08 二度と僕にかまうな
(ええい、どうする、トルス)
若者は迷った。
(見て見ぬふりが、いちばん穏当)
(だと、判っちゃいるが)
これが知った顔でなければ、トルスは躊躇なくこの場をあとにしたはずだ。
相手は、三人。ふたりなら二対二でどうにか行けるかもしれないが、刃物を持っていることを考えれば、正直厳しい。
ましてや、ナティカがいる。
危ない目に遭わせる訳にはいかない。
(――ちくしょう)
「ナティカ、どっかで町憲兵、見つけてきてくれ」
「ちょ、トルスっ」
喧嘩くらいなら慣れている。だが、武器を持った相手とやり合ったことはない。危険な真似だと思うし、理性はとっとと逃げろと言う。
しかし、見覚えのある顔が明日の朝、港に揚がっていました――などとなったら、気分が悪い。
料理人の息子は石畳を蹴ると一気に距離を詰め、ここはもう躊躇うところではないとばかりに、不良のひとりに思い切り体当たりをした。
体格のいい彼に不意を打たれたちんぴらは、うおっ!――と間の抜けた悲鳴を上げて地面に倒れ込む。残りのふたりと、被害者は驚いてトルスを見た。
「何だ!?」
「おい、こいっ!」
トルスはファドックに叫んだ。だが無茶な要求だった。少年は胸ぐらを掴まれたまま、刃を突きつけられているのである。
「どこの馬鹿だか知らんが、邪魔すんじゃねえ!」
その言葉にトルスは少し安堵した。先日、彼を〈青燕〉の息子と見分けた年上の男は、今日は不在のようである。ファドックの方は覚えられているらしいが、この状況においては、忘れてもらっている方が有難い。
「なら、遠慮なく」
彼は呟き、続けざまにもうひとりに立ち向かうと、言った通りに遠慮なく殴りつけた。ぶぎゃあ、とみっともない悲鳴が響く。
これは、トルスがとても強いというのではない。少年を脅すという行為にかまけていた不良たちはまだ戦闘態勢が整っておらず、その隙を突いたからこそできたことだ。
「このガキ!」
かっとなったちんぴらは、愚かにも手と刃をファドックから放し、トルスに向かおうとした。だが訓練を受けている少年がのんびりとそれを見守るはずもなく、次の瞬間には、ファドックよりも大きな身体をしたちんぴらが、華麗に宙を舞うことになる。どおん、と鈍い音が響いた。
「よう、坊ちゃん」
トルスはにやりとした。
「また会ったな」
「呑気な挨拶は、もうちょっとあとに取っておいた方がいいんじゃないか」
ファドックは淡々と答えた。
「何ぃ。もうちょっと、『有難うございます』とかないのか」
「状況がよくなってるとは、大して思えないよ」
その指摘はしかし、もっともである。
トルスの奇襲とファドックの体術は、三人の不良を怒らせただけだったからだ。痛みが彼らのなけなしの理性――あったとしても、小指の爪先くらいのものだろうが――を完全に失わせ、そのうちのふたりが刃物をかまえた。
「仕方ない」
呟いたのはファドックだった。
「先生に怒られることを気にする場合じゃないな」
耳慣れない音がした。何だろうと目を向けてトルスは驚く。
少年の手には、鋭い光を放つ細身の剣が握られていたのだ。
剣などというものを持つのは、町憲兵や軍兵でなければ、戦士たちくらいだ。一般の人間は、短剣などを持つことはたまにあっても、せいぜいその刀身は二十ファイン。掌を拡げた程度の長さがあるかないかだ。
しかしファドックが抜いたのは、紛れもなく「剣」と呼ばれるもの。
刀身は一ラクト弱あるだろうか。町憲兵が使うような、幅広のものではない。強い打撃を受ければ折れてしまいそうな、細い刃。
刃物ならば、トルスも見慣れている。彼が日々握る、包丁というやつだ。だがその存在意義は明らかに異なる。食材を刻むための刃物と、人を傷つけ、場合によっては殺めることもある武器。
もちろん包丁だって、振りかざせば武器になる。獣の肉を切れるのだ。人間だって斬れるに決まっている。
だが、そういう話ではない。
剣にあって包丁にはないもの。
迫力とでも言うそれに、不良連中は明らかに怯んだ。刃物をちらつかせて善良な人々を脅している輩が、より強力なものの前に、怖れの表情を浮かべる。
「去れ。二度と僕にかまうな。この彼にも。そうと誓うなら、何もしない」
「な……生意気言いやがって!」
