再会は偶然であって目的ではなかったが、別に嘘ではない。二度会っただけであるから、友人かどうかは微妙なところではあるが。
「閣下は。もう、お休みかな」
「さて、どうかね。放蕩がばれないようにと言うなら、黙っててやるよ」
ファドック・ソレスという少年は品行方正もいいところだったから、門番のこれはちょっとした冗談という辺りだ。ファドックはにっと笑って片手を上げ、館の裏口へと向かった。
ルーフェス・キド。
少年の主人は、アーレイド王ハワールに仕える伯爵である。
ファドックが身寄りを亡くしたとき、キド伯爵が幼かった彼に手を差し伸べてくれた。何の縁もないのに、実の息子のように可愛がってくれて、教育を施してくれた。
彼はキドに多大な恩がある。キドのためなら、何でもしたいと思っていた。
与えられている自室に戻って外出用の上衣を脱ぐと、剣を外す。それからはっとなって鞘からそれを引き抜き、顔をしかめた。
わずかだが、賊に斬りつけた際の血糊がついている。拭ったつもりでいたが、完全ではなかったようだ。
師匠たる館の護衛隊長に見つかれば、厳しい叱責を受けるだろう。いくら悪党相手であり、向こうが先に刃物を出していたのだとしても、街なかで剣を抜くなど。
叱責を怖れるのではない。叱られるだけのことをしたのだから、叱られるべきだとも思う。だが、どうしてそういうことになったのだとか、何をしていたのかだとか、そういったことを当然尋ねられるだろう。
答えられないというのではないが、いささか、話は長くなる。
いっそ恋人がいるのだとでもいうことにしてしまおうか、と少し思ったが、ではどこの誰だと面白がって追及されることは目に見えていた。少年はその思いつきを却下しながら、剣をきれいにした。
これで大丈夫だろう、と納得すると少年は少し考えた。
(やはり閣下に)
(少しお話を伺った方がいいだろうか)
アヴ=ルキン。
何だか気にかかる。
トルスには曖昧な伝え方をしたが――アヴ=ルキンという医師は、宮廷医師の座を狙っているようなのだ。
現在の宮廷医師ランスハルは若い内にその地位に就き、何ら問題なく任務を全うしているが、王子妃殿下に懐妊の兆しがないのは医師の責任だという声も出はじめている。
キドのところへアヴ=ルキンがやってきたのは、自分を後継にという「売り込み」であるらしく、何でも、ほかの貴族と繋がりがあるのだとか。
それらの話をキドから直接聞いたのではないから、正確なところは判らない。だが、ルキンが帰ったあとは伯爵の機嫌が悪く、嫌いな賄賂でも差し出されたのではないかと使用人たちは推測していた。
そのような男であれば、キドがルキンを城に推薦するということは有り得ない。しかし、ただしつこかったという程度であるかもしれない。それを熱意と取れば、何かの折りに名前を出すことくらいは有り得た。
もちろんファドックには、キドの考えに口を挟む権利などない。
それでも、先のちんぴらの様子が気にかかる。
(――ルキンさんだ)
あれは、医者に対する態度ではない。少なくともファドックはそう思った。
何か、裏のある男のような気がする。キドが本当に「売り込み」を相手にしていないならかまわないが、万一のことがあっては。
(お話ししよう)
心を決めたファドックは、就寝前の伯爵を訪れた。
「閣下。お休みのところ、申し訳ありません」
丁重に扉を叩き、許可の応答を聞いてキドの私室に入れば、三十代後半ほどの伯爵は、少年の思いがけない訪問に驚いた顔をしていた。
「何、読み物をしていただけだ。かまわんが」
言葉の通り、キドは卓上の本に手を置いていた。開いていた頁に栞を挟み、それを閉じると少年に向き直った。
長めの茶色い髪は普段はまとめられているが、このときは解かれていた。薄青い目が、不思議そうにファドックを見る。
「どうした。珍しいな」
「閣下のお心を煩わせますのは、気が引けるのですが」
そう前置くと、キドは笑った。
「確かに、城に上がってもおかしくないようにと礼儀作法まで教えさせているのは私だが、公式の場でもないのにいちいちそう固くならなくていいんだぞ」
「そういう訳には、いきません」
彼がキドと一対一で話すことはあまりないのだが、それでもこれはいつものやり取りと言えた。キドはファドックを息子のような位置に据えたがり、ファドックの方では恩人への礼を忘れない。
「何か気にかかることでもあるのか」
「以前に閣下を訪問した、アヴ=ルキンという医師のことなのですが」
その名を口にすると、キドの顔はしかめられた。
「嫌な男だったな」
まず、キドはそのような感想を口にした。
「あれがどうした」
ファドックはざっと、経緯を説明した。キドはますます、顔をしかめる。
「破落戸とつき合いのあるような男か。貴族並みの大層な格好をする金をどこから得ているのやら」
キドはもちろん、本物の貴族だ。しかし慎ましやかなところがあって派手な格好はしない。
そんな彼を訪問したときのアヴ=ルキンは、何も知らぬ者が見ればキドではなくルキンの方が貴族だと思いそうな、金のかかった出で立ちをしていた。
医者にも様々だ。
トルスが言うところの「下町の藪医者」などは、決して金持ちではない。本当に藪かどうかはさておいて、貧乏人を診るというのはろくな報酬が得られないということであるから、能力と野心のあるものは金持ちだけを相手にしたり、小さな診療所などやらず、大病院に勤めて給金をもらったりする。
そうなってくると金持ちの部類に入ってくるものの、ちょっといいものを着られるとか、高級な料亭で食事ができるとかいった段階である。ルキンのように上から下まで上等な服装をしているということはあまりなかった。
「あの男が閣下に、次の宮廷医師として推薦してほしいというような話をしてきたと聞きました」




