09 黒い犬
「――使えるのか?」
胡乱そうにファドック。
「こいつとつき合って、五年は経つぜ」
トルスは言い放った。主に根菜の皮むきとか、芋の芽を取るくらいにしか使わないが。
「無茶はするなよ」
「そっちこそ」
現状、これでこちらは一応ふたりとも武装、向こうのひとりは武器を落としたから一見したところでは優位に立ったようだが、もちろんトルスは、こういう形で刃物を扱ったことはない。慣れないものはやはりしまいこんで、避けるのに徹した方がいいだろうかとも思った。
しかし彼の手に武器がないと、ファドックが案ずるようだ。少年がトルスを下がらせて二対一と考えるようでは、巧くない。
トルスは見よう見まねで小刀をかまえた。ファドックも姿勢を正す。
ちんぴらどもはこれでもまだ戦意を失わず、まるで仇のような目で彼らを見た。
様子を見るかのようなわずかな静寂にトルスがこらえきれず、無謀にも先陣を切ろうとした、そのときだった。
「何をしている! やめろ!」
朗々と声が響いた。大人の男の声であり、刃物をかまえている若者たちに対して少しも臆するところのない、堂々としたものだった。
(ナティカが町憲兵を連れてきてくれたのか?)
トルスはほっとしてそちらを見たが、おやっと目をしばたたく。
そこにいるのは、よく見るえんじ色の制服ではなかった。黒いマントを身につけた四十がらみの男だ。
「馬鹿な真似はやめるんだ。倒れている者も連れて去れ」
「何だとう。てめえ、いきなり現れて何を」
「よせ、グリー」
「何だよ、チェン」
「……見ろ」
チェンと呼ばれた、最初から刃物を持っていた男が、仲間を制した。何を「見ろ」と言ったのか、それはトルスにも明らかだった。
男の傍らには、彼の腰よりも高い位置に頭が届く――大きな黒い犬がいた。
こんな犬に襲いかかられたら、ひとたまりもないだろう。人間と違って、刃物に躊躇することもない。
だがちんぴらどもは、犬を怖れたというのではなかった。
言葉はこう続いた。
「……ルキンさんだ」
「ルキン? って、それじゃ、あの」
夜目にも判るほど、グリーの顔色が青くなった。
「す、すみませんルキンさん。いや、俺たち、いっつもこんなことしてる訳じゃなくて、いまはちょっと、たまたま」
何がたまたま、とトルスは乾いた笑いを浮かべた。
「いいから行きなさい。このことは、覚えておく」
ルキンと呼ばれた男は言い、チェンはとても困った顔をしたが、それ以上は言い訳をせずにグリーを促してふたりで残りのひとりを引っ張り上げると、その状態で可能な限りに速く、その場から立ち去った。
「あー、ええと」
頭をかいたのは、トルスだった。
「礼、言った方が、いいんかな?」
「いや、不要」
ルキンは手を振った。
「すぐそこで、町憲兵を捜すお嬢さんと行き会った。彼女にはそのまま町憲兵を求めてもらったが、私に何かできればと思ってやってきただけのことだ。言葉の通じる相手で、助かった」
「はあ」
トルスには、あの不良どもとあまり言葉が通じていたとは思えないのだが。
「あー、あれらと知り合い、なんすか」
じろじろと男を見ながら尋ねる。
見たところ、下町の路地裏などにいるのが似合わない感じの男だ。温暖なアーレイドでは暑いのではないかと思えるようなマント。白い手袋までしている。なかの上衣には刺繍模様が見えた。それに、泥はねのない編み上げ靴。連中が見かけたら、よい獲物と判断して襲いかかりそうな、ご立派な格好である。
もっとも、隣にいる犬は護衛なのかもしれない。その辺にいる野良犬のように痩せこけてはいないし、かと言って太っているという感じでもない。大きいが、俊敏そうだ。狩猟犬か何かだろうか、とトルスは考えた。
「知り合いというほどでもない。彼らのような連中も、私の患者にもなることはあるというだけ」
「はあ?」
「私は医師なんだ」
「……はあ」
どうにも似合わない感じがする、と思いながらトルスは言葉を返した。医者と言うよりは、金持ちの商人とか、或いは下級貴族くらいとか。
