07 あたし、可愛い?
お節介男は「必ず送るように」と言い残して店を去った。
仕事を抜け出す訳にはいかないと思ったトルスだったが、幸か不幸かその日の〈青燕〉は、そのあとぱたりと客足が途絶えた。
ひとりふたりなら、ロディスだけでも対応が可能だ。ナティカは要らないと主張したが、ロディスもまた子供の頃から知る少女をまだ子供のように思って、或いは立派な女性になったからこその懸念を覚えて、息子が友人を送るために店を抜けることを許した。
「そんなに気を使われたら、気軽にこれなくなっちゃうじゃない」
街並みを歩きながら、ナティカは不満そうに口をとがらせた。
「大丈夫よ。アーレイドは安全な街だって言うし」
「言うがなあ」
ほかを知らないから比較しようがないな、とアーレイドの若者は思った。もっともナティカだってアーレイドの少女だ。余所の街など知るまい。
「ま、今日だけは特別ってことでいいだろ。久しぶりだし。ヴァンタンの奴にも言われたし」
「そ。じゃ今回は許してあげる」
「送らない」のを許すならともかく、逆というのは理屈に合わない気がしたが、トルスは異論を引っ込めておいた。
夜の街を若い男女が並んで歩けば、それはどうにも恋人同士と見えたが、当人たちのどちらにもそのつもりはない。
トルスには現状、恋人も気になる娘もいないが――たまに行く酒場の踊り娘はいい女だと思うが、それだけだ――ナティカは誰だかに夢中である。
「どっかの旦那と進展はあったか」
昨日の今日で何もあるはずはないだろうと思いながら、しかし思い出したついでにトルスは尋ねた。ナティカの返答は当然、「あるはずないでしょ」だと思っていたのだが、そうではなかった。
「それがねっ、聞いてトルス!」
「聞いてるよ」
「恋人、いないんですって!」
ナティカは拳を握り締めた。
「へえ? 直接会って訊いたのか?」
それはなかなかの進展だ、とトルスは思ったが、ナティカはふるふると首を振った。
「違うのよ。さすがに押しかけてそんなこと尋ねる訳にもいかなくてさ。代わりに、訊いてもらったの」
「協力者がいるのか」
「うん」
ナティカはうなずいた。
「ヴァンタン」
「へえ」
いろいろな面で節介男だという訳だ、とトルスは少し呆れた。
「恋の女神の定めにゃ、余計な手出しなんかしないが吉だと思うがなあ」
「たまたま彼の知り合いだったのよ。まあ、ヴァンタンの交友関係は広いから、もしかしたら知ってるかなあと訊いたのはあたしなんだけど」
「へえ」
トルスは適当な相槌を打つくらいしかできなかった。
「ねえねえトルス。女からデートに誘うとか、どうかな」
突然ナティカは、そんなことを尋ねる。
「別にいいんじゃねえ?」
トルスは適当に答えた。
「積極的すぎるとか、引くとかないかな」
「そいつがどう思うかなんて知らねえよ」
若者は正直に言った。
「ただ俺なら、可愛い女の子に誘われりゃ気分はいい」
「あたしは? あたし、可愛い?」
「あー、まあまあじゃねえ?」
「ちょっとっ、こういうときは世辞でも褒めるっ」
「俺がいまさらお前を褒めちぎったら気持ち悪いだろが」
「……それもそうね」
ナティカは認めた。
「よっぽどの偏屈か女嫌いでない限り、悪い気はしねえんじゃねえかな。ただ、あんまし向こうを調子には乗せんなよ。安売りはすんなってことだけど」
「うんうん、しないしない。だいじょぶだいじょぶ」
少女は安売りならぬ安請け合いをした。
「でさ、トルス――」
ナティカがそのまま、逢い引きの計画についてトルスに相談しようとしたのかどうか、それは彼には判らなかった。トルスがぴたりと足をとめると、ナティカも言葉をとめたからだ。
「何? どしたの?」
「しっ」
トルスは短く声を発するとぐいとナティカの肩を抱いた。
「やっ、やだトルス、あたしには好きな人が」
「馬鹿、変な誤解すんな」
若者は顔をしかめ、小声で言うとさっと周辺を見回した。そして、まるで女を連れ込む風情で――実際、女連れであるが――小路へ入り込む。
「ちょちょちょっと、送るなんて殊勝なこと言ってやっぱりほんとは下心つき」
「な訳があるか、いいから黙れっ」
トルスはナティカの口を大きな手でふさいでしまった。一見したところでは、どう見ても少女に狼藉を働くところであるが、兄貴分の明確な指示はむしろナティカを落ち着かせた。
「何? 何かやばいのが、いた?」
「いた」
トルスはこくりとうなずく。
「まあ、何てこたないちんぴらだけどな。何日か前、ちょいといざこざ起こしたばかりだ。顔を見られたくない」
「ちょっと。何よそれ。じゃ、送ってなんかもらわない方が安全じゃないの」
「俺がいなけりゃ連中に気づかないだろが。そういう奴らは気分次第で……まじ、ヴァンタンの気にかけてるようなことが起こったかもしんないぞ」
少し脅してやっただけのつもりだが、すっとナティカの顔色は白くなった。ちょっと悪かったかな、と思う。
「あー、このまま向こうに抜けりゃ平気だろう、心配」
すんな、と続けようとしたトルスの耳に、声が飛び込んできた。
「いたぞ!」
「あの野郎、ただじゃおかねえ」
げ、と思った。まさか、町憲兵に連中の話をしたことがばれたのか、と。
だが、ちょっとしたご注進くらいなら誰だってやる。いくらビウェルがトルスを憎々しく思っていたって、わざわざトルスのことを情報提供者として説明などするはずがない。だいたい、彼らが話をしたのはラウセアで、ビウェル以上に、彼のことを洩らすはずがなかった。
「ナティカ、逃げ」
トルスは言いかけたが、待てよと、思った。
いまの声は、どのタイミングで聞こえたか?
(俺が小路の影に入り込んだあとだ)
隠れた瞬間を見られたという感じでもない。明らかにそのあとだった。トルスは少し迷い、ナティカにじっとしているよう身振りをすると、危険を覚悟で角から曲がった通りをのぞいた。
その瞬間、である。
少し離れた先で、何かがきらりと光った。
月 の光が反射したのだ、と判った。
何に。
ちんぴらの抜いた短剣に。
「今度は逃がさねえぜ、坊ちゃん。金を置いてったって許さねえ。海に叩き込まれる覚悟を決めな」
と言われたのは、トルスではない。
彼は間違っても「坊ちゃん」などとは呼ばれない。
そう呼ばれて違和感のない人物が、ちんぴらに襟首を掴まれていた。
「ファ」
(ファドック)
それは一緒に――というより、ひとりで連中を叩きのめしかけた、どこかいいおうちに仕えているらしい、小難しい言葉を使う黒髪の少年だった。
「懲りないんだな」
嘆息混じりに少年は言った。
「町憲兵隊に目をつけられて、これではもう勝手気ままな暮らしができないと、素直に反省を……するとは、別に思っていなかったが」
「やっぱり、てめえがチクりやがったんだな!」
あちゃ、とトルスは思った。向こうはどうやら確信していた訳ではなく、腹の立つガキをまた見かけたから絡んでやろう、くらいの気持ちだったのかもしれない。だがファドックの方で、町憲兵隊に注進したことを認めてしまった。
もしかしたら少年には、自分がそれを認めればトルスに迷惑がかからない、というような判断があったかもしれないが、若者にそこまでは判らない。
ただトルスに確信できたのは、こうなると不良は、本気でファドックを無傷では帰すまいということだ。