我に返ったのは、最初から刃物を手にしていた男だった。年下の子供に気圧されたことを恥とでも思ったのだろう。感じた恐怖を格の差と知って武器を引けるほどの分別があれば、下町でちんぴらなどやっていないのだ。
「ガキが、まともに使えるもんか! やっちまえ!」
「お、おう!」
その言葉に残りのふたりもはっとなって、体勢を整える。ファドックは嘆息した。
「危ないから、下がってて」
どうやらそれはトルスに対して発せられた台詞のようである。若者は思わず、むっとした。
「馬鹿にすんな。ちゃんばらは任せてもいいがな、刃物持ってない奴は、俺が引き受ける」
「無茶だよ。整然と襲いかかってくれる訳じゃないんだから」
「お前に言われるまでもない。喧嘩なら、俺の方が絶対に慣れてる」
「でも、こうして武器が絡めば、僕の方が慣れてるね」
「……この野郎」
生意気言いやがって、とトルスも言いたくなった。
「ガキども、死ねっ」
男が短刀を振りかざした。トルスは思わず後退し、ファドックはするりとよけると足をぱっと出した。気持ちいいくらい見事に、不良はそこに引っかかる。
「剣に気を取られると足元が疎かになるって言うのは、本当なんだな」
それは別に不良を馬鹿にしたという訳ではなく、何だか納得しているような雰囲気だった。「先生」にそのような指導でも受けたことがあるのかもしれない。
「お前、こういうの、〈油をかぶって火に飛び込む〉ってんだぞ」
怒りを助長しているだけである。
「適当に諦めてくれればいい、と思ってるんだけど」
言いながらファドックは、一歩を踏み込んだ。かまえていた剣を素早く持ち直し、武器のない不良に向かうと、斜めから剣の柄をみぞおちに叩き込む。
うまく入れば一撃で昏倒、というところだが、生憎と相手はうなって――怒りを増して――よろめいただけだった。
「失敗か」
「馬鹿。こうやるんだ」
トルスはファドックを追う形で歩を進め、均衡を崩した相手の胸ぐらを掴むと、思い切り腹に拳を叩きつけた。
口ほど自信があった訳ではないが、ここは幸運神が味方してくれたと見え、相手は完全に目を回した。
「お見事」
「あー、まいったな」
自分の取り分と主張したところは、もう終わらせてしまった。だが、ここで見物を決め込む訳にもいかない。ファドックの言う通り、武器がないからと言ってトルスを見逃してくれるはずもないのである。
「すまなかった」
いきなり、ファドックが謝った。トルスは瞬きをする。
「何だよ」
「戦法も失敗した」
どういう意味――かは、聞き返さなくても、判った。彼らは、刃物を手にしたちんぴらふたりに、挟まれる形となってしまったのだ。
「やっぱり、実戦は難しいな」
「俺のことは気にすんな」
自然、彼らは背中を合わせてそれぞれに対峙する。
「俺はこっちをやるから、お前はそのままそっちをやれ」
「殺る気はないけど」
「お前な。そんな甘っちょろいことで」
トルスの言葉は続かなかった。前方の男が、武器を持っていないトルスを軽んじたか、一気に突進してきたからだ。
「うおっ」
ほとんど反射的にトルスはそれをよけるようにして、それからしまったと思った。彼がよけた先には、ファドックの背中があるのである。
だが余計な心配は不要だった。
少年は背後の警戒も怠っておらず、振り向きざまに細剣を繰り出すと賊の利き手を傷つけた。他者を脅して痛めつけることには慣れている不良も、自分の痛みには弱いと見え、悲鳴を上げて短剣を取り落とす。
「すまなかった」
ファドックはまた言った。
「いまのうちに、逃げてくれ」
「阿呆。そんなつもりなら最初から手ぇ出すか」
「だがいまので判っただろう。刃物のない喧嘩とは訳が違う」
彼にはよけるしか術がなかった、そのことを指摘された。
「なら」
トルスは呪いの言葉を吐いた。
ファドックは先生とやらに怒られることを危惧しながら剣を抜いたようだ。彼も、倣うしかない。
「刃物がありゃ、いいんだろ」
仕事中であったのだ。
大きな包丁はロディスと共用で、もちろん厨房に置いてある。
だが、細かいものを刻むための小刀は、自分のものを持っていた。
普段は持ち歩くなどしないが――合間に脱けてきたから、単に、うっかり忘れて、腰紐に挟んだままなのである。
全長二十ファイン強、細い剣どころかちんぴらの短剣より心もとないが、牽制するくらいにはなるだろうと思った。