だいたい、医者が狩猟犬のような大きな犬を連れ歩いているというのも奇妙な感じだ。そういうのは、それこそ貴族か何かである。
だが医者と言うのならそうなのだろう。そんな嘘をつく意味などないように思うからだ。
「ああいった連中には、喧嘩の怪我を治療してやるたびに、もうそんなことはしないと約束させるんだが、やはり騒ぎは減らないものだな」
ルキンは肩をすくめた。
「君たち、怪我は?」
「いや、ないっす」
「それはよかった。医者の手にかからずに済むというのは、いいことだ」
「はあ」
トルスは曖昧な答えをまた繰り返してしまった。
「では、私は行こう。そろそろ町憲兵もくるだろうな」
男は振り返るようにした。
「済まないが、町憲兵隊に私のことは言わないでくれ。不良少年たちに睨みが利くなどと思われれば、あらぬ誤解を招く」
それにはトルスは笑ってしまった。確かにビウェルであれば、全く意味不明な理屈で、この医者まで不良少年の仲間にしてしまいそうである。
「判った。言わないでおく」
彼は片手を上げた。ルキンはうなずく。
「君たちも、見つかりたくなければ早めに立ち去った方がいい」
「俺らは別に」
やましいことなんかない、と続けようとしたが、ルキンは既に踵を返していた。真っ黒い犬も、そのまま主人のあとに続く。
何となくそれを見送りながらトルスは、何なんだと呟いた。
「まあ、助かったってなとこかな。おいファドック。お前、どうす――」
町憲兵に話すか、と言うようなことを相談しようとしたトルスは、少年がじっと男の背を見つめているのに、少し戸惑った。
「……どした?」
「何だか、おかしい」
「何が」
「ルキン……アヴ=ルキン。確かにアーレイドの医者だが」
「知ってるのか」
驚いてトルスは瞬きをした。
「中心街区の、大きな病院の一医師だ。ちんぴらの喧嘩を診るような、下町の診療所の医者じゃない」
「おい、何だよそれ」
トルスはむっとした。
「貧乏人は立派な医者に診てもらっちゃおかしいってのか」
「そうは言ってないだろう」
ファドックは否定をして、トルスに視線を移した。
「もっとも、本当に『立派な医者』なら、分け隔てなく診るべきだが」
「言っとくがな、無一文だったら下町の藪医者だって診ちゃくんねえんだぜ」
「判ってるよ。忘れたのなら言うけれど、僕はお坊ちゃんじゃないんだから」
「忘れてねえよ。でも、いまはいい暮らししてんだろうが。体術だけじゃない、剣も教えてくれる『先生』がいるって訳だ」
その指摘にファドックは、抜き身の剣を手にしたままだったことに気づいたか、すっとそれを鞘に収めた。それを目にしてトルスも小刀のことを思い出し、慌てたようにしまい込む。
「この前はそんなもん、持ってなかったな」
「あんまり持ち歩くものでもないだろう。ただ、前回の件で念のためと思ったんだけど」
ちょうどよかった、などと少年は嘯いた。
「それはまあ、いいけどよ」
実際ちょうどよかったし、などと言ってトルスは、ルキンを見るように路地の先を見たが、角を折れたか、もう医者の姿は見えない。
「お前の言い方だとよ、いまのは『立派な医者』ってことか?」
ちんぴらを治療したならそういう話になりそうだ。だが黒髪の少年は首を振る。
「本当に……そういった連中を診たのかな、と疑ってるんだよ」
「は?」
疑っているなどとは穏当でない。
「じゃ逆か。立派じゃないってのか」
「何とも言えない。僕が診てもらった訳じゃないし」
ただ――と少年は言い、そこで言葉を切る。トルスは続きを待ったが、なかなか発せられなかった。
「ただ、何だよ」
「何でもない」
「何だそりゃ」
むっとしてトルスは追及しようとしたが、それは為せなかった。先頭を切って角を曲がってきたナティカのあとに、ふたりの町憲兵が続いてきたからだ。
「あー、どう話す?」
「ありのままを」
ファドックは短く答え、はいはいとトルスは応じた。




